【後編】
<三>
遠藤司は、俗に言われる『マザコン』である。
冴華は、彼と会話をしているとき日に何回も『ママ』という言葉を耳にする。
『母』とか『おふくろ』ではなく『ママ』である。
冴華より三歳年上の二七歳にもなって、人に話すときに『ボクのママ』である。
しかし、冴華はそのことに対してさほど嫌な感覚を持たなかった。
冴華には実の父も母もいない。
児童養護施設時代、彼女が中学三年生の終わりの春に、日本にいる金持ち中国人夫婦に引き取られその後普通高校へ進学、大学院まで卒業させてもらった。
施設時代の記憶は何故だかわからないが全く無いし、実の両親が何故いないのかもわからない。
だから、冴華は普通の感覚の女性、つまり『マザコン』の男性を特に嫌うような女性たちとは異なった感覚を持ったのかもしれない。
冴華は、遠藤司と話していて、『ママが、そう言った』『ママが、こうしてくれた』という言葉が、だんだんと『ママなら、そう言った』『ママなら、そうしてくれると思う』というふうに変化していることに気づいていた。
そして、そのことはもしかして、彼の母親は既に過去亡くなったというふうに聞こえてきた。
それまで冴華は、彼があまりに母親のことばかり話すので、積極的に母親のことを聞いていたが、そのときから彼に気遣い母親のことを訊くのを少し控えるようにした。
◇◆◇
冴華は遠藤司と共に彼の住居に向かっていた。
遠藤司は、学生時代から、自分の住居の中を一切教授や研究室の講師に見せたことがない。
もちろん会社の研究所の先輩についても同様に隠し続けている。
外までは来ても、家の中までは絶対に入らせない。
このため、研究所の先輩たちは彼の家の中には宇宙生命体が住んでいて彼の研究を手伝っているだとか、恐竜の卵を温めているだとか、四次元空間があり過去と未来を行ったり来たりしているとか、さまざまな科学者なりの発想で、なおかつ科学者らしからぬ根拠のない想像をたくましくしていた。
しかし彼は、そんないわば秘密の住居の中について、冴華のたった一言、
「あなたの部屋に連れてって」で、「うん。いいよ」と容認したのである。
冴華は遠藤司を『恋愛』の対象として考えることは決してなかったが、何か心に安心感を与えてくれるような気がしていた。
その気持ちが遠藤司にも伝わっていたのかもしれない。
遠藤司の連れて行った家はお化け屋敷のような古い洋館だった。
中に入ると、いきなり西洋の鎧があった。
……まさかこんなところで一人暮らしじゃないよね……
冴華はとても怖かったが、彼の穏やかそうな横顔を見てほっとした。
遠藤司はらせん状の大きな階段の下にある、これまた誰が座るのだろうと思うような大きなソファーに腰掛けて冴華を手招きした。
冴華が彼の横に少し距離を置いて座ると、彼はいきなり冴華の右手人差し指をつかんで自分の顔の方に引き寄せた。
冴華は瞬間ビクっとしたが、二度目のことで、ははあ、また自分のことを指差すのだな、と思い指を引かれるままにした。
次の瞬間、冴華は思わず声を漏らしていた。
「ひいっ!」
冴華の指は遠藤司の口の中にくわえられ、その舌で舐められていたのである。
「やっやめて!」
冴華は必死で指を彼の口から抜こうとするが、彼は左手でがっちりと彼女の手首をつかんで放さない。
そしてまた次の瞬間、遠藤司はあいていた右手をゆっくりと冴華の胸のあたりに伸ばしてきた。
冴華はもう抵抗をやめた。
遠藤司は指をくわえたまま、服の上から冴華の左胸をまさぐった。
冴華は何故抵抗するのをやめたか自分自身不可解だったが、それは遠藤司が一人の男性として冴華を求めているのではなく、子供が母親に求めているような気持ちにさせられたことだと理解した。
