深窓の令嬢編 20
抜かった。
悔恨すれども時すでに遅し。
いまだかつて経験したこともない激痛がお腹の中で爆発する。たった今読んだばかりの『止血法』に想いが至らぬほどに、彼は急転直下の事態に動転した。
「てめえには何人も手下を殺されたからな、ほんとうなら嬲り者にして奴隷落ちさせてやるところだが……いまは無駄な暇もねえ。惜しいがここで殺しておかねえと手下どもがブルッちまってるんでな」
「…つッ」
よろめきながらようやく迅速な治療が必要なことに思い至って、治癒の魔法を組み立て始めたところで眩暈と貧血の波が襲ってきた。
脚に力が入らずがくがくと震えてくる。目は開いているのに、瞳孔が開き始めたのか露光の調整が利かずにホワイトアウトしそうになっている。
大量の冷や汗と、急激な体温の低下。
治癒の魔法では間に合わずに気を失ってしまう。
そうだ、さっき見たばかりの止血方法を試して出血性ショック死だけは回避しなくては。
『血』を『拒絶』して……『壁』をなし『弾き返す』…。
身体に刺し込まれたナイフの刃の大きさを想像しつつ漠然と範囲を決めて、いまはもうあるかないかも自覚できない心奥の魔力にイメージを注ぎ込む。
できたのかどうかは分からない。ただ魔法の練習のときに感じた、何かを持っていかれるような感覚はあったので術式は発動したはずだ。
後はナイフをゆっくりと引き抜きつつ傷を修復していけば…。
「楽に死ねるなんざ思ってねえだろうな!」
髪の毛を乱暴に掴まれて、砦の石壁に叩きつけるように押し付けられた。
風呂にも入ってないのだろう汗臭い男の顔が、これ以上はないくらいに接近する。生臭い息が頬に吹きかかった。
「せっかくの上玉をただ死なせるのも勿体ねえ……腹の傷でくたばるまでかわいく泣き喚かせてやらあ」
ナイフで刺されてただでさえ緊急事態なのに、この男、どうやら彼を女と勘違いして、しっかりいたそうとしているらしい。弱々しい彼の抵抗に苛立つなり、いきなり張り倒す勢いで頬を叩かれた。踏ん張りが利かない彼は、そのまま蹲るように坐り込んだ。
痛い痛い痛い痛いっっ!
少し身動きするだけでも信じられないくらい痛いのに、こいつ何の遠慮もなく覆いかぶさってきやがった。ナイフの柄がこじれた。
男同士とかただでさえ遠慮したいのに、こんなむさくるしいきったない野郎にいいように蹂躙されるなどおよそあり得なかった。
そもそもその前に傷口が広がって死んでしまう!
「すぐにくたばんじゃねえぞ。ひっひ」
胸元をまさぐってくる手をどうにかしようともがくのだけれども、痛みが走るたびに瞬間的に硬直してしまう。
のしかかる男の腰が、ナイフの柄をゴリゴリと揺らす。
極限の痛みのなかで、血と同じように『神経』も遮断できるのではないかと思いついたのはまさに僥倖であった。術理の『血』を『神経』に置き換えて、部分麻酔を実行……実行……あっ、痛みが引いてきた。
首筋にむしゃぶりついてくる男の側頭部めがけて、渾身のパンチを繰り出した。無理な体勢からなので小突く程度にしかならなかったけれども、男は少し驚いたように身体を離した。
「てめえ……くそっ」
「い…やだ」
「おとなしくしやがれッ」
男がこぶしを固めて、顔面めがけて振り下ろそうとしている。蹂躙する相手の後のことなど毛ほどにも考えてないのだろう。エディはエルフの血がもたらしたのだろうすばらしい動体視力で首をひねって回避する。
少しだけ近付いた男の首に手をかけて、反撃に移ろうとしたところまではよかったのだけれども……男を窒息させられるだけの握力を彼は持たなかった。
地面を殴って痛いはずなのに、興奮で痛覚が麻痺しているのか、男が再び腕を振り下ろしてくる。
相手の喉をつかんでいるので今度は彼も逃げられない。
事態が極限状態だからか、男のこぶしがひどくゆっくりに感じられた。
『血』も『神経』も遮断できたのだから、あのこぶしだって遮断できるんじゃないだろうか。深く考察するゆとりなどない。
『攻撃』を『拒絶』する…。
男のこぶしが振り抜かれるだろう軌道を頭の中で想像して、そこに『遮断』するための『壁』を設定する。ここであのパンチを貰ったら意識を吹っ飛ばされるかもしれない。失敗すればすべてが終る。
なんなんだよ……意味わかんねえよ。
この世界に生まれてまだ何もできていないのに、こんなところで終りだっていうのかよ!
