十九 継ぐ者達
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皇女シェランティエーラが寝床から這い出してきたのは、その日の昼食が終わった頃だった。
「うう……ソールのばかっ、自分だけ早起きしてるし……」
誰もいない中で呟きながら、呼び鈴を鳴らして侍女を呼ぶ。若干よろめきながらも、侍女の手を借りて身支度を整えた。
「皇女殿下、大公殿下と聖騎士の皆様がお待ちでございます」
シェランは顔を顰めた。
「……あまり歩きたくないわ。ここの客間へ呼んで」
「畏まりました」
皇都からついてきた侍女は心得て頷く。わりと日常的な会話になりつつあるからだろうか。
自身も客間へ移動したシェランは待っている間に遅い昼食を軽く摘まみ、頭をすっきりさせようと香草茶を頼んだ。
余談だが最近、どうも夫が色ボケしているようで本当に困る。シェラン自身の体力的な問題もさることながら、何より理不尽だと思うのは、色ボケしつつも執務や公務をシェランよりしっかりとこなしているところだ。そろそろ寝室を何日かに一度くらいは分けようかと考え始めたところで、客間の扉が開いた。
「おはようございます、殿下」
「嫌味を言いに来たなら今すぐ帰って。今の私は機嫌が悪いの」
「それは申し訳ありません」
謝罪しつつ苦笑していては、誠意が全く感じられない。それを指摘してもイルヴァースの顔から笑いが消えることは無く、シェランはますますむすっとした。当然のように隣に座ったソルディースは、妻の艶やかな黒髪を撫でて宥めようとしたが、芳しい効果は得られなかったようである。
「……それで?」
「ガルダニアからはまだ外交官が来ていないので、これといった動きは特には。というか」
ここでイルヴァースはちら、と我関せずと涼しい顔をしている同胞に視線を向けた。
「……国王も王太子も国元にいない今、全権特使を誰にするかでガルダニアの宮廷は揉めに揉めていると思われますので、いっそこちらに拘留している王太子と直接話した方が早いかと」
ガルダニア国王は外遊先で療養中、王太子は言わずもがな牢の中である。そしてガルダニアには、この二人に代わって指揮を取るべき人材がいなかった。王妃、王太子妃は空位のまま、うっかり他の傍系にそれを求めようものなら泥沼の王位継承戦争になりかねない。
皮肉なことにそれが起こらず、国王も王太子も不在のガルダニアが平穏を保っているのは、『ここで王位継承戦争が起こったら、正統な王位継承者三人の命運を握っているヴィーフィルドが嬉々として乗り込んできてやりたい放題された挙句、後にはぺんぺん草も残るまい』という強迫観念がガルダニア貴族達を追い詰めているからだ。昨日の敵は今日の友とはこのこと、外敵――天災とした方が的確かもしれない――が迫ろうとしているのに内輪揉めしている場合ではない。
しかしそうなると今度は宮廷を取り仕切る者がいないという悪循環。宰相は王太子が兼任していたし、他の大臣や有力貴族はエスライド即位の際に毒にも薬にもならぬ者達に挿げ替えられている。下級貴族で頭角を現しつつある者もいるが、それにしてもガルダニア宮廷を束ねるには地位が低過ぎた。
とりあえず国王エスライドが長旅に耐えられる程度に回復して帰国するまでは、ガルダニアは動けないだろうというのがヴィーフィルド人達の予想だ。
「でも、エリアス殿下は王太子ではあるけど、捕虜よ? 捕虜自身とそういう話をするって、大丈夫なの?」
「駄目でしょうね」
にべもなく呟いたのはライゼルトだ。
「後になって、取り決めを交わした当時の王太子の精神状態は普通ではなかった、とでも難癖をつけられては面倒です。ガルダニアの重騎兵隊は強い。鎧にも防御系の術を充実させてあります。戦場が我が国の外ならば、苦戦を強いられるのは間違いありません。……皇族の皆様が向こうの国ごと抉り取るなり、吹き飛ばすなりすると仰るなら話は別ですが」
イルヴァースが肩を竦める。
