二十一 命を運ぶ者 前
その少女は、仁王立ちして待ち構えていた。
少年は部屋の中に入った瞬間、厄介なことになりそうな気配を感じたが、引くに引けなかった。
紅い唇はぎゅっと引き結ばれ、青灰色の瞳は潤むどころか一杯に涙が溜まっている。まだ零れ落ちてはいないが、時間の問題だろう。申し開きをせねば、と少年は重い口を開いた。
「……その……元気、だったか」
クッションが宙を舞った。少年は結構な速さで飛んできたそれを難なく受け止める。
「元気だよ馬鹿っ! 見ればわかるだろ、それはこっちの台詞だよ!」
「わ、わ、やめろ、そこの何か高そうな花瓶が危ない!」
「高そうじゃなくて高いんだよ! ええい、お高い花瓶でたんこぶ作ってみなよ、いい思い出になるだろ!」
「何でそうなる!?」
職人が丹精込めて作ったのだろう、花と鳥が浮き彫りにされた繊細な硝子細工の花瓶が宙を舞った。しかし少年は花瓶が床に落ちる寸前で受け止める。
少女が肩で息をしながら俯く。その拍子に、ぽろりと涙が零れた。少年は慌てた。
「エ、エヴァ! 何も泣くことないだろ!? 確かに君からの手紙に、三通に一通くらいしか返事を書けなかったのは悪かったけど、俺も修行で忙しくて――」
「そんなの僕が知ったことじゃないよ! それに返事は十通書いてやっと一通だった! しかもまともな中身じゃないし、僕やおばあちゃんがどれだけ心配してたと思ってるのさ、ローランの馬鹿!」
「か、書いてるうちに次の手紙が来るんだからしょうがないだろ!?」
再従妹の剣幕にたじたじとなるローランは、しかし分が悪いことを自覚していた。別れが別れだったからかもしれない。何も言わずに出て行ったことは、確かにまずかった。
「それでも定期的に手紙くれれば不問にしてあげようと思ってたのに、ここ三ヶ月くらい音沙汰無かったし!」
「あの羽帽子野郎に捕まって修行に付き合わされてたんだ! それも竜の背骨山脈の中を駆け回ってたから、書いても出せなかったんだよ」
ヴィーフィルドの貴族達のように青鳥を飼っていればまた違ったのだろうが、ミルフェンはそこまで融通を利かせてもらえていない。
「……心配、したんだよ」
唐突に勢いを失ったエヴァリストに、ローランはおずおずと近付いた。
「ごめん」
「ルーエは浮気してるから、最近は話聞いてもらえないし」
「ごめ……は、ええっ!? ちょ、え!? あの王女様が!?」
色んな意味で、どうやって。というかこの場合、浮気という表現は合っているのか。
「誰とどこでどうやって!」
「エリアス王子だよ。なんか再会して盛り上がっちゃったみたい……」
ええーとローランは遠い目になりかけた。件の王太子は捕虜となって以来あの牢から出ていないはずだ。ということは。
(ガルダニア王太子と、その従姉の元王女にして現ミルフェン公爵妃が、牢の中で逢瀬……)
訳がわからない。
一つだけ、世間様に知られたらものすごい醜聞というか、噂の的になることは確実だ。あの二人はただの従姉弟同士ではなく、『親兄弟を殺された悲劇の王女』と『先王を殺した簒奪者の息子』という図式が元々存在する。それがナニがどうなったらそんなことになるのか。王族とは庶民には計り知れない複雑な事情があるようだ。
「だから決めたんだ」
エヴァリストは決意に満ちた声音で顔を上げた。何を、とローランが聞き返す前に、彼女は再び口を開く。
「僕も浮気してやろうって」
「いや、ちょっと待った。どうしてそうなる!?」
爽やかにとんでもないことを宣言したミルフェン公爵の表情は、晴れ晴れとしている。
「エヴァ、何を言ってるのかわかってるのか!?」
男を装ってはいるが細い肩を掴み、ローランは再従妹に詰め寄った。もちろん、と彼女は大きく頷く。
「今すぐってわけじゃないけど、将来的には」
取り合えず、今すぐでないのならとローランは肩を落としたが、これは危ないと警鐘が鳴るのを確かに聞いた。放っておいたらどうなるのか、考えたくもない。
エヴァリストがミルフェン公位を継いでから丸二年ほどミルフェンに寄り付かなかった彼は、この事件以降ちょくちょく里帰りと称してミルフェンの宮殿に顔を出すようになるが、それはまた別の話である。
「あ」
ふと聞こえてきた音に、エヴァリストが反応した。
「ルーエの、琴の音だ」
「琴?」
うん、とエヴァリストは頷く。
