君がこの手を望むなら 5
リーヴェルレーヴ城に(比喩ではなく物理的に)激震が走った後には、城の一部が瓦礫の山となっていたが、それは皇族同士の間でごたごたした時にはいつものことである。大変なのは臨時勤務で扱き使われる近衛騎士団と急遽大量の仕事を発注される城下の職人達だが、彼らも慣れたものだ。そして今回は理由が理由だったために――
「毎度毎度凄まじいですなあ」
「いやぁ、大公殿下のお怒りからして、使ってない館一つと内壁が衝撃波食らって全壊程度で済んで良かったですよ。ここは一旦更地に戻した方が早いですな」
「そうですね、新しく建て直しましょう。それで結局、ユリア皇女殿下はヴィシュアール閣下に降嫁なさるので?」
「うーん……それがリアード殿下とラウルス閣下のどちらが勝たれたのかよく分からんのです。被害があそこの、人事院の建物に行く前に皇太子殿下が紫星の剣を振り下ろされたものですから」
地面だろうと瓦礫だろうとお構い無しに焼け焦げた跡を指して、担当を押し付けられた近衛騎士は「ははは」と豪快に笑った。
その様子を離れた廊下の窓から見下ろしていたヴィライオルド公爵イルヴァースは、やれやれと嘆息した。
「アルお前、いくら可愛い姪っ子だからって、やっていいことと悪いことがあるだろ」
冷やかすような声音に、ヴィシュアール公爵アルトレイスはぐっと眉を寄せた。
「誤解を招く言い方をするな」
「ああ、この場合はやられるままになっていいことと、悪いことか」
「…………ほお、そう来るか」
ひくっと痙攣のようにアルトレイスの手が動きかける。しかしイルヴァースは冷笑した。
「ソールとやり合ったばかりで私と立ち会う気か? いくらお前相手でも、負ける気がしないな」
「言っていろ」
表情を変えないまま歩き出した同胞を、イルヴァースは窓から離れて追いかけた。
「で、結局どうなったんだ?」
「お前が知らないわけは無いだろう」
「そっちじゃないさ。もう一つの噂の方だ。我が姪の貞操はどうなっているのかと尋ねて――っと、危ないな」
背後から飛来した風の刃を結界で防ぎ、イルヴァースは声を上げて笑った。
「下種な勘繰りをするな。侮辱と取るぞ」
「相変わらず冗談の通じない奴。……だが意外でもある。お前にも宰相殿に似た部分があったんだな」
「は?」
「ほら、確かルーネイス様もフィオルシェーナ様に押し倒されたんだっけ? そういう家系なのか、エスタース家は」
アルトレイスは舌打ちした。
「知るか」
そもそも彼は両親の馴れ初めになど興味がない。
「アル」
「与太話はここまでだ。――何か俺に用があったんじゃないのか」
イルヴァースの翡翠の双眸が翳り、冷たい光を宿した。
「……南の野蛮人達が、最近きな臭いと聞いている。お前がいる以上特に問題はないと思っていたが、最近多いらしいじゃないか」
南国境での密入国の摘発数が。
「十八年前の例の件以降、巡礼目的の密入国が絶えない。それはいいとして、問題はそこに紛れ込んで来る連中だ」
「主導しているのはアゼリアだ。もうしばらく泳がせて様子を見る」
澱みなく答えるアルトレイスに、イルヴァースは端的に問うた。
「皇女殿下に危険が及ぶ可能性は」
「もちろんある。だがエルフェは賢い子だ。それも計算に入れているだろう」
皇室から傍系に降嫁・降婿するということは、国の剣となり盾となることを選ぶということでもある。もっとも国にとって最大の剣であり盾であるべき存在は国主その人だから、国主の、とした方が正しいだろう。
「お前、恋人としても夫としても最低な奴だな……」
「何とでも」
『氷の貴公子』という二つ名が本人の知らぬところで献上されて久しいが、ここまで一貫しているといっそ清々しい。
「ならば皇女殿下に関する心配はもうやめておこう」
「俺に宣言する意味が分からん」
「聞き流してくれて全く構わない。……気をつけろよ」
