十三 憂う者 訣別の人
その日もマルヴィリアは外交という名の茶会に出席して回っていたのに対し、アルトレイスは『水鏡』を開いて同胞と情報交換に余念がなかった。
ミルフェンによる経済封鎖の一報が入ってより丸一日、時たま垣間見るガルダニア国王はいつも通り王女達を侍らせて遊行に耽っている。知らぬ存ぜぬではないようだが、さりとてあちらから接触してくる気配はない。
一つだけ灯した光球が、硝子杯を照らし出す。
アルトレイスは杯を揺らし、くっと笑った。
「そうか……本当にミルフェンを動かしたか」
ああ、と応じた通信相手はイルヴァースである。
「宮廷は大騒ぎだよ。まさかのミルフェンだからな」
「馬鹿共が。起こったことを騒いだところで何になる」
杯を置いて机に肘を突いて自国の貴族達をも嘲笑する。彼にとって同胞以外の存在は、須らく従妹を守りその願いを叶えるための駒に過ぎないから、右往左往する様を軽蔑しこそすれ、案じることなどありはしない。
「ガルダニアからの援軍の将は誰か、わかったか」
援軍とも言うのもおこがましいが、と付け加えるのを聞き流し、イルヴァースは頷いた。
「正規軍の将はメヴェリット侯爵だ。だが報告によれば、王宮の近衛騎士の姿を確認している」
王宮の近衛騎士。その意味が示すところは――
「また随分と短絡的な小僧だな」
隠しようのない、また彼自身にも隠す気などない嘲笑。直視してしまったイルヴァースはすぐに視線を逸らした。
「……時々私は、お前の方が悪の親玉に見えるよ……」
「何か言ったか?」
「空耳だろう。それと、姫がライとセイを公爵夫人の護衛にと遣わされた。聖遺物を持っている」
そうか、とアルトレイスは頷いた。それはそれで役に立ってくれていい。ガルダニアの元王女はどうでもいいが、聖遺物を持つ聖女の使者という建前は使える。……時機が合えばの話だが。
「ならば計画は少し変更しようか」
「あの二人がミルフェンの館に入るまで?」
「あの只人にもう少し待って、うまく誘い込めと伝えておけ」
「ああ……その悪役丸出しな顔を何とかしろ。これから寝るのに魘されそうじゃないか」
「で、アゼリアがこそこそやってる件だが」
常の如くイルヴァースの苦情は無視される。
「あちらはまだ少し放っておいてくれ。こちらで片を付けられそうだ」
「……お前がそう言うのなら。というか、楽しんでるだろう」
「楽しむ?」
青金石の瞳が眇められる。その右手に握られた杯が危ない音を立てた。
「何が楽しいものか。只人の巣窟など臭くて鼻が曲がりそうだ。あの引き篭もりも一向に出てこん。何よりシェ――」
「姫とお会いできないのはお前が選んだことだろ。帰るまで『断つ』とか意味不明だよ。私ならこうして話すがね」
「うるさい」
本気らしく、『水鏡』越しでも神気が揺らめく。察知したイルヴァースはやれやれと首を振った。
「つくづく、姫が成人前にお戻りになって良かったと思うよ……」
「は?」
怪訝な顔をしたアルトレイスである。
異界に流れた皇女は、その生存はもちろん帰還も一時は絶望視されていた。表向き彼女の不在理由を病弱としたこともあって、アルトレイスは現皇太子ファナルシーズの後継者としてその実子以上に有力視された経緯がある。
実際、皇女が成人年齢までに戻らなければ彼が立太子されることになっていた。そして成人年齢を超えた後にシェランが見つかったら、連れ戻された時点で立太子したアルトレイスと強制的に結婚させられていただろう。つまり、臣下一同は揃って、この神族の末裔の癖に悪魔と恐れられる男を陛下と呼ばなければならなかった可能性があるわけだ。
無事皇女が生還した今だから言えるが――冗談ではない。
「ソールのためにも本当に良かった……」
初恋を実らせて幸せ一杯な、傍目には綺麗に取り繕っている弟を思い出し、しみじみと呟く。なんだかんだで可愛い弟だ、それが自分にとっても妹のような少女と幸せになることに異存などない。
しかし、アルトレイスの妻になれるような女性が皇女シェランティエーラ以外にいるかという至上の難題の存在には、一族中の誰も考えが及んでいなかった。皇女の意向にばかり気を取られ、気付いたのは皇女の婚約後。文字通り後の祭りであった。