「アーラントードの六弦琴だよ。いつか弾いてって、お願いしてたんだ。嫁入り道具として持ってきてたやつは、弓が無かったから……シェラン様のご婚礼の時に、アーラントードの次期皇帝が持ってきていらしたのを貰ってたんだよ」
それを披露した時のルイセルーエの顔を思い出し、エヴァリストはくすくすと笑った。
どこかあたたかい豊かな音色に乗って、澄んだ歌声が響いてくるのに時間はかからなかった。
『千の扉よ、満を持して開け
黄昏の王は眠り 暁の姫が謳う
銀の星二つ 金の星一つ
大いなる闇が その眼を閉じるまで――』
********
「あら、そんな話になっていたのなら、もう少し各国に脅しをかけてきても良うございましたわね」
おっとりと微笑む同胞に、シェランは引き攣った笑みを返した。
シェラン達がエリアス王太子と会談を持った数日後に皇都に帰還した翌日、マルヴィリアも帰国してきた。会議後、オルトニア公女とアゼリア公子の婚約が発表された他、あちこちの王族の結婚が決まったようだが、肝心のガルダニア国王とエルレイン国王の正妃は決まらなかったという、成果はあるが今一つ主催者と発案者の目的が果たせていないという珍妙な結果に終わったらしい。庶子が山ほどいるガルダニアはともかく、後継者がほとんどいなくなっているエルレインは臣下一同揃って頭を抱えていたとか。
「ですがあの国王、后を迎える気は当分ないようです」
「どうして?」
「人に興味がないそうですわ。今度亜人族の娘を見繕って差し上げましょうと申し上げたら、それは喜んでいましたもの」
「……まあ、個人の好みの問題だもんね。うちの貴族だとニークルス家とか、ルディーシェ家とかオルニス家とか?」
「ええ。付け込む余地があるとわかっただけでも収穫かと」
そんなつもりで家名を挙げたわけではなかったのだが。マルヴィリアの笑顔に何か逆らえないものを感じて、シェランは押し黙った。そこへ皇妃が笑顔で話しかけた。
「お疲れ様だったわね、マリア。でも本当に、機が合ったというか……こんな日に帰ってこられるなんて。でもまだ時間がかかりそうよ? 生まれたら知らせるから、貴女は少し休んでいらっしゃいな」
「では、お言葉に甘えて、少し。御前を失礼致しますわ」
旅装も解かずに報告をしていたマルヴィリアは、皇妃に促されしずしずと退室していった。
シェランはマルヴィリアが出て行ったのとは反対の扉を振り返り、次いで祖母を見た。
「お祖母様、まだかかるんですか?」
「ええ。まだまだよ。典医は生まれるのは夜中になるでしょうって。ここでじっと待っていても仕方がないし、わたくし達も先に夕餉にしてしまいましょう」
「わかりました。……団長、扉を睨んでも生まれるのは早くならないよ。ほら、行こう」
蒼白な顔で突っ立っているヴィランド公爵ギルトラントに声をかけるも、唇を一文字に結んだまま首を振るだけだった。
「シェラン、ギルなら一食や二食抜かしても大丈夫よ。放っておきなさい」
「でも団長があそこにいても邪魔にしかならないんじゃ……ここ、控えの間だから通路にもなってるし」
「本人がいたいと言っているのだからいいのよ。中の典医や女官達にも気にしないよう言い置いていてよ」
それもどうなのかと思ったが、良く考えれば妥当な措置である。シェランはもう言い返さず、祖母皇妃の後に続いた。
「でも楽しみですね。元気に生まれてきてくれればいいです」
「本当にそうね」
マルヴィリアが世界会議から帰国したこの日、一つの命が産声を上げようとしていた。
夕刻近く、ヴィランド公爵夫人エデルガルトが産気づいたのである。ヴィルフォール公爵位の継承に伴う手続きのため皇都に滞在していた彼女は手続きが終わる頃に臨月に入ってしまい、そのまま皇都で産むことになった。活動的過ぎる妊婦に、夫のヴィランド公爵は気が気ではなかった様子だが、当の本人は「病気ではないのだから」の一言で皇城の催しにも積極的に参加していた。
今日も園遊会に出席していたのだが、終了直後に定期的な陣痛が来るようになり、典医によって分娩の開始と判断された。すぐさまヴィランド公爵には知らせが走り、彼も取るものも取り合えず駆けつけたのだが、奥方にすげなく追い返されたのだ。曰く。
「何をしに来たのだ、ヴィランド公。貴公が産室にいたとて何の役にも立たぬではないか。それとも何か、貴公が出産を代わってくれるのか? そもそも神聖な産室に帯剣して入る奴があるか。そんな顔をしてうろうろされてはこちらも気になって仕方がない。どうせ生まれるまで、いや生まれてからも歩くようになるまでは貴公ができることなどないのだから、大人しく外で酒でも飲みながら待っていろ」