何を、とアルトレイスは足を止めて同胞を振り返った。
「信用していないのか」
「信頼しているとも。だが追い詰められた鼠は、時に猫を噛むらしい」
「……何が言いたい」
ちょうど廊下の分岐に差し掛かっていた。用がある先が違うので、ここで一旦別れることになる。その前に、とイルヴァースは黒髪の同胞に向き直った。
「あまり只人どもの弱さを見縊らない方がいい。……魔力保持者も結局離散して潜伏したまま、行方が知れない者が多いからな。いつかのように、心弱い君主を惑わせないとも限らない」
青金石の双眸が軽く眇められた。
「……覚えておく」
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……誰かが、泣いている。
「ちちうえ……ちちうえ……」
えぐえぐと幼い子供達がしゃくりあげる声が、陰々と響いていた。その声に導かれるように歩みを進めれば、意外にも光に溢れた明るい部屋に辿り着く。
寝台の上で身を起こしていた彼は、口元だけで笑った。
「お前達か」
なぜ、という疑問が胸を突く。
さらさらと自分の裡から流れ出ては消えていくものがある。だがまだ早い。まだ先のことのはずだったのに、なぜ。
「何があった」
彼はらしくなく、声を上げて笑った。
「さて、仔細は調べさせているところだが」
悠然と立ち上がる姿に、病臥しているという知らせが嘘だったのではと錯覚させられそうになる。だが彼等の裡で、どこからともなく流れては揮発していくものが、それは紛れもなく錯覚だと突きつける。
「つくなら、もう少しましな嘘にしたら? それとも寝すぎて、とっさには考えつかなかったの?」
玲瓏と響いたその声の持ち主は、夫君と共に厳しい表情をしていた。
「……これは、陛下。随分と急なお越しで」
「御託を聞きに来たのではないわよ、ヴィシュアール公」
勧められた椅子を断り、女皇は奇妙に平坦な声で告げた。
「私に、何か言うことはない?」
「何か、とは」
「あくまで白を切るなら、とりあえずその服を脱ぎなさい。話はそれからよ」
一同は一様にぎょっとした。何を言い出すかと思えば。
「皇王陛下――シェラン様、それは」
「ヴィルフォール公、少し黙っていて。私は今、報告義務を怠った罪人の尋問をしているのよ」
随分と過激な表現に女皇の怒りの深さを見て取って、ヴィルフォール公爵は押し留めようとした腕を引いた。
対して、座ったままの彼は微笑んだ。子供に我が儘を言われて困る親のように。
「陛下に奏上せねばならぬほどの大事は、今のところ我が領内にはございません」
そう、と呟いた女皇は、次の瞬間、彼の右腕を取って、肩まで袖を捲り上げた。
「――なら、これは何?」
無遠慮に袖を捲り上げられた腕、その様相に誰もが息を呑む。
滑らかな皮膚に覆われているはずの腕は、肩から手首に至るまでびっしりと黒い蔦のような痣が這っていた。
「呪詛ですか。……ですが」
彼が自力で返せないはずがない。少なくとも、個人に向けられたものなら。
「だが、誰が――何を」
「分からない。ただ」
女皇から腕を取り返し袖を下ろしながら、彼は淡々と語った。
「始めは子供達だった。次にエルフェに向かおうとしていた」
それで、彼等は現状に至った経緯を理解した。原因は今しがた彼が語ったように、分からなかったが。
「アル、お前……代わりに引き受けたのか」
形代、という。呪詛の対象か施術者によって払われるべき対価を、代わりに引き受ける役目だ。だが、彼がその役目を自ら引き受けるなど、誰にも想像がつかなかった。
おそらくは、彼自身でさえ。
「……貴方なら、少なくともあの子を不幸にはしないと信じて預けたのに」
「ああ、悪かった」
「きっとあの子は泣くわ」
「だろうな」
「うそつき」
女皇が、彼の椅子の傍に膝をついた。華奢な手が、彼の膝を打つ。
