序
夏が近くなり、日差しはゆるゆるとその苛烈さを増していた。大陸諸国の中では北国と呼ばれる部類に入るガルダニアでも、それは例外ではない。
人が迫り来る暑さに既にうんざりし始めているのに対し、花壇の花はそのほとんどが開き、今が盛りとひしめいている。だが、王宮の中でも奥まった片隅にあるそれらを愛でる者はいなかった。
いなくなった、という方が正しい。主を失った宮は、今は全ての部屋に鍵がかけられ、最低限の掃除の他は人の出入りもなく閑散としていた。
ガルダニア王太子ランセリオール=エリアスは、掃き清められた階段に腰を下ろし、特に何をするでもなくその庭園を眺めていた。花を揺らした風がエリアスの頬を撫で、赤茶の髪を弄んで駆け抜けていく。
遠くで鈴が鳴った。おそらく、まだ取り付けられたままだった呼び鈴が風に揺れたのだろう。記憶の中にある歩揺が揺れる音と良く似たそれに、エリアスは目を閉じた。
この宮は一箇所の扉を閉じてしまえば他に出入り口がない。ガルダニア王宮の奥宮は他国の例と比べても閉鎖的だが、中でも一目で閉じ込めるためのものとわかる作りだった。ささやかな花壇は目を楽しませるが、幽閉生活においては何の慰めにもならなかっただろう。
この宮の最後の主は、紫紺の髪と晴れた日の海のような深い青の瞳を持つ、エリアスの一つ年上の従姉――巷では親兄弟を殺された前王朝の悲劇の王女と名高い、ルイセルーエ=アウローラだった。
『千の扉よ、満を持して開け
黄昏の王は眠り 暁の姫が謳う
銀の星二つ 金の星一つ
大いなる闇が その眼を閉じるまで』
まだエリアスが伯父王の後宮に自由に出入りすることが許されていた幼い頃、ルイセルーエは東方から嫁いできた母から教わった歌をよく歌っていた。弓を使って奏でる六弦琴の音色に乗せて、そのときだけ祈るように真摯に歌う彼女を一番近くで見ているのが、好きだった。
その歌は、彼女の信仰の証。彼女の心の奥深くに根差したそれを垣間見ることができる――そんな気がする、その時間のためだけに、幼い彼は後宮の彼女の部屋に通い詰めていた。
『あら、また来たの? エース』
『来てはいけなかったのですか』
『そうではなくて。貴方は叔父上の跡継ぎだから、たくさんお勉強があるのでしょう? こんなところで遊んでいていいの』
『その勉強の間の気晴らしですよ』
ふうん、と首を傾げる彼女の目の前で、持ってきた本を広げてみせる。すると彼女は寄って来て、何を読んでいるの、とエリアスの手元を覗き込む。その瞬間に香る仄かに甘い香りに、頬が熱くなって。
そんな彼の変化に気付きもしないルイセルーエは、持ち前の好奇心を発揮して本の中の気になるところを質問してきた。彼女は王の第二子で王女だったから、教養や礼儀作法の他にこれといった学問をしていなかった。
年の離れた彼女の兄王太子は既に参政し、国王の側近達から頼もしい後継者として賞賛されていた反面、政略の駒にしかなりえない王女をまともに省みる者は家族以外にいなかった。彼女の身の回りを世話する侍女でさえ、二言目には『姫様はいつか、父君様や兄君様の助けとなるような御方に嫁がれるのですから』が口癖だった。
そんな事情があったから、自然、年齢の近いエリアスが教師役になった。生徒としてのルイセルーエは非常に優秀で、知識をよく吸収したし、それに疑問を持って、互いに子供ながら中々有意義な討論になることもあった。
『エース。私、いつかもっと広い世界を見てみたいわ』
王女として生まれ、王女として生きることを望まれ――それ以外に生きる術のない彼女。
王家に生まれた以上、その生命は国のために消費される。情け容赦の欠片もなく、有史以来の王族の大部分がそうであったように。自分達もまた、歴史という荒波に翻弄される小船に過ぎないのだと――誰に言われるでもなく、悟っていた。
だが、それを忘れたように、ルイセルーエは夢を語る。
『まずは母上様の故郷へ行ってみるの。皇帝陛下に、いつもお気にかけて下さっていることを御礼申し上げるのよ』
『その後、ヴィーフィルドの皇王陛下に拝謁をお願い申し上げるの。聖女様にもお会いしてみたい。どれほど私達の信仰が深いか、いつか聖女様にお伝えしたいわ』
『王宮の外はどうなっているの? たくさん人がいて、物が売られているって本当?』
そして、何より彼女が望んだのは。