「やってもいいが、後で大地の女神からものすっごい苦情と説教が来る気がするんだよな……」
やってもいいと思っているあたり、彼も大概だ。アルトレイスも腕組みをして頷く。
「彼女の説教は長いから、できればやりたくない手ではあるな」
ヴィーフィルド皇族が無闇に他国に手を出さない原因がこれだった。下手に他国を消滅させると、生命に深く関わりのある役目を担う原初の闇女神、大地の女神、海の女神を始めとした女神達から『何てことを!』と怒られ、死と安寧の神から『仕事を増やすな』と叱られるのである。
ちなみに戦いの神は無責任に煽り立てて面白がるだけなので、そうなったとき当てにはならない。皇祖たる時空神は、放任主義であるため最初から論外だ。
「でも国王から賠償金を支払うって、御名御璽を書かせ……もらってきたんでしょう? だったらそこまで複雑な話にはならないんじゃないの?」
「金は搾り取ってやったが、他の細々とした条約の話は全くしていない。担当者と詰める必要がある。ゲルスト子爵あたりが来れば話は早いんだが」
眉間に浅く皺を刻んだアルトレイスは、言葉とは裏腹にあまり期待はしていないようだった。さもあろう、喧嘩を吹っかけた相手に対して、その喧嘩相手と仲の良い人物を寄越して妙な条文に署名されては堪ったものではない。国王はアホだが、他は常識と、ある程度の意志の強さを備えているのがガルダニア宮廷の強みでもある。個性が強すぎて国王(もしくは王太子)がいなければ纏まりに欠けるという欠点はあるが。
ソルディースが首を振った。
「そう都合良くはいかないだろう。エスライドが帰国すれば逆にごねて色々と拗れる気がするから、その前に全てを決めてしまいたいが……」
アルトレイスが嘆息する。
「使者が誰になるかと、いつ来るかによるな。ルヴァ、ヴィライオルドから圧力をかけられるか」
問われたイルヴァースは食えない笑みを浮かべた。
「できなくはないが、もう少し待ってみてもいいんじゃないか? ほら、ライとセイがやらかしたから、その怯え様を眺めるのも一興だろう」
引き合いに出された二人は揃って首を振った。
「誤解だ。名誉毀損だぞ」
「そうだよ。やらかしたのはどっちかっていうと俺達じゃなくて、姫様だろ」
はてと首を傾げたシェランである。そこまで言われるようなことをやらかしただろうか。
「貴女が遠隔操作で奇跡もどきを起こしたせいで、恐らくガルダニアは国ぐるみで破門の危機に怯えてますよ。だから使者の派遣は、急かさなくてもそのうちあっちから慌ててやってくるだろうって話です」
ああ、と納得してシェランは頷いた。そして。
「……ルヴァ、なんでそんなに楽しそうなの。実は性格悪いのがばれるわよ」
「失礼な。アルほどじゃありませんよ」
「失礼はどっちだ。俺はお前のように、笑顔で相手の背後から仕掛けるような姑息な真似はしないぞ。やるなら真剣に刺すのが礼儀だろう」
「私だって、公衆の面前で吐瀉物を垂れ流させるような悪趣味な真似はしないさ。やるならもう少し後始末のことを考えるべきじゃないのか」
どっちもどっちだとシェランは思った。何より救えないことに、どちらも自分の性格が悪いと言われたことに対して否定していない。
「……アルとルヴァのどっちがより性悪かは置いといて、せっかくガルダニアの国内事情に精通してる王太子本人がいるんだから、ある程度交渉の方法とかは詰められるんじゃない?」
義兄と父方の従兄の次元の低い罵り合いの行方など、もはや心底どうでも良いシェランは、現実に立ち返って夫を振り返り、次いでさりげなく壁際に下がっていた騎士二人に問いかけた。
「こっちに訊かないで下さい。外交官でも何でもない、一介の騎士なんですから」
「王太子からガルダニアの内部事情やらを聞きだしておくのは賛成ですが、俺達は一介の近衛騎士なんですからね。警護のために廊下の端っこに立っておくくらいしかしませんからね」
「むしろそれ以上の業務をやらせると仰るなら、きちんと所定の手続きを踏んで下さい。で、給料も上げてください」