「おい、聞こえるように言え」
「聞かせるほどのことじゃない」
「なら口を閉じておけ」
やっぱり主君にはあの心優しい皇女を選んで正解だったとイルヴァースは確信する。少々優しすぎるきらいはあるが、そこは彼女自身も自覚しているし、自分達が補っていけばいい。欲しいのは完璧な君主ではないのだ。ましてや自分で決めたくせに従妹に自由に会えないからと禁断症状を発症した挙句、同胞に八つ当たりするような心の狭い従妹至上主義者など御免である。
その従妹至上主義者は、おもむろに『水鏡』の前で居住まいを正した。
「ところでシェランは……」
急にそわそわし始めたアルトレイスを、イルヴァースは胡乱な目で眺めた。
「私は何も聞いてない。引き続き慶事なんて、そんな都合のいいことがあるわけないだろ」
告げて、イルヴァースは通信を切った。
暗い室内に、ちっと舌打ちの音が響いた。
********
やたらと厳つい顔のヴィーフィルド貴族達から威圧され、神経を磨り減らされる尋問から一時的にとはいえ解放されたエヴァリストは、用意された客間で昼食を摂っていた。
昼食を供されていた、という方が正しいだろう。まだ成人前、かつ二年前まで貴族として認知すらされていなかった婚外孫である彼女には、非常に負担のかかることであった。食欲など残っていない。
(ていうか皇族の皆様が性別丸無視なお顔だからかな……貴族のおじさん達がやたらとむさくるしく見える……)
ヴィーフィルド皇族の整い過ぎたどころではない人外の美貌は時代も国境も超越する。故に性別など些細な壁に過ぎないようだが、貴族達は基本的に人間である。有り体に言えば醜い者がいたとて不思議ではない。
不思議ではないのだが。
(シェラン様とか皇太子様とかアルモリック卿とかヴィランド公爵とかリィスティーア様とかに慣れ過ぎたんだろうか)
もしそうなら恐ろしい、とエヴァリストは震え上がった。シェラン様とリィスティーア様はお優しいから別として、あんなおっかない人達を見慣れるなんて、まさかそんな。
各々の顔について客観的事実だけを述べるなら、シェランは基本的に父親似である。アルトレイスは性別もあって生母フィオルシェーナより伯父ファナルシーズの方に似ているから、知らぬ者が見れば初見で皇女とアルモリック卿は兄妹と判断する程度には良く似ている。ヴィランド公爵家の面々に関しては、皇妃が先代ヴィランド公の妹という事実から、当主ギルトラントとファナルシーズもこれまたそこそこ似ている。
いずれにせよ皇族達は血族内で婚姻する傾向があるし、どこかで必ず繋がっているので、誰か一人に謁見した後に他の皇族達を見て既視感を覚えるならそれは自然なことなのだ。
エヴァリストの場合は皇都の国立学院に通う傍ら、専ら皇女が友人としてかなり頻繁に呼び出しては茶会をしたり何かと遊びに出たりしているため、皇女の顔を見慣れている。皇女の、人外だが生来のどこかおっとりとした気質が全面に出た優しげな、それこそ女神の如き笑顔に慣れている彼女は、逆に言えば美貌に対する耐性はあるが、厳つい顔に対する耐性が育っていなかったのである。
これを幸とするか不幸とするか。少なくとも今回は不幸の目が出たらしく、胃がきりきりと痛い。お腹が空いているのに、目の前には美味しそうな料理の数々が並んでいるのに、つんつんと突くだけになってしまうのはなぜだろう。
(議会とガルダニアの繋がりなんか知らないよぉ……ルーエだってきっとそんなことしないし……王族ってほんと何考えてんだろう……)
冷静に考えて、竜の背骨山脈を越えて遠征するのは非常に金がかかる。根が実直な庶民であるエヴァリストは、金欠なら節約して金を貯めるとまず考えるのだが、王侯貴族の考えることはよくわからない。あるところから取ってしまえ思考なら、賊の類と変わらないではないか。
(ルーエと連絡さえ取らせてもらえれば……)
ミルフェン公都マルティールにいる妻を思い浮かべ、いいやとエヴァリストは首を振った。ルイセルーエもきっと何も知らないだろう。