聞いていた医師や女官達の方が苦笑したほどである。
かくして皇妃に引き摺られるようにして彼は産室を後にしたのだが、前述の通りその扉の前から離れない。
「へえぇ、ギルがねえ」
面白そうに呟いたのはライシュタット卿ジェレストールだ。
「皇女殿下がお生まれになるときはファースを励ましていたのに、いざ自分が父親となると怖気づくとは。どれ、景気付けにキティの言う通り酒でも差し入れますか。……いや、確かに控えの間にあいつがいてはやり辛いだろうから、誰かこっちへ引っ張って来い」
この一声で、何故か産室の隣の急ごしらえの待合室は皇族男性陣による酒盛りの場と化した。自然、女性達は一人二人と抜けて、産室の様子を窺う方に流れる。
自分のことではないのに緊張しているのか、シェランも夕餉があまり喉を通らなかった。双子を出産した経験のある皇妃などは「なるようになりますよ」と鷹揚に構えているが、対照的にオルトリーエが落ち着かず右往左往している。
日付も変わろうかという頃、にわかに産室の中が騒がしくなった。騒ぎの中に破水した、という言葉があり、皇妃を始めとした出産経験者が立ち上がる。
「お祖母様? お母様?」
「貴女も行きましょう、シェラン。もうすぐですよ」
「えっ!?」
先代ヴィランド公爵夫人リィスティーアはとっくに産室に駆け込んでエデルガルトに激励の言葉をかけているようだ。業を煮やしたらしい典医の「公夫人閣下、そこにおられては邪魔です。ああ、そちらではなく……いいえ、そこでもなく! 枕元あたりで公爵夫人のお手でも握っておいて下さい!」という怒鳴り声が聞こえてきた。
「叔母上、しっかり!」
「キティ、痛みの波と一緒にいきんで……そうそう、その調子ですわ」
産婦にどう声をかけていいのかわからないシェランは、エデルガルトの耳元でひたすら「頑張れ」と囁いていた。『闇女神の代行者』などという肩書きは全く役に立たない。
「公爵夫人、もう一息で頭が出ます。思い切りいきんで!」
典医の言葉を聞いていたのか、いなかったのか――言葉が終わるより先に、エデルガルトは裂帛の気合を発していた。
「観念して出てこんか――!」
……討ち入りじゃないんだから、と誰もが思ったが、誰も言えなかった。
一夜明けて、男達から酒精が抜けた後。
ヴィランド公爵が息子と対面を果たしている傍らで、修羅場が勃発していた。
「おかえり、マリア。で、うちに嫁ぐ気になった?」
「まあ、その歳で耄碌なさったのですか、カルスルーエ卿。断る、とはっきり申し上げたはずですわ」
季節は冬だが、室内は神術で暖かく保たれている――はずなのに、冷たい風が吹いた気がした。
おおよそ求婚の場面とは思えぬ、意味の違う緊張感がイルヴァースとマルヴィリアの間に漂っている。このまま決闘が始まってもシェランは驚かない。
「そーいえばまだこの問題が残ってたんだっけ……」
頭を抱えたシェランとは対照的に、若い皇族達は小声で囃し立てている。一応生まれたばかりの同胞に配慮しているらしいが、向こうは向こうで大人がこちらの気配を察知して音封じの結界を張っているので、あまり意味はない。
イルヴァースにしても、この話題を持ち出すなら別室に移ってからにすればいいものを、わざわざここで言い出したのは逃げられないようにというその一点のみだろう。
「しつこい男は見苦しくてよ」
「心外だね。君が世界会議に行っている間は連絡もしなかったじゃないか」
「当然でしょう。仕事中よ」
「その仕事も終わったのだし、もういいだろう?」
「何がどうなってそうなりますの? 貴方はまだガルダニアと和平交渉の途中ではなくて?」
「あんなのは片手間でできるよ」
どこまでも平行線を辿るやり取りに、痺れを切らした一人がシェランに言った。
「姫、イルヴァースの奴に援護を」
シェランは顔を顰めた。
「何で私が。あ、マリア、顔はダメだよ。それ一応、国内最優良物件だから」
扇を振り上げたマルヴィリアに注意を促し、シェランはおもむろに手札を取り出した。これを使うのも久しぶりだ。
叩かれてはならじとマルヴィリアの細腕を掴み、どさくさにまぎれて腰にまで手を回し引き寄せるイルヴァースと、どうにかして離れようとするマルヴィリアの間で攻防が繰り広げられているのをよそに、シェランは札を広げて丁寧に占っていった。結果。
