40歳を過ぎたら……
その後、僕達は一緒に家に帰った。ほんの数分、あっという間だ。家の前では、丘さんと弘美さんが落ち着かなさげに歩き回っていた。丘さんと弘美さんは、僕達の姿を見付けて駆け寄ってきた。
「この、馬鹿者!」
孔子ちゃんの前に立つやいなや、丘さんが手を振り上げる。僕は、とっさに孔子ちゃんを庇って前に出た。丘さんの平手が、僕の頬を打つ。痛い……。弘美さんが悲鳴を上げておろおろしている。
「どきたまえ」
丘さんが僕に謝りもせずに言う。
「いいえ、どきません。僕には、丘さんが正しいとは思えませんので」
僕は真っ直ぐに丘さんの目を見て言い切った。
「これは、我が家の問題だ。部外者に口出しされるいわれはない」
孔子ちゃんのお父さんが頭ごなしに否定する。頬の痛みよりもその態度に、僕は思わずかっとなった。
「いいえ、一方的に首にされた家庭教師として言わせていただきます。丘さんのやり方は横暴です。間違ってます。孔子ちゃんは自分でちゃんと考えることのできる、とても賢い子です。今は引き込もっていても、必要だと思ったら学校に行くでしょうし、勉強もすると思います」
「何を無責任な……」
丘さんは、怒りに苛立ちながらも、僕が強く反論したことに面食らっているようだ。
「でも、その責任あるはずのあなたの態度が孔子ちゃんに家出をさせる結果になりました。僕がすぐに見つけられたから良かったものの、それがどれだけ危険なことだったか、分からないんですか!?」
「君みたいな子供に、親の責任について教えてもらう必要はない!」
ガキは黙っていろという、傲慢な大人のへ理屈だ。
「大人が、それだけで偉いと思っているんですか? 丘さんはもう、四十を過ぎているでしょ? 僕はまだ十六歳、孔子ちゃんに至ってはまだ十四歳です」
「だからなんだ?」
丘さんがいぶかる。
「孔子ちゃんに教えてもらった論語の言葉に、こんなものがあります。『子曰く、後生畏るべし。いずくんぞ来者の今に如かざるを知らんや……』」
先日孔子ちゃんが僕に言ったこの言葉には続きがある。恐らく、孔子ちゃんのお父さんにとってはかなり失礼な言葉だけど、僕は続けた。
「『……四十、五十にして聞こゆる無きは、これまた畏るるに足らざるなり。』つまり……僕たちは丘さんなんて怖くありません。逆に、丘さんは孔子ちゃんや僕に、畏れおののいてください!」
先日の孔子ちゃんを真似た言葉を、孔子ちゃんのお父さんに叩きつける。
この現代社会、四十、五十になったところで、政治家を含む一部の著名人や、一流企業の重役を除けば、自分が世に聞こえるほどの人物だと自信を持って言える人は稀だろう。一生懸命働いても、会社内でそれなりに評価されるだけで終わり……そんな人が大半のはずだ。これは、ある意味、頑張っている現代社会の一般人への侮辱ともとれるような言葉なのだ。
僕自身は、普通に自分の力で生きて、普通に家庭を持って、子供を育てられるだけで尊敬に値すると思っているし、自分がそれを簡単に実現できるとも思っていない。でも、この言葉にみられる孔子の時代の価値観はそうじゃない。生まれてきたからには、努力して世に聞こえる何かを成し遂げよと、要求しているのだ。
丘さんは、当然と言うべきか畏れおののいたりはしなかったけど、ただ、苦笑した。自分が『聞こえる』ほどの人物か自省したんだと思う。それを見て、孔子ちゃんも微笑んだ。
「父上も母上も吾のことを思ってくれているのはわかっておるが、それほど心配せずともよい」
「引きこもっている娘を、どうやったら心配せずにいられるんだ? 親の老後の面倒をみてくれとまでは言わないが、このままでは私が死んだらお前はどうなると思っているんだ!」
孔子ちゃんの言葉に、お父さんが再び声を荒らげた。
「吾は、別に父上や母上のことを無視しているわけではない。言われていることは理解しておるし、全く従う気がないわけでもない。今はただ、少し寄り道をしておるだけじゃ」
「本当か?」
孔子ちゃんのお父さんが疑わしげに言う。
「うむ。『子曰わく、今の孝はこれよく養なうをいう。犬馬に至るまで皆よく養なうこと有り。敬せずんば何を以て別たん』、という奴じゃ」
『今』、つまり孔子の時代、孝行というのは養うことを言った。でも、人は犬も馬も養っているんだから、敬わないと違いがわからない……そんな意味だろう。現代でもこの上なく当てはまる言葉だけど……。
「その言葉、今のこの状況と関係あるの?」
僕の問いに、孔子ちゃん自信満々な風で頷いた。
「無論じゃ。吾は父上、母上をしっかりと敬っておるから孝の本質を外しておらぬと言いたいのじゃ。養う気は無いがな」
しれっと孔子ちゃんが付け加える。
「それじゃ犬馬にも劣るじゃん!? 養ってあげなよ!」
「養うことが孝だとは、論語のどこにも書いておらぬな。では、こんな言葉はどうじゃ?『子曰わく、父いませばその志しを観、父没すれば其の行いを観る。三年父の道を改むる無きを、孝というべし』。心配せずとも、父上が死んだら三年は喪に伏してやるから、安心して死ぬがよい」
孔子ちゃんの言葉に、孔子ちゃんのお父さんは大きな溜め息をついて黙って家の中に入っていった。口では勝てないと諦めたのだろう。少し同情してしまう。弘美さんも、僕に会釈をして丘さんの後を追う。
「さて、吾も戻る。父のあの態度、すまなかった」
僕に軽く頭を下げて、孔子ちゃんも家に入っていった。




