四 鳴らない琴
その日の皇城二の郭にあるミルフェン公爵邸は、朝から非常に忙しかった。
「ルーエ、ルーエ! 僕の新しい靴下知らない!? 侍女さんが出しておいてくれたはずなんだけど……」
ばたばたと食事を済ませたミルフェン公爵に、妻であるルイセルーエは冷静に指摘した。
「そこの机の下に落ちているものは何かしら?」
「……あ」
「きっとシャツに紛れて落ちたのね。色が同じですもの」
こそこそと恥ずかしそうに靴下を拾い上げる夫にルイセルーエが優しく笑いかけると、夫は真っ赤になった。
「もう、仕方のない方。エヴァ、落ち着いて?」
「僕は落ち着いていられるルーエが信じられないよ……」
エヴァリストは、はあっと大きく息をついて長椅子に身を投げた。
「田舎の薬屋の子の僕が、ミルフェン公爵になって、ガルダニアの王女様と結婚して、それであの神様もどきの人達と知り合いになって、聖女様から友達扱いなんて……しかもそのご婚礼にまで招かれるなんて! 今でもまだ信じられない」
金褐色の巻き毛をぐしゃぐしゃにして悶える彼女は、同性のルイセルーエの目から見ても微笑ましく可愛らしい。しかし今はそれをじっくり楽しむ時間はなかった。
「エヴァ、顔を上げて。これは現実よ。貴女はミルフェン公爵なのよ。しっかりなさって? 出立時刻が迫っているから、さっさと着替えて頂戴な」
最後が非常に現実的だ。
「歴史に残るお式ですもの。友人としてお招き頂いた貴女がしっかりしていなければ、ミルフェンにも聖下の御名にも傷が付くわ」
はいはい、と椅子から立ち上がったエヴァリストは、ふと日当たりのいい彼女の応接間の窓辺に飾ってある物が目に留まった。
「ルーエ、あれは? 琴?」
形状からして複数弦の琴の一種ではないかと思われた。庶民出身ではあるが、ヴィーフィルドの国立学院に通うことで様々な教養が身についている彼女は、一目で琴と見抜くことが出来たのだった。弦を何本使うのかまではわからなかったが。
「ええ……母の形見よ。六弦琴。弓を使って弾くの」
「へえぇ……。ね、今度聞かせてよ」
きらきらと青灰色の瞳を輝かせてねだる夫に、いつかね、とルイセルーエは頷いた。
「でも今日は無理ですわ。そして早く、きちんとお仕度なさって下さいな、旦那様」
はあい、と返事をしてエヴァリストは着替えの続きのために自室に戻って行った。
……こうした瞬間の、一つ一つが愛おしいと思う。故国にいた頃は想像もしなかった穏やかな生活。必要としてくれる人がいること。広い広い王宮で王女として大切にされていたときよりも、どうしてか満たされていて。
けれど、だからこそ考える。この幸せは、本当に自分が享受しても良いものなのだろうか、と。
時々、ルイセルーエは自分はいてもいなくてもどちらでも良かったのではないかと思う。
王室の跡取りとしては既に兄がいたし、政略の駒として役に立つ王族筋の娘など掃いて捨てるほどいた。元々ガルダニア王室は代々色狂いと言われる家系だ。父王は正妃である母一人を愛し抜いたが、祖父は三十人もの庶子がいたらしい。
父と母の出会いは、父が王子時代にアーラントードへ行啓した際に接待を任された母を見初めたのが始まりだったという。
『皇帝陛下から命じられたときは、どうしてわたくしが、と思ったわ。異教徒の世話などしたくないと、泣いてお部屋に閉じ篭もったものよ』
でもね、と必ず母は逆説で続けた。
『見たことのない銅の髪を靡かせた、とても凛々しい王子様だったの。最初のご挨拶の時に少し微笑まれて、ほら、お父様は笑うと目尻が垂れるでしょう? 優しそうな素敵な方だと思ったわ』
一方の父は。
『一目惚れだったんだ。晴れた南の海の色を持つ公主……お母様は並み居る水の民の中でも飛び抜けて綺麗で、ずっと目が離せなかった』
『帰国の日が迫っていてね。どうしても公主と離れたくなくて、皇帝陛下にお願いしたのだよ。まだ兄上が生きておられたからね……』
御伽噺のような出会いをして、結ばれて。そんな両親はとても仲が良かった。ルイセルーエの記憶の中では、終ぞ二人は喧嘩などすることなく穏やかに寄り添っていた。
父は母に対してとても寛容だったのだと、今ならわかる。
他国、それも異教国家から嫁いできた姫を、改宗もさせず正妃に据えたのだ。どれほどの反発があったことだろう。居住区だけとはいえ、異国風に作り変えられた王宮に不満を覚えぬ者はいなかっただろう。
そして王女たる娘も異教の信仰を受け継いだ。表に出されることはなかったとはいえ、王女として表面だけでも取り繕うべきだったのだろう。だが幼いルイセルーエには、どうしても自分を偽ることができなかった。