(そもそもルーエは無事なんだろうか。武装勢力がガルダニアのものなら、ガルダニアの王女だったルーエに危害を加えることはないだろうけど)
それは「自国の王家の血を引く王女」を理由もなく殺したとあっては外聞が悪いからで、言いがかりをつけられれば身の安全は保障しがたい。せめて一度だけでも、自分がミルフェンに帰ることができれば。
国主でありながら自国の現状を把握できていない己の不甲斐無さに項垂れる。だが続く査問中にお腹が鳴って恥をかくようなことは避けたいから、エヴァリストは供された食事に真剣に向かい合った。
ミルフェン公都マルティールで最も大きく壮麗な建築物は、従属を誓った際に宗主国たるヴィーフィルド皇国からの技術支援を受けてできたヴィオネーア宮殿である。この、王宮というには少々小さく館と称するには大きすぎる微妙な大きさの建物が、マルティールにおけるミルフェン国主一族の本拠地であり、国政の場であった。
そして宮殿一広いのは、国主と貴族達の合議制の象徴たる議事堂であった。天井には極彩色で神話の場面が数種類描かれ、上座にはミルフェン国旗とマイヤール公爵家の家紋、そしてヴィーフィルド皇王家の紋章が掲げられている。
それらを背負うような心地で、ミルフェン公爵夫人ルイセルーエ=アウローラは居並ぶ貴族達に向かって声を張った。
「これは一体、どうしたことです!」
静謐な空気を震わせた声は、しかし老練の彼等をその一言だけで動かす力はなかった。
「公爵殿下はご不在、公爵妃たるわたくしには一言もなく、大恩あるヴィーフィルドに対し反旗を翻すなど! 正気の沙汰とは思えません。今すぐ経済封鎖の命を撤回なさい!」
集った大半の貴族にも、事態は寝耳に水であった。ヴィーフィルドに逆らって良いことなど一つもない上、歴史的にもリリエンタール民族に虐げられていた自分達を庇護してくれた相手である。それに反抗したとあっては国際社会からの裏切り者の謗りは免れない。
貴族の一人がおずおずといった体で切り出した。
「お言葉ですが妃殿下、我等も今朝初めて事態を知ったのです。事情はこちらが伺いたいところ、ましてや命を撤回せよとは――そもそもどなたが出したものかすら見当も付きませぬ」
これを皮切りに、貴族達は次々に発言し始めた。
「ヴィ、ヴィーフィルドに反旗など、私は知らぬぞ! 関係ない!」
叫んで、頭を抱え込む者。
「封鎖などこちらも迷惑しております。苦労して仕入れた西方の香辛料をヴィーフィルド人に高く売りつけてやるつもりでしたのに、商談の日が差し迫ったこの時期にこのようなことが起ころうとは。足元を見られて買い叩かれることは必至です」
商人気質丸出しで鼻を鳴らす者。
他、「これは悪夢だまだ俺は寝ているんだ」と自分に言い聞かせている者、今日の取引で得られるはずだった利益の損失分を算盤を弾いて計算する者、コックリ舟を漕ぐ者――と、ミルフェンの貴族は少々、世間一般の貴族像からは離れている気がしないでもない。
「それはそうと、ベグリュー侯爵のお姿が見えませんが」
「寝坊ですかな」
表情を一層険しくさせたルイセルーエとは対照的に、暢気なものである。抜け目ないが暢気なミルフェン人、と揶揄される所以だ。
「公爵殿下がご不在の今、ベグリュー侯がおられねば話になりませぬな。失礼ながら公爵妃殿下は王宮深くでお育ちになった姫君、金勘定には些か疎くあられる」
「然り。ここは公爵殿下のご帰還か、ヴィーフィルドからの使者を待って慎重になるべきでは」
ルイセルーエは歯噛みした。男性として認知されたエヴァリストならば、子供ではあるが相手にする。だが女性に諸々の継承権を認めないミルフェンの気風に、ルイセルーエでは建設的な話ができないと侮られていた。事実、他国の王女であり幽閉されていた彼女はミルフェンの流通事情に疎かった。
だがそれは嫁いできた頃の話だ。あれから二年以上経ち、エヴァリストがリーヴェルレーヴで学んでいるのと同様、ルイセルーエも公務の傍らで勉学を重ねた。公爵の代理として執務もこなしている。
能力が足りないのは百も承知、しかし夫と共に、統治者としての覚悟を示してきたつもりだった。
(それでもまだ、この期に及んで足りないと言うの!?)
