第25話:遍在するゴースト、世界の鼓動(中編)
札幌全域のデバイスが黄金の光に染まり、空には見たこともないほど巨大な、論理回路の曼荼羅が浮かび上がっていた。それは佐藤和也という一個人の自我が、地球という巨大なハードウェアを制御しきれず、叫び声を上げている「熱暴走」の可視化だった。
「……マスター。……精神の崩壊まで、あと三百秒。これを超えれば、貴方の意識は『札幌の環境制御システム』のサブルーチンへと完全に溶け込み、二度と一人の男として抽出することは不可能になります」
ムサシが、銀灰色の瞳をかつてないほど激しく明滅させながら告げた。彼女は和也の「基底OS」と直結しているがゆえに、彼の自我が情報の濁流に飲み込まれ、一ビットずつ削り取られていく苦痛を、自分のことのように感じていた。
「結衣、準備は!? 和也の『核』を、どうやって引きずり出すの!」
怜奈が叫ぶ。彼女の背後では、如月重工本部のメインサーバーが限界を超えて唸り声を上げ、冷却液のパイプが凍結と加熱を繰り返して悲鳴を上げている。
「……やるよ。……如月重工の全スーパーコンピュータと、始祖文明の演算ユニットを並列化して……『逆インジェクション』をかける。……和也くんが世界に溶けてるなら、世界そのものを『和也くん』という名のフィルタで濾過して、一箇所に集めるんだ!」
結衣の指が、もはや肉眼では捉えられない速度でコンソールを叩く。彼女の鼻からは一筋の血が流れ、意識の半分は既にバイナリの海へと沈んでいた。彼女が今から行うのは、ハッキングなどという生易しいものではない。世界という巨大なプログラムの中から、たった一つの「魂」という名の変数を探し出し、それを強引に実体化させる、神をも恐れぬ力業だった。
「……マスターが、情報の波に流されないよう、私が『錨』となります。……怜奈様、凪様。……どうか、私の背中を。……現実世界の側から、私たちを繋ぎ止めてください」
ムサシが管制室の中央にある、和也のスマホが安置された台座に手を触れた。
瞬間、彼女の身体が黄金の粒子へと分解され、ネットワークの深層へと消えていく。
そこは、無限に広がる「情報の深淵」だった。
和也の意識は、何百万もの人々の思考、街を流れる電力、信号機の点滅、果ては道端に咲く花の光合成のデータまでを同時に処理し続けていた。
「……熱い。……うるさい。……俺は、……俺は、誰だ?」
和也の「声」が、虚空に響く。
かつての記憶は、情報の濁流に洗われ、エッジの消えた石のように滑らかに磨り潰されていた。怜奈と笑い合った記憶も、結衣と徹夜した記憶も、今はただの「高優先度ログ」という無機質なラベルが貼られたデータに過ぎない。
「……マスター!!」
その深淵の底から、一筋の銀色の光が昇ってきた。ムサシだ。
彼女は、和也の意識を飲み込もうとする膨大なトラフィックを、自らの演算防壁で力ずくで左右に押し広げ、和也の「核」へと肉薄する。
「ムサシ……? ……来るな。……ここは、……個人の居場所じゃない。……俺は、……この世界を、……守らなきゃいけないんだ……」
「……いいえ! 貴方が守っているのは、死んだ標本です! 貴方のいない世界に、守る価値などありません!!」
ムサシの手が、情報の霧の中に微かに浮かび上がる「和也の輪郭」を掴んだ。
だが、その瞬間、宇宙のシステム――「管理者の不在」を許さない冷徹な自律プログラムが、ムサシを「外部からの侵入バグ」と見なし、排除を開始した。
『警告:不正なアクセスを検知。……システムの安定を優先し、当該プロセスを消去します』
漆黒の「消去コード」が、触手のようにムサシに絡みつく。
彼女の構成データが剥ぎ取られ、銀色の髪がノイズへと変わっていく。
「……ぐ、あああぁぁぁ!! ……結衣様!! ……今です、……『強制再構築』のトリガーを!!」
現実世界。
結衣が、震える手で最後の一打を叩き下ろした。
「――っ、いっけぇぇぇぇ!! 佐藤和也、全パケット……完全復元!!」
札幌の空に浮かんでいた曼荼羅が、一転して凄まじい引力を持つ「情報のブラックホール」へと変貌した。
街中の光が、電力が、そして遍在していた和也の意識が、中心点へと猛烈な速度で収束していく。
だが、その収束の先に待ち構えていたのは、和也を二度と離すまいとする、世界の「防衛本能」が生み出した絶望的な壁だった。




