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夜明けの後に  作者: 木之本 晶
徒然なる小話集 2
34/37

君がこの手を望むなら 2

 はっと目を覚まして窓の外を見ると、既に空は真っ赤に染まっていた。

「夢……」

 呆然と呟く。何も気付かない子供でいられた頃の、痛みさえ幸せな記憶。自然と自嘲が零れる。

「……馬鹿ね」

 長椅子の上から身を起こしたエルフェリーゼは、いつの間にか転寝をしていたらしいと判断した。脇を見れば、読んでいた小説が置いてある。最近皇都で流行しているという、幼馴染同士の微笑ましい恋物語を描いたものだ。――そうだ、あまりに現実味がなくてふわふわしている内容だったので、つまらなくなって途中で読むのをやめたのだった。

「――誰かいませんか」

 ドレスが皺になってしまっている。晩餐の前に着替えてしまわなければと、エルフェリーゼは控えの間に声をかけた。はい、と数人の女官が入ってくる。

「着替えますので、準備をお願いできますか」

「既に整えてございます。お運びしてもよろしゅうございましょうか」

 エルフェリーゼは微笑んだ。

「さすがですね。早速お願いします」

 運ばれてきたドレスに着替えながら、今一つ表情の暗い皇女に、女官の一人がおずおずと口を開く。

「殿下……お気に召しませんでしたか?」

 え、と目を瞬いたエルフェリーゼである。

「ドレスのお意匠か、お色がお気に召しませんでしたか? お顔の色が優れないご様子ですので……」

「いいえ、そんなことはないわ。ただ……今日、お母様がそろそろ結婚相手を考えましょうと仰ったから」

「まあ」

 おめでとうございます、と笑顔になる女官に、エルフェリーゼは苦笑した。

「まだ決まったわけではないわ。どなたになるかわからないし……きっと公爵家のどこかに嫁ぐことになるでしょうけれど、まだ早いのではないかと思うのよね」

「そんなことはございませんわ。お母君がご婚約されたのは十四、ご成婚は十六の御年でしたもの。ご長女であらせられる殿下はもう十六であらせられますのに、今までそのようなお話が無かったことの方が不自然です」

 母と同年代の女官は強い口調で言い切った。また別の女官がくすりと笑う。

「皇太子殿下と皇女殿下は事情が違いますから、少しでものびのびと過ごされて欲しいとお考えだったのかもしれませんね。何と言っても皇太子殿下は今上陛下の唯一の正嫡の御子で、聖女。その上諸国の国王や王太子達はちょうど伴侶がいない者が多くおりましたから、牽制の意味もありましたでしょうし」

「そうかもしれないけれど、でもそれにしたって不自然ですわ」

「大方、大公殿下が邪魔なさっていたのではありませんこと? 大公殿下は姫様達を溺愛なさっていますもの」

 それは娘達が最愛の妻に似たからだ、とはエルフェリーゼは言わなかった。積極的に夢を壊すのは本意ではない。

「姫様のお相手はどなたになるのでしょうね。ヴィライオルド家のラウリード様はお従兄君にあたられますから、最有力候補はヴィランド家のセイルロッド様でしょうか」

「あら、ヴィルフォール家のシュトラール様だって条件は同じよ」

「それならエルヴェスの……」

 競うように挙げられていく名の中に、エルフェリーゼが幼い頃から密かに慕っていた人の名は当然のように無い。仕方がないことなのかもしれないけれど。

「さ、お支度ができましたわ。晩餐会までにはまだお時間がございますが、いかがされますか」

「少しと言っても今から出れば少し早めになるくらいでしょう。もう参ります」

「では先触れを遣わします」

 女官達は頭を下げて出て行った。それを見届けたエルフェリーゼは、手近な椅子に再び腰を下ろした。

 母が結婚を考えてはどうかと言ったのは本当だが、それ以上の会話は女官達には教えなかった。今まさしく重苦しく胸にのしかかっているその記憶を、エルフェリーゼは再び辿り始めた。



 でも、と口篭ったエルフェリーゼに、母はどこか困ったように微笑んだ。

「すぐに、というわけではないのよ? でもエルフェももうすぐ十六歳で、成人だから」

 微笑んで首を傾げた母は、三十も半ばになろうかという年齢でありながら、未だに少女のようなあどけなさがあった。女性としての艶やかさと見事な融合を果たしたその美貌は、現人神と崇められる所以の一つである。染みも皺も一つもない滑らかな肌にまろやかな曲線と相まって、それこそまだ十代の娘のように若々しい。諸外国からの使者は、まずこの三十幾つという年齢に見合わぬ若さに度肝を抜かれるということも珍しくなくなっていた。本人は失礼なと怒っているが。

「一応、シトリかセディはどうかしらってソールとも話しているの」

 年齢的にそれが一番釣り合う組み合わせだ。無難なところである。何も言わずに呆然と佇むばかりの娘に椅子を勧めた母シェランティエーラは、手ずから茶を淹れてくれた。

「お母様、私が」

「いいのよ。いきなりでびっくりしたでしょう」

 お菓子も食べて、と示した先には、果物を使った一口で食べられる大きさのタルトがあった。勧めた本人が先に手を伸ばして頬張る。まるきりいつもと変わらないその様子に、エルフェリーゼも釣られて一つ、手に取った。