「何でそんなに嫌そうなの」
「貴女が訊きますか。申し上げておきますが、これまでのことも俺達の本来の職責を鑑みれば過重労働なんですよ」
「……要するに、早く帰って休みたいのね」
気持ちはわかるので、シェランは苦笑するに留めた。
「でもここで私達だけであれこれ考えてても、推測とか予想で終わっちゃうから。どうしたってエリアス王子からの情報は欲しいよね」
真剣に思案する主に、実はもう先に顔を見てちょっとからかってきましたなんて言えない男性陣は、そっと目を逸らした。
しかし結果から言えば、言わなかったことは何の意味もなかった。
「随分と遅いお出ましですね、リディオス皇女殿下」
牢の中にいるというのに、なぜか清々しい表情でふんぞり返る虜囚。シェランの方が圧倒的に優位であるはずなのにこの態度、ときて少しかちんとどこかで音が鳴るのが聞こえた――気がした。
「……ええ。貴国からの音沙汰が全くないものですから、ガルダニアは王太子を見捨てたのではないか、もしそうなら捕らえ損だと思案しておりましたの」
「まさか。ガルダニアは僕無しでは立ち行きません。使者は必ず来ますので、堪え性がない老人のようにかっかせず、気長にお待ち下さい」
いつかのアルトレイスからの嫌味に対する皮肉だと気付いたが、シェランは突っ込まなかった。自分はもう大人なのだ。前へ出ようとしたアルトレイスを扇の一振りで制して笑顔を作る。
(私は大人、私は大人……)
心の中で念仏の如く繰り返し唱える。焦ることも怒ることもない。切り札は全てこちらが握っているのだ。
「それで、終戦条約ですが。ガルダニアは我が国とミルフェンに賠償金を支払った後、要請があった場合を除いて干渉しない、という内容ではどうかと案がありまして」
エリアスは鼻で笑った。
「馬鹿高い金額を要求した上、使い走りになり下がれと仰るか。敗戦国とはいえそのように屈辱的なものに、使者も私も承服すると本気でお考えか」
「そう仰ると思っていましたわ」
「逆にお聞きしたいが、一応ミルフェンは独立国家。此度のこと、わざわざヴィーフィルドの、それも皇女殿下が御自ら采配なさる道理がありません」
関係ない者は引っ込んでいろ、ということだ。
「ミルフェン公夫妻はわたくしの大切な友人ですもの。友の危機を黙って見ているほど、わたくしは薄情ではありません」
「なるほど」
どこか小馬鹿にしたような響きだった。次いで、鉄格子越しの彼の唇が弧を描く。
「さすがに九年も、異界とはいえ人間として過ごされただけあって、他のヴィーフィルド人とは考え方が違っておいでだ。国同士の問題に、個人の友情を持ち込むとは」
――なぜ、という問いが、シェランを支配した。
表情が強張るのを止められない。必死でかけていた仮面が剥がれ落ちる。視界の端の高い位置で金色が動いたのが、ソルディースだとわかるまでに数秒の時を要した。
誰かが苦笑する、気配がした。
「……自分から言うとはねぇ。何も言わなければ、気づかなかったふりで返して差し上げようと思っていましたのに」
「こちらに揺すりをかけるための切り札とでも考えていたんだろう」
「賢いって評判は嘘だったかな。……姫、こうなったら選択肢は三つです」
呼び掛けられて我に返ったシェランだった。
「そうだな」
首肯する従兄に、シェランは一応、訊いてみた。
「……その選択肢って?」
ここで、珍しく二人は声を揃えた。
「一、その辺の水場に沈める。二、手近な川に沈める。三、ルトニに沈める」
「……全部同じじゃないのよっ! そんなに何かを沈めたいなら川原で石でも投げてなさい!」
だって、とイルヴァースが似つかわしくない接続詞を使って弁解を試みる。
「死人に口無しって、先人の偉大な教えがあるじゃないですか」
「沈めるのが駄目なら、ミルフェンの食事が合わずに腹を壊してそのまま死んだことにしよう」
どうあっても物理的に口封じしておきたいらしい。アルトレイスが憤慨も顕わにまくし立てる。