遠藤司はそのまま冴華の指の先をくわえたまま、服の上から冴華の胸に頬をあてがい、ちゅうちゅうと指を吸いだした。
牛乳瓶の底を二枚重ねてさらにマジックで渦巻きを書いたような黒ぶち眼鏡はすでにソファーにずり落ち、果物のパイナップルの葉のようなまばらな髪の毛が冴華の首をくすぐった。
冴華は、そのパイナップル頭をあいている左手の手の平で撫で、そのあとその手を自分のブラウスのボタンに持っていった。
右手の指を彼の口からそっと抜く。
いつの間にか冴華は自ら胸をあらわにしていた。
乳が出るわけはない。
しかし冴華の胸の先端は『気の済むまで吸っていいのよ』というふうに精一杯の主張をしているように見えた。
そして遠藤司の頭を抱え、彼に自分の胸を吸わせていた。
遠藤司と司冴華。二人のおかしな関係は続く……
夢中になって冴華の胸に顔を埋める遠藤司。
そのあと二人はしばらく時の経つのを忘れ恍惚のときを経て、ソファーの上で横になった。
◇◆◇
冴華はいつの間にかソファーで寝ていた。
果たしてどのくらいの時間が経ったのかわからない。
遠藤司に肩を揺らされ目を開いた。
遠藤司の様子は何か変だった。
眼鏡がひん曲がっていて、片方の目が眼鏡にかかっていない。
冴華は思わず吹き出した。
……パイナップルが例えられて怒りそうな顔だ…
遠藤司は住居の中を案内すると言った。
最初に入った部屋は、大きな部屋で実物大のイルカのはく製がずらりと並んでいた。
これはすごいと思っていたが、順に見ながら奥の方へ進んでいくと、途中からイルカのはく製からは『足』が生えていた。
しかも、その『足』は明らかにどこかのデパートで拝借してきたようなマネキンの足だった。
「これが半イルカ人のはく製だ」
遠藤司は胸を張って言った。
「…………」
「彼らは超音波で交信していると考えられているが、実はそうではないんだよ」
冴華はもう何も言えなくなってきた。
「ふふふふ。驚くなよ。植物が『フィトンチッド』を発していることは君知ってるよねえ」
「はい。知ってますけど」
「ここに標本としている彼らは動物だが、実はね。実はね……」と遠藤司。
「何なの?」と冴華。
「彼らは実はフィトンチッドを発しているのだ!!」と遠藤司。
冴華は、これまでかなり彼の会話に適応していたつもりであったが、さすがにデパートのマネキンの足をした半イルカ人が、植物の発するフィトンチッドを発しているという事実を共有することはできなかった。
「あの。はい、その。何て言ったらいいのか……。わっ、わかりました」
「いーーーーーーんや。ぜんぜんわかってない!」と遠藤司。
次に冴華が案内された部屋は、大小のカエルが飛び交う、とても中に入れそうにない部屋だった。
冴華はいやな予感がした。
「あのう。もしかして。絶滅認定されたオレンジヒキガエルですか?」
ところが、大きなウシガエルの間に、金色に光る体長五センチくらいのカエルがあちこちに見えた。
今度ははく製ではない。
子供のお風呂のおもちゃでもない。
間違いなく生きている。
しかも一匹や二匹どころではない。
見えるだけでも十数匹を超える。
……ええっ?あれ、もしかしてオレンジヒキガエルだ! 間違いない! すごーーーい。遠藤司!! やったあああ!!……
冴華は感激し、これまで生きていて良かったと思った。
しかし、その内の一匹が冴華の足元に跳ねてきて気持ちが少し揺らいだ。
色がはげて緑色の皮膚がところどころ見えている・・・・・。
冴華はそのカエルを指差して言った。
「あの。このカエル。色、変じゃありません? 『地』の色、みどりなんですけど」
それでも遠藤司は全く動じない。