「私は……公爵夫人になるのですよね」

「嫌だった? でも皇位を継ぐのは、今のまま何事もなければリオンで……」

「そうではなくてっ」

 思わず荒げた声に、はっとして顔を上げると、驚いた表情でこちらを見る母と目が合った。

「あ……申し訳ありません、お母様」

「構わないわ。続けて」

 そうは言われても、言い辛い。しかしここで言わないと間違いなく先ほど名を挙げた二人のどちらかとの結婚を進めるだろう――と、一点の曇りもない夜空を切り取ったような瞳が語っている。

「セディやシトリには、リアやユディでもいいかと思います」

「今はあの二人の話ではなく、貴女のことなのよ」

「その……もっと切羽詰まった事情の家が、あるでしょう?」

 何のことだと首を捻る母に、エルフェリーゼは震える喉から、どうにか声を絞り出した。

「アル伯父様……ヴィシュアール公爵ではどうでしょうか」

 落ちた沈黙は、まるで時が止まった証のようだった。驚愕に見開かれた瞳が、まじまじとエルフェリーゼを見つめていることに気付きさえしなければ。

「…………本気で言っているの、エルフェ?」

 どこか非難を帯びた声音に俯けば、溜め息が降ってきた。エルフェリーゼは唇を噛む。わかっている、こんな対応が卑怯なことは。

「貴女がそこまで気に病まなくても、ヴィシュアールを継ぐ者はいます。それこそ、今の公爵が亡くなった後は、あなた達の誰かが継いでもいいわ。ヴィシュアールの継承権はアルに次いで高いのだし」

「……お母様」

「貴女には幸せになって欲しいの。娘だもの」

 そんな、とエルフェリーゼは顔を上げた。その言い方では、まるで――

「いくらお母様でも言い過ぎです! あの方を実のお兄様とも思っていらっしゃるのでしょう!?」

「思っているけど、それとこれとは別。わかるの」

「お母様に何がわかるの……!」

「少なくとも、貴女よりはアルのことは良く知っているわよ」

 ぐうの音も出ないとはこのことである。二杯目の茶を注いで飲み干す母に、エルフェリーゼは一言も反論が思いつかない。思いつけない。

 音もなく優雅に茶碗を置いた母は、おもむろに口を開いた。

「……アルは、きっと貴女を愛さないわ」

 改めて言葉にして突きつけられると痛い。だがエルフェリーゼは敢然と頷いた。

「知っています。だって……だって、あの方は、今でもお母様を……だから独身を貫いておいでなのでしょう」

「――……は?」

 三杯目を注ごうとしていたシェランティエーラの手が止まる。

「お父様とあの方とが、お母様の結婚相手の最有力候補の双璧だったと聞いています。お父様ももちろんお母様を愛しておいでですけれど、あの方だって――」

「ちょ、ちょっと待ってエルフェ。貴女、何を言っているの」

「――きっとお母様のことが想い切れないままなのですわ。だからいつまでも妻を迎えないまま……っ」

 シェランティエーラは湯を注ぐのをやめて額に手を当てた。長女の頭の中でどんなドロドロ愛憎劇が作り出されているのかなんて別に知りたくなかった。

「誤解よ」

 だがこれだけはきっぱりと否定せねばならない。

「貴女が私とソールとアルでどんな妄想を繰り広げようと勝手だけれど、妄想は妄想に過ぎないわ。私はアルをそういう目で見たことなんて一度もないし、アルもそう。私たちは従兄妹で、心境的には兄妹のようだったけれど、男女の仲になんて……太陽が西から昇ったってありえないことよ。まあお父様に言われれば結婚して子供を作るくらいできたでしょうけど、それに恋愛を絡められたかと訊かれれば、答えははっきりきっぱりと『否』しかないわ」

 いっそ清々しいほどの否定である。

「アルがどうして今まで結婚しなかったか? 私を愛しているから? 違うわね」

 先ほどまでとは打って変わって鋭い目になった母に、エルフェリーゼは知らず呑まれていた。だから、その言葉の続きを聞くしかなかった。

「アルはそういう意味では誰も愛さない。そういう感情が欠落しているのだと思うわ。生まれつきない、零なの。無なのよ。……いいえ、あったのかもしれないけど、無くなってしまったのね」

「お母様」

「それはきっと私のせい。零をせめて一にしようとしなかったのは私だけれど……」

「お母様、何を」

 思惟に沈んでいく母は、何か迷っているようだった。だがその時間は長くは続かなかった。静かな、だが強い力に満ちた瞳がエルフェリーゼを射抜く。

「エルフェ。これから話すこと、一生秘密にしておける? できるならアルに、貴女を娶ってくれないかと打診するくらいはしてあげるわ」

 最後の一言に釣られたエルフェリーゼは一も二も無く頷いたが、では、と母の口から淡々と語られた内容に血の気が引いた。

 魔力保持者に、祖母イリアーナ共々命を狙われた?