喉元までせり上がった怒りを留め、代わりに彼女は細く長く息を吐いた。そのときである。
「や、遅れて申し訳ない」
議場の扉を開かせて入ってきたのは、話題の人であったベグリュー侯爵だった。
他の誰よりも先に食えない笑みを浮かべたその壮年の男を糾弾したのは、もちろんルイセルーエである。
「可及的速やかに集まれと使者は申しませんでしたか」
「は、先客がございまして。ちと話が長引いてしまいました」
髭の剃り跡が気になるのか、顎を撫でながら侯爵は一堂を見回した。
国主であるエヴァリスト=ミシェルが幼年である現在、実質ミルフェンの最高権力者はこの男である。先代公爵の代から目をかけられた彼は、ミルフェン国内における若き公爵の後見人のような立ち位置にあった。ルイセルーエなどよりよほど権力がある。
「公爵殿下のいらせられぬ間にこのような一大事が起こったのは真に遺憾。別途で軍が迫っていると情報がありまして、これは物資を流すことになってはいかんと経済封鎖の命を出したはいいものの、さて皆様、これから如何致しましょうか」
「封鎖の命令を出したのは貴方でしたか」
「いかにも」
大きく頷くベグリュー侯爵の言い分は、一応筋は通っている。
「軽率ですわ、侯爵。何の勧告もなく経済封鎖などしたがゆえに、公爵殿下はリーヴェルレーヴにて査問中の身です。命を出したのが貴方なら、ぜひとも貴方自らリーヴェルレーヴに赴き、皇王陛下に申し開きをして頂きましょう」
怒りに肩を震わせるルイセルーエに、侯爵は苦笑してみせる。
「落ち着かれませ、公爵妃殿下」
「叛逆の嫌疑がかけられているというのに、落ち着いてなど……!」
「まあまあ。――お集まりの皆様に、私から一つお知らせと提案があるのですが」
議場内の空気が変わる。視線を一身に浴びた侯爵は、ゆったりとルイセルーエに向かって歩いてくる。
否、侯爵の目的はルイセルーエではなく、上座の席であった。割り当てられている席の手前で足を止めると、侯爵は振り返った。自然、ルイセルーエに背を向ける形となる。
「皆も知っての通り、我がミルフェンは建国以来、苦しい道のりを歩んできた。かの飛竜の民には抑圧され、他国人からは金の亡者よと嘲笑の的。ヴィーフィルドに臣従を誓って以来も同様である」
「お待ちを」
算盤を弾いていた一人が手を挙げた。
「ヴィーフィルドに乗り換えて以降は、資料を見る限り確実に利益が上がっております。リリエンタール、もといサラキアは我々……というか、父祖達から富を搾取するだけでしたが、少なくともヴィーフィルドは正当な取引をしてくれていますよ」
べクリュー侯爵は少し言葉に詰まった。
「……それでも何かにつけて融通を利かせろと圧力をかけてくることは事実だ」
詳しい材質の不明な、人の頭ほどの石らしき球体を絹の切れ端で磨いている一人が手を止める。
「まあ今のところは許容範囲ですなぁ。何しろお得意様ですから、多少は色をつけないと。それこそリリエンタールから救って頂いた恩がありますし」
「金の亡者に関しては否定できませんね。事実ですから」
「むしろ我々にとっては褒め言葉でしょう」
なぜか悦に入って頷く者もいる。
「ぐ……だが、歴史の流れの中でサラキアはデルフィニアに滅ぼされた。つまり座して待っていたとしても、いや、待っていれば、我々はより確実な独立を得ることができたはずなのだ!」
はて、と何人かが首を傾げた。サラキア滅亡には、ミルフェンがヴィーフィルドへ宗旨替えしたことが大いに関係がある(有り体に言えば金欠だ)。少々出来事の順序が逆のような。
「それが今はまるでヴィーフィルドの一地方のような扱い! 公爵殿下はリーヴェルレーヴに囚われたまま、これがヴィーフィルドによる緩慢な侵略でないわけがない! そこへ我等の光明となるのが、こちらにおわす公爵妃殿下だ!」
まさか自分に話が来るとは思っていなかったルイセルーエは、手を向けられて少し仰け反った。
「何を――」
「妃殿下がいらしてよりこちら、私は密かにガルダニアと連絡を取って、此の度王太子エリアス殿下より援助の約束を取り付けた。殿下はミルフェン独立を支援するお考えである。皆の者、よく聞け! もう我々は、従属の屈辱に甘んじることはないのだ!」