「別にお前が異界にいたこと自体は恥でも何でもないが、城にいなかったということでどんな不名誉な噂が流れると思う? 只人どもときたら、息を吸うように無いこと無いこと妄想するんだぞ。そんな好奇の対象に、お前がなっていいはずがない」
「どうでもいいと思ってる有象無象相手に、どう噂されるのかが気になるなんてアルらしくないのね」
「ああ、連中の存在自体どうなろうと俺の知ったことじゃないとも。だがな、小さな羽虫でも耳元で甲高い羽音が響いたら鬱陶しくなって潰したくもなるだろう」
うんうんと全員が頷いているあたり、この例えは的確なのかもしれなかった。あくまで心情的な部分ではの話だが。
「虫でも人でも同じ尊い一つの命です。うるさいと思うなら何も手を下さずとも、払えばいいだけでしょう」
「思ってもいないくせに白々しいことを言うな、小僧。そうしているとも。だが払った後の虫共の耐久性なぞまで面倒を見ていられるか」
ただでさえ寒い牢の中に、心なしか冷たい風が吹き抜けた気がした。
は、とエリアスが嘲笑めいた息を吐く。
「それが本音か。神の血を引くというだけで、よくぞそこまで傲慢になれたものだな。……リディオス皇女」
昏さを秘めた緑青の双眸が、鉄格子の隙間から刺すようにシェランを捕らえた。
「先程のお言葉を鑑みるに、聖女たる貴女も同じお考えか。だとしたら神の代行者などというものも随分世俗の泥に塗れたようだ。所詮は貴女も神の子、自身のためなら只人など幾ら死んでも構わぬと仰るか」
挑発されていると、わかっていた。だが。
「シェラン!?」
夫の腕を振り払い、神力を振るった。鉄格子に阻まれて、直接彼を打つことは叶わなかったからだ。
「何よ、この……っ、ちょっと頭がいいからって、性格悪くて根暗で、陰険さではうちのアルと良い勝負な、目つきの悪い、詰めの甘いヘタレ王子!」
あーあ、と苦笑と共に妙に間延びした声が響いたが、誰も聞いていなかった。
「人が幾ら死んでも構わない!? そう思ってるのはあなた達の方でしょう! ……悪意のある噂が立てられたら、私達だって傷つくのよ!」
椅子から転げ落ちて床に這いつくばったままのエリアスに、尚もシェランは溢れるままに叫ぶ。
「馬鹿みたい、この世の不幸全部背負ってますみたいな顔とトゲトゲした雰囲気させて、拗ねてるだけじゃない! 私がヴィーフィルドに生まれたのも、あなたがガルダニアに生まれたのも、お互い望んだわけじゃないわ。でも与えられた中で生きていかなくちゃいけなくて、辛いのはわかるわよ。権力も人並み以上にあるし、そのせいで神経磨り減らされるし、いいことなしの立場だわ。でも」
自分の言葉は今、彼に届いているだろうか。違う環境の中でも同じような立場に立たざるを得なかった、ある意味で数少ない同族である、彼に。
「それでも、全部背負って歩いていくのが、私達の仕事だわ」
良いこと、清いことばかりを選択できる人生などありはしない。どれだけそう在りたいと願っても。
「ヴィーフィルドは貴方を殺さないわ、ランセリオール=エリアス王太子。これは聖女の慈悲などではなく、単に皇女として、まだ貴方には生かしておいた方が利用価値があると判断したからよ」
告げた声は、自分でも驚くほど冷静だった。感情を掻き消した緑青の瞳がゆっくりと高さを変える。
立ち上がったエリアスは、北方の民らしく背が高かった。それでもシェランは臆することなく、一歩も引かずに見つめ返した。互いに引けないのがわかっていたから。
光のない牢に、徐々に見えない糸がきつく張られていくようだった――が。
「ええっと、お取り込み中申し訳ありません? あ、この場合お話中失礼致しますなのかな。どう思う?」
「……こっちに振らないでくれるか。お前の方が慣れているはずだろう」
「いやあ、僕三男だから宮廷への出仕は兄上にお任せして好きなことさせてもらってたからさぁ、正直礼儀作法って付け焼刃なところがあるんだよねー」
暢気極まりない会話に、くてんと垂れた糸が見えるようだった。




