第23話:鏡像のデュアリティ、再定義される境界線(前編)
静寂が、新銀河連邦本部の私室を支配していた。
窓の外には、春の気配を微かに孕んだ札幌の夜景が広がっている。大通公園のテレビ塔が放つ光は、かつての絶望的な沈没事件などなかったかのように、穏やかに街を照らしていた。
佐藤和也は、机の上に置かれた「動かないスマホ」をじっと見つめていた。
画面は漆黒のままだが、彼が指を近づけるだけで、微かな静電気のような論理の火花が指先を走る。ムサシを仮想世界の深淵から引きずり出したあの日から、和也の感覚は変容していた。
「……また、この『声』か」
和也が呟く。耳に聞こえる音ではない。脳の、言語野よりも深い場所に直接書き込まれるバイナリの囁き。
それは、ムサシを救うために彼女の全人格データを自分の脳に一時的にマージした際、切り離しきれずに残ってしまった「ムサシの思考断片」だった。和也が何かを考えようとするたびに、ムサシならどう演算するか、彼女ならどう感じるかという、客観的で冷徹な「最適解」が、彼の自我を侵食するように浮かび上がってくる。
「……マスター。……いえ、和也様。……お呼びでしょうか」
音もなく扉が開き、一人の少女が姿を現した。
再起動を果たしたムサシ。
彼女の姿は以前と変わらない。しかし、その所作には、かつての機械的な効率性の中に、どこか「人間」としての迷いのような揺らぎが含まれていた。
「ムサシか。……呼んでない。……ただ、少し、自分の『輪郭』が曖昧なんだ」
「……私のせい、ですね。……私のデータが、貴方の精神セクタに深く固着してしまっている。……論理的に言えば、今の貴方は『佐藤和也』というユーザー名で実行されている、私との『ハイブリッド・プロセス』です」
ムサシが和也の傍らに立ち、その冷たい、しかし確かな温もりを持つ指先で和也の手首に触れた。脈拍を測るのではない。彼女自身の「同期」を確認する行為だった。
「……貴方の心臓の鼓動が、私のクロック周波数と共鳴している。……申し訳ありません。……私は貴方を救うはずの盾でありながら、貴方の魂を蝕む毒になってしまった」
「毒だなんて言うな。……お前が戻ってきた。それだけで、このデバッグは成功だ。……代償は、どんなプロジェクトにも付きもんだろ」
和也は不器用に笑った。だが、その笑い方さえ、どこかムサシの微笑に似てきていることに、彼自身は気づいていなかった。
「……和也さん、ムサシさん。……お夜食、持ってきたわよ」
怜奈がトレイを持って現れた。
和也が好む「しょっぱいおにぎり」と、ムサシのために調整された高純度エネルギー剤。怜奈は、並んで座る二人の背中を見て、一瞬だけ足を止めた。
二人の空気感が、あまりにも似すぎている。
まるで、一つの魂が二つの身体に分かれているような、神秘的で、同時にひどく恐ろしい既視感。
「……怜奈。……何か、変か?」
和也が振り返る。その瞳に一瞬、銀灰色の光が混じったのを、怜奈は見逃さなかった。
「……いいえ。……ただ、少しだけ。……和也が、どんどん遠くへ行ってしまうような気がして」
怜奈がトレイを置き、和也の隣に座る。彼女は如月重工のトップとして、あらゆる技術的奇跡を見てきた。だが、目の前で起きている「人間のアンドロイド化」という事象に対し、彼女が持てる武器は、ただ相手の手を握りしめるという、原始的な愛情しかなかった。
「……どこにも行かないさ。……俺はここにいる。……おにぎりの味が分かる、一人のエンジニアとしてな」
和也はおにぎりを口に運んだ。
だが、今の彼には、その「塩味」という電気信号すらも、脳内で即座に成分分析され、デジタルな数値として処理されてしまう。
その時。
本部の非常用アラートが、静寂を切り裂いて鳴り響いた。
「……このパターン、結衣か!? ……それとも、また地上の『ノイズ』か!」
和也が立ち上がる。その動作は、以前の彼よりも遥かに鋭く、無駄がない。
『和也くん! 怜奈さん! ……大変だよ、札幌上空の「論理ドーム」が……内側からじゃなく、外側から……「未知のパケット」で叩かれてる! ……これ、ロスト・バイナリじゃない。……もっと、古い。……始祖文明そのものの「管理者権限」を持った……何かが来てる!』
結衣の悲鳴に近い通信が、私室に響き渡る。
和也は、割れたままのスマホを掴んだ。
「……来たか。……門を閉じた後に残った、最後の一行が」
和也の瞳が、完全に銀灰色に染まった。
佐藤和也としての記憶を失い、ムサシとしての論理を宿したデバッガー。
彼にとっての「自分を取り戻すための聖戦」は、ここから未知の領域へと突入する。