「絶滅したと思われていた矢先、一九六六年に本種を発見した学者は何と言ったと思う? 有名な話だ。『白状するが、最初に見たときに頭に浮かんだのは、不審の念と誰かが標本をエナメル塗料の中に落としたんじゃないかという疑いだった』と感激しながら述べている。とかく発見とはそうしたものだ。ははは」
遠藤司は胸を張りそう言った。
冴華はこれを聞いてなおはっきりと確信した。
……でも、ごめんなさい。私、不審の念以外何も感じない。だってこれ。その辺にフツーいるアマガエルだもん……
◇◆◇
そこからが異様な展開だった。
◇◆◇
さらに奥の部屋には研究所の遠藤所長がいた。
冴華はいるはずのない所長の姿に絶句し、完全に混乱した。
……所長がどうしてここに……
……『遠藤所長。何ですか? どうしてここにおられるんですか?』……
冴華はそう言おうと思ったが、言葉にならなかった。
遠藤所長は言った。
「冴華クン。君は遠藤司の趣味の凄さに感心している場合ではない」
冴華は気が動転しながらも、即座に心の中で思った。
……別に全然感心してないから! ……
そしてさらに所長は言った。
「君を待っていた。司と三人でまた一緒に暮すのだ」
「司と三人でって、どういうことですか? どの司ですか?」と冴華。
「つかさとつかしゃと私だ」
冴華はますます意味がわからなくなってきた。
とても今の状況を理解することができない。
だいいち肝心のところでセリフを噛んでしまっているにもかかわらず、所長は何食わぬ顔をしている。
このままだと、とても埒があかないので、冴華は所長にお願いしてみた。
「あの……。もう一度、お応えお願いしてもらっていいですか?」
遠藤所長はゆっくりと頷いた。
「つかさとつかさとわたしゃだ」
……わっ、わたしゃ?! 普通、そこ噛むかあ? ……
遠藤所長は固まっている冴華に駆け寄って彼女を突然抱きしめた。
……どうして? やめてください! お願いやめて、ああ所長……
……あなたは決してそんな人じゃない。私の中では……
冴華にはやっぱり意味がわからない。
所長は冴華の背中に手をまわして『ぎゅーっ』と押した。
……気持ちいい……
……ものすごく気持ちいい…
……ああ……
……死にそうに気持ちいい。もう、死んでもいいほど気持ちいい……
所長は冴華の耳元でささやいた。
「君は、私が今からちょうど九年前、君を高校一年生として創った『人造人間』なんだ!」
冴華は急に現実に引き戻された。
いや、逆に空想の世界に放り出されたのかもしれない。
「じっ、人造人間って?何、何?」
「君の体は私が造ったものだ。いろいろこだわっていたら、下半身が少し大きくなりすぎた」
「ぶぶっ! 大きなお世話よ。失礼ね! ああ、そうじゃあなくて。むううう。ウソ! 私は人間よ! ちゃんと自分の意志もあるし! いくら所長だって、そんな悪趣味な冗談許せないわよ!!」
所長の目からは涙が流れだしてきた。
「そう。君は人間だ。人間なんだ。レッキとした」
「君の『脳』は私の、私の愛する妻の!司の母の……」
「君の頭の中には、そのときに死んでしまった妻の『ウメ』の『脳』が生きているのだ……」
……うっ、ウメ? 知らない。それっていつの時代の人? まさか、おウメさんとか言わないで……
「そんなの、いやあーーーっ!」
背中の二回目の『ぎゅーっ』の快感から何か記憶らしいものが頭に浮かんできた。
<四>
記憶の中の私。
◇◆◇
ピクニックセンターの入口。
入場券売り場は大変な行列である。
子供がいる。
「つかさ。バラ園が見えるよ。ちょっと待っててね」と私。
「パパ。つかさが迷子にならないようにちょっと見ていて」
「わかったよ」と夫。
「つかさの手を離しちゃだめよ」
「わかってる」
◇◆◇
東京ディズニーランドの入口。
夫が「つかさ。どこから行こうか」
