3-10
春人は縁側に座ったまま、ぼんやりと暮れかけた空を見つめていた。
夕暮れの光が山の向こうへと沈み、村の景色が徐々に色を失っていく。
かつて過ごしたこの村の夜は、こんなにも音がなかっただろうか。
虫の声すら遠く、風が木々を揺らす音だけが耳をかすめる。
静寂の中、昼間に交わした椿の言葉が胸に残っていた。
「次の祭りで、あなたが――この村を救ってくれるの」
あの時の椿の笑み。
あれは確かに、柔らかな笑顔だったはずだ。
けれど、あまりに確信めいていた。まるで未来を既に知っているかのような、神託を語る巫女のような眼差しだった。
「救うって……何をだよ……」
ぽつりと、声が漏れた。
答えは返ってこない。返ってくるはずもない。
春人の隣には誰もおらず、ただ茜色の風だけが吹き抜けていく。
遠く、神社のある山の方角へ目を向けると、梢の影の奥にかすかに白いものが揺れているような錯覚を覚えた。
花だ。
まただ。
まぶたの裏に焼きついている、あの花の幻影。
記憶の奥底に沈んでいる“なにか”が、その花の奥にあるような気がしてならなかった。
村長宅の廊下を歩いていると、廊下の奥から灯りが漏れていた。
障子の隙間から中を覗くと、村長が一人、帳面を前に静かに座していた。
「……こんばんは」
声をかけると、村長はゆっくりと顔を上げた。
柔和な表情。人当たりのよい笑顔。
「春人くん、どうしたね。夜の散歩かい?」
「……ちょっと、眠れなくて」
「まあまあ、若者は眠るより悩む時期だ。悩むことで大人になるもんだよ」
そう言って村長は微笑み、脇にあった湯飲みを手に取った。
「椿がね、嬉しそうだった。君が戻ってきたって、まるで春が来たみたいだってさ」
「……はい」
「君はあの夜、よく生きて戻ってきてくれた。いや、奇跡と言ってもいい。君の存在は、この村にとって特別なんだよ。きっと……“選ばれた”んだろうね」
その言葉に、春人は何も言い返せなかった。
“選ばれた”――それは椿も口にした言葉だった。
あの夜、神社で何があったのかは、いまだ思い出せない。けれど、皆が口を揃えてそう言う。まるで、そこに疑いの余地はないとでもいうように。
「春人くん、どうか無理だけはしないように。今の君には、ゆっくり“思い出す”時間が必要なんだ」
「思い出す……」
「そうさ。きっとその時が来るよ。花が咲くように、静かに、でも確実に」
村長の声は穏やかだった。
しかし春人の背筋には、またぞくりと冷たいものが走った。
“花が咲くように”――なぜ、その言い回しがここでも出てくるのか。
村長はにこやかに湯飲みを傾けていた。
春人の目の前にあるのは、昔と変わらぬ笑顔のままの村長だった。
だがその背後に、なにか得体の知れないものがじっとこちらを見ているような、そんな錯覚を覚えた。
その夜、春人は再び眠れなかった。
布団に入っても、目を閉じれば、椿の熱、真希の涙、楓の沈黙、そして、花の幻影が交錯して頭の中をかき乱した。
明日になれば、少しはわかることがあるだろうか。
春人は、胸の奥にじわじわと膨らむ不安を押し殺しながら、ようやく目を閉じた。
だが、眠りの淵で――再び“白い花”が春人の夢を侵食し始めていた。




