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夜明けの後に  作者: 木之本 晶
外伝 命を運ぶもの
10/37

一 暗雲、再び

 ちちち……と庭園を訪れた鳥達が囀りを交わす。

 それを聞きながら、少女は手に持っていたペンを置いて大きく伸びをした。

「ああ、肩凝るなぁ。お茶でも淹れて休憩しようっと」

 その呟きに返事はない。彼女の執務室には、現在彼女一人しかいないからだ。執務机の上に積まれた書類は右と左に半々ずつ、決裁が終わったものとそうでないものが種別・土地別にきちんと分けられている。最も彼女はこの春から自身の領地の執政を本格的に執り始め、また中央政府での雑事も担い始めているので、仕事量は増えることはあっても減ることはない。しかし。

「平和だ……」

 開け放した窓から吹き込む風は、穏やかに暖かい。急ぎの案件もなく、ゆっくりと勉強と執務に時間を費やせるとは何と贅沢なのだろう。

 決して暇とは言いがたいが、様々な意味で落ち着いたこの時間を、彼女――ヴィーフィルド皇国第一皇女シェランティエーラ=リディオスはこれまた様々な意味で謳歌していた。

 彼女専用にと用意された執務室は皇王や皇太子のそれと比べると格段に狭かったが、有事の際は重鎮が一堂に会して緊急会議を開けるあちらの方が広すぎるというのが彼女の言い分だった。一人で書類仕事をするだけなら、民家の居間くらいのこの広さがちょうどいい。

 茶を飲む間も書類に目を通すことはやめられない。まだ慣れない上に次々に新しい種類のものが運び込まれてくるから、きちんと読み込んでいかなければ決裁印を捺せないのだ。

「……つまり、新種改良の研究費用助成申請か。ちょっと誰かに相談、と。こっちは……謁見申請? 何これ、こんな理由で謁見なんかしてる暇ないんですけど。却下。で、次が……ジェラルド騎士団との合同演習願? まず団長に話を通すのが筋でしょうよ……何私に段取り付けさせようとしてんの、あの狐顔。差し戻しね」

 答える者はいないのだが、喋っていないと沈黙が微妙に痛いということをここ最近で学んだシェランは、独り言を延々と呟く。これが意外にも思考を整理するのに役立つから、一度始めるとやめられないのだ。

 一通り書類を読み終わると、茶碗を置いて執務机に戻る。個人紋章を象った決裁印を、捺せると判断したものに捺し、署名していく。後は昼休憩を挟んで誰か手が空いている先達に相談しながら行うことにする。

