第0話~プロローグ~
その日、空は割れた。
──いや、正確には“割れたように見えた”だけだったのかもしれない。
富士山の山頂に、最初の異変が起きたのは午前9時17分。
地鳴りでも、警報でもなかった。
もっと静かで、もっと不気味な“沈黙”が先に来た。
次の瞬間、山は息を吐いた。
白い煙でも、火でもない。
視界を奪うほど濃い、灰色の“霧”だった。
それは噴火という言葉では足りない現象だった。
まるで、地球そのものが“吐き出した”ような。
「……は?」
朝雛凪は、富士山から少し離れた避難路の途中で足を止めた。
遠くの山肌が、見えない。
いや、見えないのではない。飲み込まれている。
霧が、生きているみたいに広がっていた。
「火山灰じゃねぇだろ、これ……」
誰かの声が背後で震えていた。
その通りだ、と凪は思う。
火山の噴火で説明できる範囲を、とうに超えている。
霧は山を覆い尽くすだけでは終わらなかった。
“降りてきている”。
ゆっくりと、確実に、麓へ。
そのときだった。
霧の中で“何か”が動いた。
最初は木が倒れたのかと思った。
だが違う。
それは、木よりもずっと“重い音”だった。
ズゥン、と地面が鳴る。
霧の向こうに、人影のようなものが浮かぶ。
いや、人ではない。
大きい。
あまりにも大きい。
2メートルどころではない。
霧の中で、それは“立っている”だけで空気を歪ませていた。
「……なんだよ、あれ」
誰かが言った瞬間、霧が割れた。
そこにいたのは“人型”だった。
だが人ではない。
肌は暗く、光を吸うような質感。
目は存在するのかすら分からない。
ただ一つ確かなのは、それがこちらを“見ている”ということだけだった。
そして、その存在はゆっくりと一歩踏み出した。
その瞬間、叫び声が上がった。
逃げろ、と誰かが叫んだ。
だがもう遅い。
霧はすでに、道路も、避難路も、空気さえも飲み込んでいた。
視界が白と灰の境界に溶ける。
凪は反射的に息を止めた。
──吸うな。
本能がそう警告している。
けれど、遅かった。
ほんの一瞬。
ほんのわずかに吸い込んだだけだった。
「……っ」
肺の奥に、冷たい何かが落ちる。
熱でもない。痛みでもない。
ただ、“違うもの”が身体の中に入ってくる感覚。
視界の端が揺れた。
世界が一瞬だけ、ノイズのように歪む。
霧の音が、遠くなる。
そして──
凪の中で、何かが“目を覚まし始めた”。
遠くで、再びあの音がした。
ズゥン。
一体ではない。
二体目、三体目。
霧の中から、何かが次々と現れ始めていた。
それはもう“災害”ではなかった。
意思を持った何かが、地上へ上がってきている。
凪は小さく息を吐いた。
「……最悪だな」
誰に向けたでもないその言葉は、霧に吸われて消えた。
そして、世界は静かに“終わりの形”を変え始めていた。