壮年の男の叫びが議場に木霊する。
貴族達はざわざわと囁き合い始めた。悪い話ではない、関税自主権が完全になるなら、いやあれほど強力な後ろ盾を失っては、しかしかの国への恩はもう十分返した――
漏れ聞こえてくる内容に、ルイセルーエは唇を噛んだ。リーヴェルレーヴ経由で入っている情報と併せ、頭の中で地図を広げる。
今回の肝は『北と南』だ。片や主が不在のヴィシュアール領、片や先年の災厄からの復興のため、騎士団による警備と監視が手薄になった従属国。後者はともかく、前者は確実に罠である。
(でもそれに、あのエリアスが気付かぬはずはない――)
だからミルフェンに仕掛けてきたというのか。皇女の成婚後でヴィーフィルド皇国全体が浮き足立っている、この時期に。
「妃殿下」
呼び掛けに、はっと思考を止めて我に帰る。ベグリュー侯爵が鋭い眼光で彼女を見ていた。
「公爵妃殿下は正当なるガルダニア王室のお方。こんな小国の妃で終わるのは口惜しいと思われませんか」
通常、王室の子女は王室へ入るものだ。だが。
脳裏に甦るのは鮮血に塗れ、倒れた母。父と兄に至っては、遺骸の確認どころか葬儀にすら出席できなかった――
「――っ、ナウゼリクス=エスライドとランセリオール=エリアスはわたくしの親兄弟の仇です! ここにいる皆が全て彼奴らに膝を折ろうとも、わたくしはこの首が落ちる最後の瞬間まで、いいえ、たとえ命尽きようとも、彼奴らにだけは屈しません!」
気付けば、叫んでいた。
「屈辱など……そなたは真の屈辱を知らぬ! あのような卑劣な簒奪者に囚われ、死ぬことすらできずにあったわたくしに、それを問うか!」
激しい詰問に、ベグリュー侯爵は一歩引いた。覚えず、ルイセルーエは一歩を踏み出す。
「ヴィーフィルドに従うことがそれほど不満か。恥と思うか。ならばわざわざミルフェンでなくとも、どこへなりとも行ってそなたが国を興せば良かろう! このミルフェンの主はベグリューよ、そなたではなくエヴァリスト=ミシェル・マイヤール公爵殿下である! 一介の臣下が、国主の不在時に国の命運を決めるなど、それこそ不忠! 身の程を弁えよ!」
叩きつけるような叫びのどれが、ベグリュー侯爵のその線に触れたのか。気付いた時には、太い腕が振り上げられていた。
「小娘が、言わせておけば――!」
逃げられない。覚悟してルイセルーエは目を閉じ、身を硬くした。一発くらい、耐えてみせる――。
その瞬間に、何が起こったのか正確に見て取れた者は、少なくともミルフェン人の中にはいなかっただろう。
「――そこまでだ」
聞こえるはずのない声。
「ミルフェン公爵夫人、アウローラ様であらせられますね。ご忠義、確かに拝見致しました。聖下もお喜びのことでしょう」
恐る恐る目を開けたルイセルーエの視界に、とんでもないものが飛び込んでくる。
「あ……」
「聖女猊下より命を受けて参りました。ヴィーフィルド皇国は近衛騎士団に在籍しております、聖騎士ライゼルト=エアルク・ディスフォルク・アルス・セライネと申します」
「同じく、聖騎士セイルード=ラディウス・ウィズベルト・イルス・オルソールです」
何度か皇女の傍で見たことのある――というか、知己と言って良いほど面識もあるし言葉を交わしたこともある。
だがその二人が、ミルフェンの筆頭貴族であるベグリュー侯爵の喉元と振り上げた腕とにぴたりと剣を添えたまま、にこやか且つ爽やかに名乗るこの状況は何なのだろう。
「ベグリュー殿と仰ったか。そのまま動くな」
言って、剣を収めたのはライゼルトである。セイルードのそれは喉元に突きつけたままだ。
「我等は聖下より貸与された聖遺物『金陽の剣』をもって、かの方よりその権限を委任されている。方々、妙な真似はされますな」
『皇女殿下』ではなく『聖下』という呼称を使う、その意味。
「……ディスフォルク卿、ウィズベルト卿。お二人ともよくいらして下さいました」
ルイセルーエは姿勢を正し、一国の国主の妻に相応しい優雅さと――強さをもって、告げた。
「ミルフェン公爵国公妃として、聖下よりの使者に要請致します。この慮外なる叛逆者を、拘束して下さいませ」




