音の正体
それから二週間ほどはめずらしく騒音は聞こえず、いわゆる生活音がするだけの、比較的平和な時間が過ぎていった。競い合うように鳴いていたセミたちも数を減らし、朝晩は気持ち過ごしやすい気温へとシフトしていく。もっと涼しくなったらベランダにキャンプ用の椅子でも出して、なんて考える。期限のある団地生活を楽しまなくちゃ、と一人暮らしと団地暮らしに慣れてきた頃だった。
休みの土曜日、三時のおやつでも買ってきてのんびりお茶でも飲むか、と買い物に行こうと階段を降り切った時、ちょうど前をあのご婦人が横切った。手にはエコバックを二つ下げている。もうお買い物を済ませてきたようだ。
「こんにちは」
私が声をかけると、ご婦人はこちらへ顔を向け、あらこんにちは、と笑顔を見せた。
「お出かけ?」
「はい、買い物に。三時のおやつと夕飯のものを」
「おやつ?じゃあうちに寄っていかない?美味しそうなロールケーキを買っちゃったんだけど、小さいやつでも一人で食べるにはちょっと多いから。よかったら手伝ってくれる?食べるのを」
楽しそうに笑うご婦人に、何かを疑う余地はない。一人で、という事は一人暮らし。それにまだ昼の明るい時間だし。それに、とひらめく。このご婦人に、団地の音問題について聞いてみたい。さらには、ロールケーキ。ということで、私は、
「おじゃましてもよろしいんですか?」と行く気満々で聞き返した。
「ええ、どうぞ。まだ今日で二度目の方にお誘いなんかして、図々しいおばさんだけどよかったらお茶のお相手してくださいな」
ご婦人の後をついて隣の階段を上っていく。部屋は4階だ。高齢者、と呼んでも差し支えないであろう世代の人にとっては、階段の上り下りは大変だろう。私でさえ3階を過ぎると息が上がってきたのに。
そんなこちらの心配をさっしたのか、
「もう長年住んでいるから階段も慣れたものよ。だけどさすがにここ数年は足腰にくるわね」振り向いて、目じりを下げた。
これが本来の間取りなのであろう。玄関はわりと狭く、入ると、これが昭和レトロってやつの擦りガラスの引き戸。ダイニングキッチンと和室の間には襖があって、開け放しておかないとすごく狭く感じる。生活の年月が長いことは、ぴっちり置かれたタンスや茶箪笥など、物の多さが物語っていた。
「どうぞ、座って」
小さなテーブルの前の、花柄の座布団が置かれた椅子に腰を下ろした。
「あ、あの、自己紹介がおくれました、私、森山葉月といいます。あの、お招きいただきありがとうございます」
ペコリと頭を下げると、ご丁寧に、とご婦人も頭を下げる。
「私は神崎とし子、ここに住んでもう45年になるわ」
そうなんですか、と驚きの声を上げる私の前に、切り分けられたロールケーキとティーカップが置かれ、花柄の昭和レトロ感のあるティーポットで紅茶を注いだ。
いただきます、とさっそく紅茶に口をつけ、それからロールケーキにフォークを入れた。
「あの、実は私、団地の生活で聞いてみたい事がありまして」
すかさずケーキをほおばり、美味しさを堪能する間もなく言った。
「なにかしら?」
「私、実家は一軒家で、ずっと実家暮らしだったものですから集合住宅での生活って初めてなんです。他所の家の音ってすごく聞こえるんですね、けっこうびっくりしてるんですけど」
「まあ、コンクリート住宅って、おまけに昔の造りだからね、わりと響くわね。でも、そんなにうるさい?」
とし子さんもケーキをほおばり、美味しい表情の後、探るような瞳を私に向けた。
「森山さんのお部屋、お隣の階段だと303か304、でしょ?4階の404のお部屋は4年くらい前に出ちゃったし、403のお部屋は半年くらい前だったか知らねえ、いつの間にか空き部屋になったし。5階の二部屋と、2階は3のお部屋はまだ住んでいるけど4のお部屋は開いているし、わりと住んでいる人は少ないんだけどねえ…そんなに音がするの?」
「はい…ドスン!って音がしたりバタバタ走り回るような音とか、ギコギコのこぎりで切っているような音とか。いったい何してるのかしらって、ほんと、不思議でしょうがないんですけど」
笑いながらまたケーキにフォークを入れ、口に運んでは紅茶を飲み、騒音に対するストレスを発散した。
が、急にとし子さんの笑顔が薄くなった。私、何か気に障るような事でも言っちゃったのかしら…
「あ、すみません、私ったら、なんか、変な言い方しちゃいましたね」
恥ずかしそうなそぶりでとりあえず誤魔化すか。でも今の例えはまさに私の耳に入ってくる音、なのだ。