いやだ!
ふざけんなよ!
冗談じゃないって!
なんだか無性に腹が立った。
なのですべてを拒絶することにした。
あんな理不尽なパンチなんか受け入れない。
こんな男そのものも受け入れない。
こんなクソみたいな現実は『絶拒』だ。
『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』『絶拒』…!。
ぶわっと。
身体の奥から魔力が引き出された。
そのとき男のこぶしが空中の何もないところでぐしゃりと砕け、ごりっと肘の関節が抜けていくのがスローモーションのように見えた。
飛び散った血が膜のように広がり、そのすぐ後に見えない支えを失ったように血しぶきとなった。魔法が作用したのは一瞬のことなのだと、彼にはなぜだかはっきりと分かった。
呆然とする男の喉に添えたままの手から、間髪をいれずそのまま『止血』の術理を肉体の内部へと送り込む。
どうしてそんな対処法を思いついたのか、後になってもただ『冴えていた』のだと思うしかなかったのだけれども……彼は男の頚動脈を『止血』していた。
男はおそらく、破壊された腕の激痛も知らぬままに、意識を断たれた。
慎重に治癒を行いながら、ナイフをゆっくりと抜いていった。
そうして抜き終わり、傷口が閉じて出血がなくなるのを確認してから、神経の遮断を解いた。痛みが戻るのが怖かったけれども、神経が繋がらないと治りが悪くなるという前世の記憶が勇気を振り絞らせた。
わずかな鈍痛が戻ってきたけれども、それ以上には痛みもなく、何とか耐えられそうだと踏んで。そのまま気絶したい欲求を振り払って、いまだ意識の戻らぬ山賊の頭目をじっと見下ろした。
本当は衝動に任せて殺してしまいたかったのだけれども、結局彼にはできなかった。無抵抗な相手に直接手を下すというのは、普通の人間にはなかなかできるものではない。
村のいまの状況を考えて、この頭目の身柄を村に移して、取引の材料にすることも考えたのだけれども、その処置も彼にとってはあまりうまくない。
(この秘密基地で襲われたことが父さんや母さんに知られたら……それも死にかけたなんて知られたら、もうここには一切出入り禁止を言い渡されるかもしれない)
この秘密基地だけは、どうしてもそのままにしておきたかった。
村やその周辺だと住民たちの干渉がきつくてまったくプライベートが得られない彼の事情が、執着心を強くしている。独り立ちが叶うまでは、けっして譲れない線だと思い決めていた。
ならばこのまま頭目を野に放つかというと、それも現実的ではない。
彼に手ひどくやられた頭目が恨みを抱かぬ理由はなく、不毛な争いのタネを撒くようなものである。
殺すのはダメ、人質もダメ、逃がすのもダメとくれば…。
(試してみるか…)
彼は頭目の手足をしっかりと紐で拘束しながら、疲れた頭でやるべき手順を何度も検討した。死に瀕するという極限状態で始めて『魔法』という手段へのブレイクスルーを果たした彼は、ようやく『転生者』ならではのチートルートへと一歩足を踏み出したのだった。
これでノクタでの掲載水準に達しました。
改稿作業でかなり冷静になってしまいました。
簡潔で分かりやすい文章とか、難しいですねえ。