「にいさまの、うそつき。私より先には逝かないって、言ったじゃない」
悪い、と伸ばされた手が、数十年ぶりに彼女の頭を撫でた。
どうして、と何度叫びそうになったことだろう。
本当は、酷い人だと詰りたかった。
知っていた。わかっていた。この人にとっては何よりも母が大切であること。彼自身の命よりも母の心の方が大切と、臆面もなく宣言しているのを、幼い頃から聞いて知っていた。
それでも良かったのだ。彼の娘であってもおかしくない年齢の自分を妻に迎えてくれて、愛してくれたことは事実だ。ただ、与えらえたその愛が自分が彼に向けるものや、彼から向けて欲しいと願っていたものとは違っていただけで。
何よりも大切な従妹の、いつでも『いい子』だった長女が、初めて言った我が儘だったから。だから、叶えてくれた。それだけだ。
それなのに。
「エルフェ」
どうして、と何度目か分からない問いを心の中で押し殺す。
優しい、優しい声に、いかないで、と縋りそうになる。おねがいだから――……
「おいで」
起き上がることさえ苦痛であるはずなのに、おくびにも出さず微笑んで腕を広げる夫。負担をかけたくなくて、それでもその誘惑には抗えなくて、そっと身を寄せて背中に腕を回せば、宥めるような口付けが額に落ちた。
ゆっくりと髪を梳き下ろされる感覚に、泣きたくなる。
「泣くな……と言っても無理か」
知らぬ内に零れていたらしい涙。それを指の腹で、背で拭い取ってくれるぬくもりは、いつまで在るだろうか。
「俺は、お前を幸せにしてやれただろうか」
「過去形で仰らないで」
広い胸に顔を埋めながら文句を言うと、彼女の頭上で、夫が笑った気配がした。
「してやれた、なんて言わないで……。幸せにくらい、自分でなれます。今だって」
そう、今だって幸せだ。愛する人の腕の中にいられる。これが幸せでなくて何だろう。
「愛しています。……貴方を愛し続けられるだけで、こんなに幸せなのに」
どうして。
続きそうになった言葉をとっさに飲み込んで、彼女は俯いた。
「エルフェ。俺はお前とシェランなら、今でも迷わずシェランを選ぶ」
「はい」
回された腕に、緩やかに、しっかりと力が込められる。
「それでも……お前が妻となってくれて、俺は幸せだったよ。とても」
ああ、なんて――
「ずるいひと……」
欲しくて仕方がない言葉だけは、最期まで。
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ヴィーフィルド皇紀4044年十二の月、ヴィシュアール公爵にしてアルモリック卿、王子アルトレイス=ラウルスの薨去が発表される。
享年四十九歳。
若すぎる死に、当然のことながら多くの疑惑が寄せられた。それを裏付けるかのように、この頃の皇族達の動きは――こういった時代では珍しいことではないが――公的資料が一切欠落し、判然としない。
事実として記されているのは、翌4045年、南方諸国との間に大規模な戦争が起こったことである。数年に及ぶ激戦の末、当時ヴィーフィルドに隣接していた南方アゼリア、ケレリスはこの戦を境に史上からその姿を消す。
生涯、戦を厭うていたはずの『聖女皇』が命じた唯一の戦として、ヴィーフィルド史にも大きな謎を残しているが、真実はただ、歴史の闇に沈んだままである。
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夜に紛れて潜む星 其は冷たき精霊王
氷を統べる藍の君 凍てつく瞳は真実の鑑
流れる水と袂を分かち 燃ゆる熱すら凍土に封ず
かの心を揺らすのは 穢れることなき金の天秤
図るは己のため 傾くは主のため
臨んだ道は、誰のため――……
――英雄詩『エストレイシア』氷の章より
今更ながら、この二人って外見よく似てるよなー事情知らない人が見たらぎょっとするだろうなーと気付く。