「ルヴァ、諦めたら? 相性がなんかちょっと悪いかも」
イルヴァース本人が答えるより先に、マルヴィリアの兄で今回の話に乗り気らしいユリスディートが口を挟んだ。
「この際です、相性なぞどうでもよろしい。そのうち子供ができればそれで良いんですよ」
「すごい率直な発言ね、ユリス」
「結婚なんてそんなものでしょうが。……あ、馬鹿妹、だから顔はやめてやれって。跡が残ったりしたら何があったかすぐにわかるだろ」
「てか姫君、『なんかちょっと悪い』って何なんです」
「そのままの意味よ。まあでも、相性なんて人間関係と同じで変化するものだから」
どっちなんですか! という叫びが攻防中の双方から来た。言葉は同じだが、それぞれ込められた思いは正反対なのがよくわかる響きだった。
「シェラン様、わたくしとこの蛇男と、一体どちらの味方なのですか!」
「それはもちろん、マリアの味方のつもりだけど」
縁談に反対し切れない個人的な理由もあり、シェランは札を纏めながら、考え考え口を開いた。
「……あのね、マリア。ルヴァって、家柄も血筋も顔も良くて神力もそこそこあって、ついでにちょうどいい感じに腹黒いのね」
それは褒め言葉なのだろうか、と一同は首を捻った。
「まあ、北の変態さんと化かし合いするのは、基本お父様達の世代な訳だけど、その次のエリアス王子の代はルヴァが担当することになるじゃない? そのときうっかり道を踏み外したら際限なく陰険で低次元な方向に行きそうで怖いから、マリアが見張っててくれると私としては安心かな、って思うの」
マルヴィリアの抵抗が少し弱くなった。
「それにね、年下が好みじゃないって言うけど、なら同い年のディーとかならいい? 顔合わせたら全力で攻撃し合う同輩より、可愛い顔した後輩の方が良くない?」
引き合いに出されたディートハルトが、姫酷い、と呟く。その肩をユリスディートが叩いた。
「他にマリアと釣り合いそうな相手はいないんだし、その辺で妥協したら?」
妥協って、と男性陣の心に木枯らしが吹いた。どうも最近この皇女様は口が悪くなっている気がする。
くっと顔を逸らしたマルヴィリアだった。
「……究極の二択過ぎます」
「三択にもできるよ。加わるのはアルだけど」
「究極性が増すだけですので、加えて頂かなくて結構ですわ。神殿に駆け込んで生涯独身という選択肢はどうなりまして?」
「……あるね。でもあれ、調べ直したら誓願立てるときに神殿の敷地内にいないと駄目なんだよね」
「では今から――放しなさいな、このっ」
「だからマリア、見えるところはダメだって」
行儀悪く机の上に肘を突きながら、シェランはふと思いついた疑問を何も考えずにそのまま同胞にぶつけた。
「なんでマリアはそんなに結婚が嫌なの? それとも相手がルヴァなのが嫌なだけ?」
周囲の空気が凍りついた。ややあって。
「また直球な……」
「誰も訊けなかったことをあっさりと……さすが我が君」
「おい、後者の場合ルヴァが不憫だって誰か言ってやれ」
ひそひそと囁かれる声はシェランには届かず、よって彼女は無心にマルヴィリアを見つめていた。まっすぐな眼差しにさすがの彼女もたじろぐ。
「それは……」
「どうしても嫌な理由がないなら、ルヴァでいいじゃない」
ここでシェランは間を置き、ちらっと義兄を見た。心の中でゆっくり五つ、数える。――反応、なし。
シェランは自分にできる最後の必殺技を繰り出した。
「そしたら、私がマリアのこと『お義姉様』って呼べるし」
薄紫の瞳が見開かれた。小さく、しかし確実に続いていた抵抗が、完全に止まった。
ふう、とシェランは息をつく。
あの日、皇族会議で宣言した瞬間に外堀の八割は埋められていたようなものである。親族(=皇族一同)には周知済み、家格血筋に問題なし、年齢も釣り合うとあって、頑なに拒否していた本人が旅立ってから当主同士が話の席を持ち、ほぼ決まっていたようなものだ。順番が少々前後しているが。
後は本人の承諾だけという状況で、どう説得するかが鍵だったわけだが――やはり効果があったのは、最後の一言だったようだ。
マルヴィリアはこほんと咳払いをして、居住まいを正した。
「わかりましたわ。謹んで、お受けします」
『受ける』のが縁談なのか、それとも「シェランの義姉」という立場なのかは、終ぞ誰にもわからなかった。
長くなったので切ります。