 時空の壁を突き破って異界へ逃れ、気脈も断たれた状態で――それは空気を吸えないのとほぼ同義だ――九年、母は生き延びた?

 その間、狂ったように一族が母を探し回っていたことなど想像に難くない。喪失の衝撃に似た悲鳴を聞いたのなら、手を伸ばさぬ道理がない。たとえすぐには届かないと知っていても。だが話はそこで終わらなかった。そこからが始まりだった。

 ……全てが終わる頃には、エルフェリーゼは元の話題が何だったのかすら忘れていた。そのくらい衝撃的だった。自分と同じくらい、いや、それ以上に大切に育てられていたと信じていた母が、想像を絶する壮絶な体験をしていたという事実は、温室育ちの彼女から言葉を失わせるに足りた。

「……違和感はなかった? 私が城から出ようとすると、必ずと言っていいくらい皆が心配すること。侵入者があれば必要以上に過激な反応をすること。何より私が小さい頃の話を、したがらないでしょう?」

「そ、れは」

「したくないんじゃないわ。できないの。そしてそれを認められないでいるのよ。もう二十年近く経った今でも。一族皆のダメなところ。自分の弱さを認められないの。誰よりも強いから。その傾向が一番強いのがアルよ」

 茶碗の中身は冷めていただろう。だが母は気にしないというように口をつけた。

「うまく表現できないのだけれど……きっと皆、私より年上の皆はね、あの九年でどこかしら心が壊れてしまっているのよ。その、壊れた範囲が一番広いのがアル。その壊れた範囲の中に、たまたま『他人を愛する』っていう機能が入ってたんでしょうね。アルほど顕著ではないけど、皆似たり寄ったり。だから私達の世代では、一族の中でしか結婚してないでしょう? 一族同士なら『他人』じゃないから」

 エルフェリーゼはぞっとした。一族の大人達が抱える暗い深淵、それを無遠慮に覗き込んでしまったかのような心地を覚えた。そこに『在る』とすら指摘してはいけないもの。

「アルが壊れた範囲が一番広いのは仕方がないわ。まだ小さな……八歳の頃から、最悪の場合を考えなさいと言われ続けてきたのだもの。『もしも』を一番突きつけられていたのは、ファナルシーズお父様でもリダーロイスお祖父様でも、ユーライアお祖母様でもないわ。アルよ。『もしも』私が死んでいたら、代わりになる覚悟をしなさい――と」

 それは、現実と紙一重の仮定。

 眩暈を起こしそうだった。もし、自分だったら。

(リオンお兄様が、『もしも』死んでいたら――)

 それも戦って死ぬのではない。自分がしっかりしていれば防げたはずの輩に、不当に奪われたという状況。自分で自分が許せない、だけではない。生きていて欲しいと心底願いながら、死んでいた時のために、他でもない自分がその位置に立つ準備をしろなどと、そんなことを言われたら。そんな状態が、九年も続く。しかもまだ子供の時分に。

 言う方も辛かったかもしれないが、言われた方はたまったものではない。少なくともエルフェリーゼには、耐えられる自信など微塵もない。確実に心を壊す。

(――ああ、だから)

 少しずつ、少しずつ、壊して。他のことはなるたけ容れないようにして。

 そうしたのではない。そうするしかなかったのだ。外観だけでも「正常」であるために。他の部分を「正常」に保つために。見知らぬ他人を愛する余地などあるはずがない。

 気を抜けば狂ってしまいそうな自分を保つのが精一杯なのに。

「わたし……」

 若い頃の痴情の縺れなんて生易しいものではなかったのだ。エルフェリーゼは深く自分を恥じた。

「アルだけじゃないけど、どう向き合ってあげれば、壊れたところが治るのかわからなかった。そしてそのまま放置してしまっていたの。幸い、最低でも『何か人っぽい』線は越えてなかったから、まあいいかって」

 母はそう言って、軽やかに笑った。

「だから私も負い目があって、好きにすればいいと思ってるのよ。特にアルは。強いて言えば、これから一生頼ってあげようとは思ってるかしらね」

 それでもいいなら、と再度母は言った。

「それでもいいなら、エルフェリーゼ。貴女とヴィシュアール公爵の婚姻、わたくしが責任を持って取り持ちましょう。いざとなったら書類さえ整っていれば私が執り行ったって構わないのだし」

 それはちょっと、どうなのだろう。

「……お父様に怒られませんか?」

「ソールが本気で怒ったって私には勝てないから大丈夫。五人目を作って誤魔化すわ」

 エルフェリーゼは母の年齢を指摘しようとしたが、不可能ではないと思ってやめた。

「でもエルフェ、これだけは覚えておいて、約束して」


 そのときの母の言葉と表情を、エルフェリーゼは一生忘れない。


「一つ、アルが断ったら諦めること。二つ目、女性として愛されることを期待しないこと。……アルなら貴女を不幸にはしないでしょう。でも不幸ではないということが、即ち幸福であるとは限らないわ。生涯、女として愛されることは無いだろうと、そのくらいは覚悟しておきなさい」

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