「あれがいいよ」とスプラッシュマウンテンを指差すつかさ。
私が「全部ぐるっと回って予約してくる。あとで並ばないで済むからね」
夫が「じゃあオレはつかさと待ってていい? それとも一緒に行こうか?」
「大丈夫。待ってて。一人の方が早いから」と私。
◇◆◇
そして、次はシーワールドホテルの前。
大きなシャチのモニュメント。
はしゃぐつかさ。
「行くぞう。つかさ!」と夫。
「行く行く!」とつかさ。
◇◆◇
つかさの高校の卒業式。
つかさは首席で卒業生代表。
憧れのZ大学理工学部に学校でただ一人合格。
そして背の低さでも男子一番。
視力は〇・〇〇〇・・・一。
なんでも一番のつかさ。
みんなにぽんぽんと頭たたかれてる。
男子にも、女子にも。
うれしそうなつかさ。
見ていた私は、隣の夫と顔を見合わせてにっこり微笑む。
それから、それから。今の私の最後の記憶……。
◇◆◇
私は病院のベットの上。
もう、白血病の末期。
みんな隠してるけど、私は全部知っているの。
みんな泣いている。
私のベッドの回りで。
その瞬間記憶がとだえた。
<五>
ここは懐かしい家の中。
古い洋館の奥の部屋。
気がついたら、夫の遠藤雄二が目の前に立っている。
夫の頭はもう白髪混じり。
どうしたの?あなた。
私は死んだのではなかったの?
振り向くと後ろには我が息子、遠藤司がいる。
彼はもう、いつのまにか立派な大人。
でも目が悪いのは昔から同じ。
パイナップルみたいな頭も……。
……どうして? 私は生きている? ……
「ママ、ママ!! ボクだよ!! つかさ、つかさ」
すっかり大人になった息子、遠藤司が叫んでいた……。
遠藤ウメ、いえ司冴華。どっちだ!
本当に、わけがわからない。
でも、どっちでもいい。
どっちの記憶も今の私の中にある。
少し心落ち着かせると、記憶は決してだぶってはいない。
意味がわからないが、大丈夫。いえ、大丈夫でなければいけないような気がした。
◇◆◇
彼女は息子の遠藤司を抱き寄せ、共に生きている感触を確かめた。
<六>
避暑地の高原教会の礼拝堂では、挙式が執り行われていた。
神父さんの前には、初老の新郎と年の離れた下半身デブの……失礼、もとい、若くそれなりに美しい花嫁。
親族・参列者席の一列目には、牛乳瓶の底を二枚重ねてさらにマジックで渦巻きを書いたような黒ぶち眼鏡を果物のパイナップルに架けたような顔のチビ……失礼、もとい、小さめな男。
その後ろには、新婦の里親である中国人の夫妻と診療所のドクターの三人。
式を終えて新郎新婦を四人が囲み、六人で写真撮影。
ライスシャワーのあと、新郎新婦がウエディングベルを鳴らす。
第一研究所に遠藤所長からの結婚式の写真がメールで届くなり、所員は皆一様に驚いて顔を見合わせた。
所長のメッセージ。
件名:お騒がせの雄二より
本文:結婚しちゃったヨーン (*^m^*) 冴華クンと。しばらく遠藤司と三人で新婚旅行。みんなしっかりがんばってケンキュウしてネ!
「…………」
「…………」
所員の男性研究員の一人がつぶやいた。
「おい。所長、完全にキャラ代わってるぞ。顔文字入ってるし!」
「これはルール違反だよなあ。所長が遠藤司のカノジョ奪い取って、とうとう結婚しちゃったよ」
そして別な男性研究員は言った。
「オレ。遠藤司が式場から新婚旅行まで押しかけていく気持ち、何となくわかるなあ」
「ほんとに・・・」と女性研究員。
「あいつ、冴華にべた惚れだったもんなあ」
「いいえ。惚れてたっていうより、何だかずっと会いたかった人にやっとめぐり合えたって感じだったわ」
送られてきた集合写真の中には、牛乳瓶の底のような眼鏡でよく目は見えないが、満面に笑みをたたえる遠藤司の顔があった。