「気にしすぎなんですかね、私。自分の部屋の上に他人がいるって、初めての経験なんで過敏になってるんでしょうね」
自分の部屋の上下左右にしか気が行ってなかったが、ここでの他所の家にはとし子さんも含まれるわけだから、離れた部屋でも気にしてしまったのかもしれない、とすみませんを連発した。
「昔…」
黙っていたとし子さんが急に口を開いた。
「むかし、ここの団地で事件があったのは知らないわよね。30年くらい前だから、まだ森山さんは生まれていない頃じゃないかしら」
とし子さんの話に体の芯がひやりとした。事件があった団地だったなんて、全く知らなかった。30年前と言えば、私が生まれた年だ。
「いやな事言っちゃったわね、これ以上は止めておきましょうね」
早い段階で話しを切り上げようとしたとし子さんに、もう少し聞かせてください、と身を乗り出し。
とし子さんは、かいつまむ感じで教えてくれた。同じ棟ではあるが、私の部屋からはかなり離れているという事、今でいうDVが原因となって、暴力をふるわれていた妻ではなく夫の方が亡くなったのだという事。
亡くなった。どういうふうに?死んでしまったのか、殺されたのか…
その辺は明確には話さなかったとし子さんだが、彼女の表情を見て、後のやつだと感じ取った。
だけど…
もう30年も経っているし、ありがちなのは霊が出た、とかの可能性なら解るのだが、音というのは…
「その時その部屋の下に住んでいた人はね、音がうるさい時によく窓から顔を出してうるさい!って怒鳴っていたわ。その時は静かになるけどそのうちまた始まるって、こぼしてたわ。そこのご夫婦とはお付き合いがあったからね。事件の半年後くらいに引っ越していってしまったけど」
空を見るでもなく雲を見るでもなく窓の外に視線を彷徨わせるとし子さん。
「いやな事思い出させちゃって、ごめんなさい」
申し訳ない気持ちと、とんでもないことを聞いてしまったがっかり感とで私の心も曇っていく。
「いいのよ、こちらこそ余計な話をしてしまって。というよりは、私の方が悪い事をしてしまった…正直に言うわね。私、音が聞こえてるの、あなたと同じ、音が」
え?と聞き返した時、きっと間抜けな表情だったと思う。だって、なに言ってるの?この人って、私が聞いているのと同じ騒音が聞こえてる?って、ありえるの?って。
「ドスンって、人が床に倒れるみたいな音でしょ?人が走り回るようなバタバタとした音でしょ?それからのこぎりを引いてるような音…まさに、同じ音を私も聞いているの」
まるで告白でもするかのような、神妙な面持ちのとし子さん。そのとし子さんを見つめる私の目は、瞬きを忘れていた。
「以前はね、年に一度くらいだった。ちょうど、事件があった頃と同じ季節に。だけど、いよいよ取り壊しが決まったって住民たちに通知されたころからはたびたび聞こえてきたの。そして、期限付きのお部屋の工事が始まった頃からは頻繁に聞こえるようになったわね。もしかしたら、みんなに思いだしてもらいたいのかもしれないって、私は一人で思っていた。わずか数軒のご近所さんたちはどうなのかしら、聞こえているのかしらって気になって、でも聞くことはできず。そして誰も、そんなことは言わないし」
だよね、と心の中でつぶやく。聞こえている人もいるかもしれないし、聞こえていないかもしれないし。
そうか、そんなふうに悶々としている時に、新参者の私が音の話をしたものだから、それできっと、自分だけじゃないって、安堵して話し出したのかも。
感じたままのことをとし子さんに問うてみる。思った通り、聞こえる仲間がいるってことで胸のつかえがおりたから、事件の話をしてしまったとのことだった。
「森山さん、予定より早めにここを出て行ってしまう?やっぱり気持ち悪いものね」
その問いかけにはっきりとした返答はできないまま、ケーキはきれいにたいらげ、お茶も味わい、ご馳走になった事の礼を言って神崎家を辞した。
その夜は、あの音は聞こえてこなかった。私ととし子さんの会話が聞こえたのかしら、なんて想像する。
帰り際とし子さんは言っていた。次の住まいが見つかり次第ここを出ていく、と。高齢者は貸してくれるところがあればすぐにでも決めないとね、と寂しそうに、言った。
私は…どうするかな…
ベランダに出て、夜の風をあびながら、聞こえてくるのは秋の虫たちの鳴き声だけならいいのに、と見えない星を探しながら、思った。
おわり