信仰を隠せ――と、兄にもよく言われた。母と妹が歌う歌を心地よさげに聴いていた優しい兄。優秀な後継者として既に高い評判を得ていた彼だが、高まる貴族達の不満を抑えることはできなかった。国王たる父も。
ルイセルーエは頑として改宗しなかった。水路に入って歌うことをやめなかった。
結果的にそれが叔父の反乱を招き、国に文字通り身を捧げていた父と兄は殺され、母は叔父の慰み者にされかけた。前王の正妃をそのように扱うということは、対外的に王朝を征服したとわかりやすく内外に知らしめるからだ。
『貴女は生きるのです。何があっても生き延びて――……幸せになるのよ、ルーエ』
仰向けに倒れた母の胸には短刀が突き立てられていた。どくどくと流れ出る血が、わざわざ母の故国から取り寄せたという高価な絨毯をどす黒く染め上げていた。
喉に長剣が突き立てられていた。二度と息を吹き返すなとでも言うように。瞬きを忘れて見つめるルイセルーエの目の前で、ゆっくりとそれは引き抜かれた。泉のようにそこからも血が流れ出していた。ぴちゃん、とそれは跳ねて、彼の鎧をも汚した。そう――彼。
『エリアス――……!』
従弟の母は、叔父の正妃ではあったが身分の低い女だった。愛妾に身を落としたとはいえ、先代王の正妻から異母弟が生まれることは、彼にとっても都合が悪かったのだろう。ルイセルーエを離宮に幽閉したのも、きっと同じ理由だ。正当な王家の血を引く嫡出の王女である自分が、エスライドの息子を産めば自分の地位が危うくなると。
それでも――振り向いた彼が、硝子玉のように虚ろな目をしていたことを、覚えている。
『……ああ、いたんですか。ルーエ』
彼は笑おうとした、のだと思う。口の端が引き攣れたように奇妙に歪んでいた。
『馬鹿な女です。父上の息子でも産めば、また王妃の座に返り咲けたかもしれないのに』
ルイセルーエが何かを言う前に、彼は早口で捲くし立てた。
『大人しくしていないからこうなるんですよ。ルーエ、貴女はじっとしていて下さいね。愚かな母親のように、くだらないもののために命を絶つような真似はしないで下さい……もう先王と我々を繋ぐのは、貴女しかいないのですから』
『な……』
『貴女の身柄を西宮へ移します。そこでせいぜい、琴を奏でながら小鳥のように歌っていて下さい』
そのときは何も考えられなかった。母への侮辱と自身へ向けられた言葉の無礼さに腹が立って仕方がなかった。
生前の父が、エリアスと自分を娶わせようとしていたことは知っていた。王妃を改宗させずその座に据え続けていることで高まっていた不満を緩和するための手段の一つとして。一人娘を弟か甥に嫁がせることで、彼らの信頼を得ようとし、またその首に枷をつけようとしていた。侍女達の噂話から何となく察していた彼女は、いずれ従弟の元へ嫁ぐのだろうと思っていた。
二人の立場が全く変わってしまった後も、縁談は依然として残っていた。今度は前王朝の血を引く王女を王妃か王太子妃に据えることで、玉座の正当性を主張する道具と見做されたのだ。
どれほど抵抗したとて、決まってしまえば所詮は男と女。もはやエリアスに力では敵わないことは、目に見えていた。だから、必死に拒んだ。両親と兄への弔いのために。
けれど、あの日。
『おめでとうございます、ルーエ。この箱庭から出られますよ』
歓喜より先に胸を過ぎったのは、何故という疑問だった。
だが理由を聞いてそれはすぐに氷解した。西の金庫と呼ばれるミルフェン公爵国への、緩慢なる侵略のための駒として遣わされるのだ、と。
まだ奪い足りないのか、と彼を罵った。
『父上様と兄上様から玉座を奪い、母上様の命を奪い、わたくしから誇りを奪ってなお、お前達は奪い足りないと言うの!? 恥を知りなさい!』
彼は言った。これは情けだと。改宗しない君にこの国で生きる場所はない。身分を落として他国へ逃れる程度が君にできるせいぜいのことだ。
『だからこのわたくしに公爵国へ嫁げと言うの!? 嫌よ、誰がお前たち逆賊の企てる侵略の手伝いなどするものですか!』
久しぶりに見た従弟の目は変わらず硝子玉のような――氷のような冷たさで、それが彼女を怯ませたが、そんなことはおくびにも出さず言い募った。激しく彼を詰った。
それでも、凍りついた彼の表情が揺らぐことはなかった。
母の形見の六弦琴を奏でるための弓を折り捨てたのは、その夜のことだった。
以来、ルイセルーエは一度も歌っていない。
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その日の皇都リーヴェルレーヴは尋常でない賑わいだった。