 その昼休憩までまだ時間があることを確認すると、おもむろに執務机の一番下の引き出しの奥から紙の束を取り出した。

 びっしりと文字が書き込まれたそれをめくり、しばらくして唸る。

「うー……改めて読み返すと穴だらけだわ……これじゃ組織として運営できないよね。慈善事業じゃないんだから、商業組合とかと連携して利益を回せるようにしないと」

 最初から練り直した方が早いかなぁ、と呟きながら、シェランは何度もペンに手を伸ばし、書くことが思いつかずそれを置く。五回ほど繰り返したとき、執務室の扉が叩かれた。

「シェラン? 僕だ」

 慌てて紙の束を開けたままだった引き出しの奥に押し込めると、シェランは入室の許可を出す。

「どうぞ」

 入ってきたのは彼女の婚約者、ヴィライオルド公子リヒトクライス卿ソルディースである。入室と同時に、彼は緑柱石の瞳を眇めた。

「さっき紙が潰される音が聞こえた気がしたんだが、何を隠した?」

「……書き損じた許可証とか」

 視線が泳いでいる。答えも少し間が空いたので明らかに怪しいが、彼は嘆息しただけでそれ以上深く追及しなかった。

「あまり根を詰めるなよ。婚儀まであと一月だ」

「目の下に隈がある花嫁なんて目も当てられないって? それ、お祖母様にも散々言われてるわ……」

「そこまで言ってない。大体そんなもの、化粧で隠せるんだろう? 僕が心配しているのはお前の体だ。それでなくとも細いのに……」

「体力はあるもん」

「……問題をすり変えるな」

 最近、この婚約者は小言が多くなってきたとシェランは思う。

 しかし『水鏡』などで連絡を取り合い顔を見ていたとはいえ、これが半月ぶりの再会だったから、嬉しいのは確かだった。立ち上がって広げられた両腕の中に飛び込む。

「お帰りなさい。会いたかった」

「僕もだ」

 第三者がいないから、こうして抱きしめられるのはまだ許容範囲内だ。顎を捉えられ、シェランは目を閉じた。触れるだけの口付けがいくつも降ってくる。

 実のところ、婚約当初の予定通りに物事が進んでいれば既に夫婦だったのだから――と、双方の両親も祖父母も臣下達もこの二人の触れ合いは見て見ぬ振りをしている。皇王などは数ヶ月前、ソルディースに対し皇子宮に居を移しても構わないとまで申し出たのだが、さすがにそれは外聞が悪いと当人が辞退した。とある人物がその背後で殺気を放っていたことは――少しだけ、関係あるかもしれない。

 離れていた時間を埋めるように首筋に顔を埋めてくる婚約者に、シェランは問いかけた。

「でも予定ではもう少し遅くなるんじゃなかった? ちゃんと国境視察、できたの?」

「ああ……半永久固定転移陣の試験運用に付き合わされたんだ。例のフィオナ様の。おかげでかなり日程が短縮できた」

「それにしては疲れてるのね……ちょ、首に息かけないで」

「いつ『通路』が爆発するかと……視察より移動の方が疲れた」

「……なら座ったら?」

 絹張りの柔らかい長椅子を指すと、なぜかシェランも引き摺られるようにそちらへ連れて行かれた。

「ねぇ私、仕事が」

「一通り目は通してあるみたいだが?」

 シェランはくっと顔を背けた。これだから色々知られている相手は。

「鐘が鳴るまでよ。そしたら休憩室に行くんだから」

「ああ」

 シェランとしては正直なところ、疲れているのに人を強く抱きしめていて平気なのかと思うが、それはそれ、これはこれということなのだろう。広い背中に手を回してとんとんと叩いてやると、彼女の体に回った腕が力を増した。……対応を間違ってしまったらしい。大きな子供のようだと思わずシェランは笑ってしまった。

 正午を告げる鐘が鳴ったのは、それからしばらくしてのことだった。



「離れろ」

 休憩室に入って一番に言われた一言に、ソルディースはすかさず反駁した。

「何故お前に言われなければならない」

「言わなければわからないか? お前達は婚約者だろう」

「だからこうしてエスコートもしているんだが」

「婚約者はあくまで婚約者だ。節度ある行動を心がけろ」

「……お前が言うか、アルトレイス!?」

 間に入るのも馬鹿馬鹿しいので、シェランは早々に戦線離脱していた。やるのはいいが自分を巻き込まないで欲しいと思う。

「節度は大事だ。我々は民の手本でなければならない」

「おまっ……一体どの口が言うんだ!? この間、会議をすっぽかして僕達の婚儀の招待客の席次に文句をつけていたと聞いたぞ!」

「それがどうした。結論が出ないことがわかっている利権絡みの会議に参加するより、余程有意義な時間の使い方だろう」

 胸を張るアルトレイスである。しかし彼独自の価値観は、少々余人には理解しがたいものがあった。同じ血に連なる一族であってもだ。

「お祖父様達はまだなの?」

 毎日のことなので、もはや仲裁する気など欠片たりとも持てないシェランである。入り口付近で言い争う二人は放っておいて、先に来ていた同胞に声をかけた。

 はい、と答えたのはイルヴァースだ。

「例の軍議が長引いておられるようで」

「今朝お会いした時はすぐ終わるって仰ってたけど……新しい情報でも入ったかな?」

「でしょうね。北の方で少々怪しい動きもありますし、近いうちに一戦あるかもしれません」

 シェランは顔を顰めた。

「交渉で何とかならない?」

「あちらでの動きが水面下でのものなので、こちらとしても動きようがないのが正直なところです。かといってこちらから譲歩してやる要素もありませんし」

「あっちの出方次第ってことね……」

 腕組みをして眉間に皺を寄せる主君に席を勧めながら、イルヴァースは肩を竦めた。

「ここであれこれ考えても始まりませんよ、姫。それより先に食事にしませんか。陛下からは良いと言伝(ことづて)を頂いておりますので」

「それを先に言ってよ」

 シェランは早速鈴を鳴らして侍従を呼ぶと、昼食の準備を頼んだ。侍従達も心得たもので、次々に料理が卓に並べられていく。一応、まだ言い争うアルトレイスとソルディースにも声はかけたものの、二人とも聞いていなかった。

