古い団地
「うわぁ、けっこう音うるさいね」
「でしょー?集合住宅って、私初めて住むからさあ、こんなひどいなんて思わなかった!」
「でも、うちマンションじゃん、集合住宅だけど、ここまでひどくはないよ」
「やっぱ古い団地だからかなあ」
三十歳になるこの歳まで、実家から出たことがない私は、結婚前に一人暮らしをしてみたかった。だが、結婚の予定があるわけではない。
この団地は、4年後には取り壊されることが決まっている。築60年の古い、昭和な団地。その取り壊しまでの3年間限定で、安い賃料で貸し出される。安いだけではない。オシャレな部屋にリノベーションもされている。
こんな素敵な部屋ならみんな飛びつくかとおもいきや、やはり3年で出なければならないというのはネックになったようで、わりとすんなり借りることができた。限定3部屋にもかかわらず。
通勤時間は実家の時より20分短縮され、駅周辺には大手スーパーや商店街もあって、生活はとても便利になった。
だが、住み始めて1ヶ月も経つと、集合住宅ならではの騒音に神経が苛立つこともしばしばある。
管理事務所の人は、コンクリート住宅は音が結構響きますよと言ってはいたが、ガタン、ゴトン、のレベルじゃない。斧でも振り下ろしたのかい?のこぎりで柱切っちゃってる?みたいな音がする。する、というか、私にはそう聞こえて、想像してしまう。
引っ越ししてから初の客人となった、友人・奈美もちょっとねえ、と眉をひそめた。
「造りが違うのかね。うちのマンションは築15年、かな。私が高校に入る時に新築マンションを買って。それまでは古い一軒家だったから、マンションてめずらしくってうれしかったの覚えてる。多少よそんちの音は聞こえるって言ってたけど、ここまではねえ」
いったい何をしているのか?なにをしたらこんな音がでるのか。
一度お宅拝見、というか生活拝見してみたいものである。
「もしかしたら…人でも殺してんじゃないだろうな、とか勝手に想像してんだ。ギコギコのこぎりで遺体を切断して、とか、重たいフライパン頭に振り下ろして、とか」
真顔で言ったつもりはないのだが、奈美の顔には恐怖におののくようなかすかな引き攣りさえ見えた。
「あんた、怖すぎ!そんな妄想ばっかしてるとオバケがでちゃうよ」
「は?なんでオバケが出てくるのよ」
たしかに、と奈美は自分の発言を笑い、私はつまらない妄想癖を笑った。
一度は妄想癖を笑った私だが、日が経つにつれその妄想はますますエスカレートしていった。
突然上のほうからドスンという衝撃音が聞こえてくる。今のは夫が妻を突き飛ばした、いわゆるDVの音。ドタバタと部屋の中を走り回っている、足音。突き飛ばすだけじゃ足りなくて、さらに殴りかかってくる夫から逃れるために部屋中を逃げ回っている音かも。
ゴリゴリ・・ゴリゴリ・・と何かを擂るような音がする。年金欲しさに亡くなってしまった親の遺体を隠すために切断している音。そのうち部屋の天井に何かシミのようなものが広がってきたりして…なんてね。
こんな恐ろしいこと、身近で起こるなんて考えただけでも恐ろしいのに、そんなことおきてもらっちゃ困ることなのに、妄想せずにはいられない。それくらい、私の精神にダメージを与える騒音なのだ。
…3年も我慢できるかなあ…
貯金を取り崩してソファや食器棚を買って、雑誌に載っているような部屋を真似て、できあがったっていうのに。
引っ越してきて3ヶ月も経ってから、初めて同じ棟に住む人に出くわした。
自分が動く時間帯と同じ人がいないだけのことだと、深く気にした事はなかったが、こちらに向かって歩いてきた人が、私の部屋のある階段の一つ隣りの階段へと体を向けた時に何となくこちらを見た。私も階段の方へ体を向けようとした直前だったので、目が合って軽く会釈をした。むこうも会釈を返してくれた。そして声もかけてきた。
「こんにちは。お隣の階段のお部屋なんですか?」
そう話しかけながら私の方へと歩いてきた。うちのおばあちゃんと母の、間くらいの年齢に見える穏やかな雰囲気の女性だ。
「はい、3階なんですけど、3年間限定のリノベーションされたお部屋なんです」
「そういえば団地の広報に載っていたわね。モデルルームみたいにきれいなお部屋を作って取り壊しまでの間貸すって。ここからさきはみなさんでていくばかりになってしまうからね、少しの間でも若い人が住んでくれると寂しくなくていいわ」
言いながらご婦人は、団地を見上げ、棟と棟の間に立つ木々に目を移した。
それから私にむきなおり、「短い間だけどよろしくね」と笑顔を残して戻っていった。
その日の夜、どたどたとうるさい音がした。いつにもまして、うるさい。
マジでなにやってんだろ。夫婦喧嘩?いや、引きこもりが暴れてる?もういい加減にしてほしい。
「もう!うるせーんだよ!」思わず怒鳴った。ここは、音は聞こえてくるけど話し声は聞こえてこない。ベランダの窓を開けていれば、多少の話し声は聞こえてくるけど、窓を閉めている時はまず聞こえてこない。なので苛立ちを紛らわせるように、一人声をあげた。
すると、急に音が止んだ。
…え!まさか聞こえた?…
怒りは一瞬にして焦りに変わる。こちらの怒鳴り声が聞こえていたら、どこのどいつが怒鳴ったんだ、と探されたらどうしよう…
だがその後は静かな夜の時間が過ぎるだけで、なにが起こるわけでもなかった。