『ねえ、エース。海ってどんなものかしら。貴方は見たことがある?』
純血の水の民である母王妃から伝え聞いた、海をよく見たがっていた。
エリアスは父の視察についてガルダニア西部に広がる海を見たことがあったから、その雄大さを語ってやることができた。彼女にとっての世界は彼の言葉で構成される。その事実に仄暗い優越感があった。
……いつもどこか寂しげな目で窓から、庭園から、切り取られた空を見上げる彼女を見ていると、胸に刺すような痛みを覚えるようになったのは、いつからだっただろう。
『エース、エース! イヤルドに行って来たのでしょう? 貴方が見たことを教えて』
箱庭から出ることの叶わぬ彼女に、いくら自分が見てきた世界を語って聞かせても、足りないと焦りを覚えるようになったのは、いつだっただろう。
『……いいなあ』
羨望と――嫉妬が混じった深い青の眼差しに、焼かれるような心地を覚えるように、なったのは。
『ルーエ――いつか、僕が君に、世界を見せてあげます。行きましょう、一緒に』
そんな約束をしたのは、いつだっただろう。熱くもなく寒くもない……ああ、そうだ。庭園へ向けて開け放した扉から、結実した真珠草が揺れているのが見えていた。夏に真っ青な花を咲かせ、秋から冬にかけて真珠のような硬さと光沢を持つ実を結ぶ、まるで彼女の体に流れるもう一つの民族の血を象徴するかのような花。
『僕が騎士になって、ルーエを守りながら旅をするんです。ルーエは王女殿下ですから、僕が不心得者から守ってあげますよ。だから待っていて下さい。僕が騎士になるまで』
ルイセルーエ――奇しくも彼女自身が焦がれた海の色を瞳に持つ、僕の王女。
待ってるわ、と彼女は、エリアスが好きだった太陽のような笑顔で頷いた。いつまででも待つわ、と。
『この花を、貴女に。待っていて下さい』
差し出した真珠草――花言葉の一つに、「報われる忍耐」。
(僕が君を守れるようになるまで、どうか)
――けれど。
『触らないで、この簒奪者……!』
約束を守れなかったのは、エリアスの方だった。何をどこで間違ってしまったのだろう。どこで止めていれば良かったのだろう。
伯父王が愛する妻のために王宮をアーラントードのそれに似せて改修していくことか、それともたった一人で嫁いできた王妃が、娘に自らの信仰を継がせることか。ガルダニア王女でありながらアーラントードの衣装を纏い、簪を挿し、後宮内に引かれた水路に入って祈りを捧げるルイセルーエを、強引にでも水から上がらせれば良かったのか。
「ルーエ……それでも僕は、君の歌が好きでした」
王妃が東方から輿入れする際に持ってきた六弦琴。異国の音階が奏でる音色に信仰を乗せて、白亜の水路の中に佇む君が澄んだ歌声を響かせる。エリアスはそれを横から眺めているだけ。入り込めない――否、王弟アーレウス公爵の嫡子として、入り込んではいけない時間。
(でも、見ているだけなら自由だった……)
異民族の血を引く証の紫紺の髪。ガルダニア人にはありえない海の色の瞳。ガルダニア人でありながら、ガルダニア人ではない王女。
何事もなければ、従兄がガルダニア王となり、彼はその治世の支えとなるはずだった。王族公爵として王女の降嫁を願い出てもおかしくない。
「そうしたら……一緒に、世界を見て回ろうと、思っていたんですけどね……」
エリアスは座っていた階段から腰を上げた。もう手入れすら入らない花壇の片隅。従姉をこの宮に閉じ込めた時にその一角だけ、人知れず彼が手ずから植えた花を探して。
あるはずがないと分かっていた。あの花は一年草だ。けれどもしかしたら、結んだ実が落ちて、また芽吹いているかもしれない。そんな微かな希望に縋って。
……けれど、季節から考えて、一つ二つ咲いていてもいいはずの花は、一輪も見つけられなかった。他の雑草に邪魔されて、居場所を失ったのか。あるいは実が鳥に喰われたのか。
(これが現実だ)
もう忘れよう――これで何度目の決意だろう。思わず自嘲が唇を歪めるのを感じた。
日の傾き具合から察するに、そろそろ戻らなければならなかった。戻ってまた、王太子としてたくさんの会議に出席し、書類に目を通し、父王と今後の施策について話し合わなければ。
花壇から、沈黙する離宮から目を背け、エリアスは歩き出した。
もう、歌は聞こえない。