 今朝レテ河で水揚げされたばかりなのだろう。生のままサラダに使われた白身の魚を新鮮な野菜と一緒に食べると、ぴりりと辛味の利いたソースが何とも食欲をそそる。今日は魚が中心の献立だった。

「でも結婚式前後に何かあるのは嫌だなぁ。ただでさえ面倒なのに」

「婚儀を面倒くさがる女性なんて、国中探しても貴女くらいでしょうね。普通は嫁ぐ日を指折り数えて心ときめかせるものだと思っていましたが」

「キティの事例を見てるからね。正直神殿での儀式はともかく、披露宴とかいらないと思うよ。心の底からお金の無駄」

「何を言うんですか。そういうところで金が回るんでしょう。支出の均衡の問題ですよ。使わなければ国庫に溜まるだけです」

「そうだけど、話をする度になんかすごい派手になっていくし……」

 その際に金銭面の話が全く出ないことが一番怖い。領主としての執務で結構な額を扱い始めているので、出た企画にどれだけ金がかかるのか何となく分かってしまうだけに、余計に怖い。

 喧嘩が一段落ついたらしく、入り口で騒いでいた二人も席に着いた。

「で、何か変わったことはあったのか? ソール」

 弟とアルトレイスの杯それぞれに、硝子瓶に入った冷茶を注いでやりながら、イルヴァースが問う。

「僕が見てきた限りでは、北東部の国境に異変はありませんでした。僕はもうこのまま皇都に留まらなければいけませんが……」

「ああ、後は任せろ。アル、南はどうだ」

「特に気になる動きはないな。金の流れも人の動きもおかしいところはない……が、かえって怪しい」

 揚げた魚を切り分けながら、アルトレイスは眉間に皺を寄せる。

「アゼリアやケレリスは少し揺らいでるが、想定の範囲内だ。あの二国は突いてやればすぐああなる。オルトニアは後継問題が面倒なことになっているから様子見だな。問題はサン=スースだ」

 肉叉に刺した揚げ魚にソースを絡めて口に運ぶと、アルトレイスの眉間の皺は幾分か浅くなった。しかしまだ無くなっていない。

「というと?」

「分からない。読めない。……しかしこれは美味いな」

「でしょう? 料理長に特別に作ってもらったの。試作品第一号よ」

「姫、今かなり重要な話の途中なんですが」

 シェランは自身も揚げ魚を堪能しながら答えた。

「はいはい。サン=スースが妙に静かなのは私も聞いてるよ」

 大公国サン=スースは、毎月違う趣旨の変な祭りを開催して常に盛り上がっているという、少々暑苦しいお国柄である。それがここ最近、「変」さが鈍っているという情報はシェランの元にも入っていた。聞いたときはそれがどうした、と思って聞き流していたが、この従兄が反応するなら何かあるのだろう。

 視線だけで続きを促すと、口に入れた魚を嚥下し終えたらしいアルトレイスが再び口を開いた。

「あの国は常にわかりやすい。内部事情が駄々漏れだ。本能的な国民性のせいかもしれないがな。それがこの一月と少し、透明度が落ちた」

「……内部事情駄々漏れって、独立国家としてどうなの……」

「我が手の者は優秀だからな。それに大体精霊が漏らす」

 揚げ魚が気に入ったらしく、アルトレイスはもう一切れを今度は違うソースに絡ませながら続けた。

「透明度が落ちるのはいいが、曇り方が少しおかしい。どこがどうとはまだ断定できないが、ああいう隠し方ができる頭の持ち主は、今はあの国にはいないはずだ」

「真正面から失礼よ。そして指示代名詞ばっかりでよくわかんない」

「だから読めないということだ。……あの陰湿な感じは嫌な奴を思い出すんだが、さすがに山脈二つを越えてちょっかいをかけているとは……いやでもあの小僧ならそれくらいはするかもしれん」