城下町の門から皇城の三の郭までを真っ直ぐに貫く大通りには、皇王家の紋章、皇女の個人紋章、リヒトクライス卿の個人紋章を染め抜いた旗が交互に、等間隔で立てられている。住民達の自発的な発案でそれぞれの窓辺に飾られた花は、色も種類も統一されていなかったが、かえって溢れんばかりの色彩をもって華やかさを増していた。
行き交う人々の表情は明るく、また皆が皆、どこか落ち着かないようで時折皇城を見上げる。数々の尖塔に翻る旗は慶事を示す黒、細かく刺繍された金糸に陽光が反射してきらきらと輝いていた。
しかし、決定的な合図がまだだった。
婚礼の日の前日までに来賓は皇城の迎賓館に到着していた。
この四千年間で二度目となる『聖女』の婚礼とあって、諸国はどれほどの事情があっても大使を送ったし、祝いの献上品も多数持参していた。時にはその目録が使者の身長より長く、ヴィーフィルド側の担当者を呆れさせている国もあったほどである。
これを機会に他国の重要人物と面識を得ようと、水面下では多くの動きがあった。事が事であるために大使に立ったのはそれぞれがよほどの人物で、ほぼ全てが直系の王族やそれに近しい者であったためだ。当然、随行する者も中途半端な立場の者はいない。末端の侍従でさえその国内の有力者の子息であるという状態だった。
そんな中、ミルフェン公爵夫妻は婚礼前の数日の午後は皇女と共に過ごしていた。全ての準備が終わって退屈で死にそう、という彼女の求めに応じたためだ。使者達から到着の挨拶を受けるのは皇王(途中で時折逃走したため一時は皇太子)で、彼女が直接応じるのは婚儀後の祝賀の挨拶だからという事情もある。
もちろん皇女とて、ミルフェン公爵夫妻ばかりを招待していたわけではない。昨年の誕生式典やその後にも親交を得た各国の王族達を個人的に引き合わせる意味もあった。
大陸の反対側に位置する帝国、アーラントード皇太子とミルフェン公爵夫人がその代表例であった。
式の前日、呼ばれて参内したルイセルーエは、入室した瞬間にその人を見て驚いた。
「ギルゼターニャ様……?」
水の民が使う通信法は『水鏡』と違い、声しか届かない。ルイセルーエがその人だと判断したのは、事前の情報と服装によるところが大きかった。
「ああ、ルーエ。こちら、アーラントード皇太子のギルゼターニャ様。今日お着きになったの。親族だと聞いたから、個別にお会いする機会をと思って。連絡が遅れてごめんなさい」
「いいえ……お心遣い、ありがとう存じます」
振り向いたギルゼターニャは、ルイセルーエの母にどこか似ていた。
当然だ。同族であり血族であるのだから。
「サレサイア様のご息女、ルイセルーエ姫とお見受けする。じかに会うのは初めてじゃな。息災な様子で何より」
「次期様、ご機嫌麗しゅう。お会いできて嬉しゅうございます」
ここでルイセルーエは迷った。アーラントード式に拱手の礼をするか、西方の一般的な礼を取るか。
「……いいお天気だよねぇ」
皇女は窓の外を眺めていた。つまりはルイセルーエ達とは正反対の方向に顔が向いていた。私は何も見なかった、ということにしてくれるらしい。
「ルルー、顔を上げてくれ。あの凶事に何もしてやれなんだ我等を、どうか許して欲しい」
「許すなど……お気にかけていて下さっただけで十分でございます」
そう、気にかけていただけで良かった。それはギルゼターニャも分かっていただろう。
あのとき、アーラントードが嫁いだ公主とその娘の庇護に動いていれば、間違いなくルイセルーエの命はなかった。アーラントードによるガルダニア侵略を警戒しての反乱だったのだから、あのときアーラントード帝室が沈黙を守ったのは、二人の命を守るためには正しい選択だったのだ。
「瞳が青いし、髪が紫紺……ということは、少し我等の血が強く出たのだね。額の貝がなくとも能力が使えるのはそのせいかな」
「わたくしにはわかりかねますが……兄は見た目もガルダニア人で、異能もありませんでしたので、きっとそうなのだろうと母は申しておりました」
だから母はルイセルーエに拘り、自分の信仰を伝えたのだ。それが自分の首を絞めることになるとわかっていても――。
ギルゼターニャは青い瞳を細くして柔らかく笑った。
「能力を継いでいたからそなただけでも安否を知ることができた。これこそ天の采配というのだろうね。……サレサイア様は六弦琴の名手だったと聞く。娘の貴女にも教えていたと聞いたよ。できればぜひ聞かせてもらいたいものだ」
荷物の中に一揃いあるのだと言われ、ルイセルーエは返事に迷った。
「……お耳汚しになるやもしれませんわ。何年も弓を取っていないもので……」
ギルゼターニャの青い目が意外そうに開かれた。だが彼女は何も言わなかった。そうか、と言って、ルイセルーエの頭を撫でた。
母親が子供にするように。




