1-9
春人が鳥居をくぐった瞬間、空気が変わった。
それは気のせいではなかった。
木々のざわめきが急に遠ざかり、虫の音も、風の気配さえも消えた。
まるで、外の世界から切り離されたかのような――沈黙の領域。
春人は、息を詰めたまま立ち止まった。
境内は、思っていたよりもずっと広かった。
人が入っていないはずなのに、雑草は不自然なほど生えていない。
代わりに、足元には小さな白い花が、ひっそりと群生していた。
ひとつ、ふたつ。
それらは夜の光を吸っているかのように、かすかに発光して見える。
地面にぽつぽつと咲き、それぞれが人の手のひらほどの大きさで、半透明な花びらを持っていた。
どこかで見た記憶があった。
――夢だ。
あの白い花。揺れていた。
それは風ではない。何かの脈動のように、ゆるやかに、しかし確かに動いていた。
(……なにこれ)
春人は足を進めた。
奥へ進むごとに、花は増えていく。
不思議なことに、踏まないように歩こうとしても、花はどこまでも連なっていた。
その一つ一つが、人の眼をじっと見上げているような錯覚を覚えさせる。
やがて、視界の先に建物が現れた。
本殿――神社の最奥部。
鬱蒼とした木々に囲まれ、月明かりに浮かぶその姿は、まるで息を潜めているようだった。
しめ縄はそこにもかかっていたが、朽ちていて、今にもほどけそうだった。
本殿の扉は、半分だけ開いていた。
誰かが入った形跡。あるいは、最初から“開かれているべきもの”だったのか。
春人は胸の高鳴りを抑えながら、手をかけた。
重々しい扉が音もなく開く。
その中にあったのは――
「……!」
本殿の内部は暗く、広く、そして――奥に、何かが“咲いていた”。
白い。
いや、白とは言い切れない。
ほのかに青く、紫がかっていて、光を内側から放っているような花だった。
それは花というにはあまりにも大きく、
まるで人ひとりが丸ごと埋まっているような、不自然な膨らみを持っていた。
周囲にも同じような花が、いくつも、静かに咲いていた。
その中には、人の形のように膨らんだものもあった。
目をこらすと――布のようなものが絡まっている。
着物の袖。あるいは、服の裾。
確かに“人”だったものが、花に取り込まれ、苗床のようになって咲いている。
春人は立ち尽くした。
怖いと思う前に、目が離せなかった。
それは、美しかった。
異常な光景なのに、何かに魅せられるように心が奪われる。
恐怖と陶酔のはざまに浮かんで、ふわふわと足元が浮いていくような感覚。
春人の身体は、ゆっくりと前へ進んだ。
本殿の中心。もっとも大きな花の前まで。
それは、まるで彼を待っていたかのように、わずかに揺れた。
花の中心には、何かが埋まっている。
白い布がかぶせられ、その下には、人の頭蓋のような丸みがあった。
それを見た瞬間、春人の中で何かが――“揺らいだ”。
(触れなきゃいけない)
その想いが、胸の奥から湧き上がってきた。
触れてはならないもの。
ずっとそう言われて育った。
それでも、いまこの瞬間――
触れたいと思ってしまった。
春人は、手を伸ばした。
花の縁に指が触れる。
ぬるりとした感触。けれど、拒まれる気配はない。
そのまま、春人は、中心にある“御神体”に、指をかけた。
その瞬間――
頭の奥で、何かが“開いた”。
視界が、白く弾けた。
音も、感覚も、すべてが消え――
春人の意識は、そこで途切れた。