 再び眉間の皺を深くさせたアルトレイスの次なる標的は、生野菜と共に酢に漬け込まれた魚だった。今日は本当に魚尽くしだ。

「小僧って、誰?」

 一足先に食事を始めていたために既に食後の甘味に移っていたシェランは首を傾げて問うた。つるりとした冷菓には果物が閉じ込めてあり、噛みしめると果汁が口腔内にじわりと広がる。

「小僧は小僧だ。北の変態の息子の」

「……ああ。普通にエリアス王子って言ってよ。ガルダニア王太子でもディネリー公爵でも何でもいいけど、小僧じゃわからないから」

 やたらとガルダニアが嫌いな従兄に言っても無駄だとは知っているが、一応文句をつける。

「でもガルダニアって、まだちょっと国庫が苦しいんじゃなかった?」

「だから二年前、王女の降嫁にかこつけて商業都市のミルフェンを掠め取ろうとしたんだ。あそこは小さいが確実に金の生る木だからな」

 その企みは他ならぬ政略の駒であった王女本人が、本国の意向とは全く違う人物と婚姻を結んだことで水泡に帰した。

 シェランは決まり悪く座り直した。王女に裏切り行為を唆した主犯は彼女である。あれから一度だけガルダニア国王親子と面会する機会があったが、どちらも複数の土地の継承権及び二つの王位継承権を持つルイセルーエ王女をまんまと掻っ攫われたことに対してどう思っているのか今一つ読めず、非常に神経を磨り減らされたものだ。

「エリアス王子がサン=スースを操ってるってこと? あんなに遠いのに?」

「ガルダニアの王宮に一人も術者がいないわけではないし、神殿には精霊と交感できる異能者もいるだろう。その辺りの内訳は俺よりルヴァの方が詳しいはずだが」

 視線を向けられたイルヴァースは、冷茶に潰したばかりの香草を入れてかき混ぜながら答えた。

「通信系に特化したのが十人いるかいないか。攻撃系統は五人かな。防御系が得意なのが七、八人。先月の会議で報告しましたが、通信に特化して能力を伸ばしている者が何人か、王宮内から姿を消しています。どこかへ出向している可能性あり」

 先月。その符号に遅まきながらシェランは気付き、冷菓を掬う手を止めた。

「…………やだ」

「と、言われましても」

 子供のように首を振る主君に苦笑する。

「ガルダニアもサン=スースも怪しいのはわかったけど、繋がってるとか、やだ」

 ただでさえ一月後に控えた婚儀へ向けて色々と悩まされているのだ。この上国を跨いだ陰謀になど関わりたくない。

「一ヶ月は大丈夫ですよ。貴女方の婚儀が終わるまではね」

 あの(・・)ヴィーフィルド皇国の世継ぎの姫の婚姻の儀に合わせて問題を起こそうものなら、国ごと滅ぼされても文句は言えないと諸外国はよくわかっている。誰も慶事に沸く皇族達の機嫌を損ねるような、そんな命知らずな真似はしないだろう。

 ガルダニアが厄介なのは、知った上で時期を見極めて仕掛けてくるからだ。

「何なの、あの国。金欠病じゃなかったの……」

「ミルフェンを諦めていないということだろうな。うまくすれば公爵夫人をガルダニア王女に戻せる」

「私は離婚なんて認めないわよ」

「問題はそれをガルダニア王が受け入れるかどうかだ。白い結婚と証明されれば、婚姻無効の申し立てを拒絶するのは難しいぞ」

 シェランは行儀悪く机を叩いて立ち上がった。背後で不穏な音が鳴ったが、無視だ。

「エヴァはまだ十四歳よ!? 白い結婚でもおかしくもなんともないじゃない!」

「男としてはそうでもないですよ。公爵が微妙な年齢なのが痛いですね。手があるとすれば、公爵夫人に適当な男を宛が……」

 イルヴァースは最後まで発言することを許されなかった。シェランが落とした雷撃が彼の椅子を貫いたからだ。

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