第十話 今日も、海を読む
海事院の気象分析部門が正式に発足したのは、公聴会から二ヶ月後のことだった。
場所はレイヴンの気象台を改築した建物だ。オットーが引退し、その後任として新しい気象士が二名加わった。セイラは部門長という肩書きをもらったが、やることは変わらない。毎朝気圧を読み、データを記録し、嵐を予測する。
ただ、一人ではなくなった。
発令式は王都で行われた。
セイラが壇上に立つと、会場の貴族たちがざわめいた。魔力のない令嬢が、王室の機関の部門長に就任するのは前例がない。
ラースヴが壇上の隣に立ち、静かに会場を見渡した。それだけで、ざわめきが止んだ。
「気象分析部門の任務は、データに基づいた正確な予測を行い、王国の海上安全に貢献することだ」とラースヴは言った。「魔力の有無は関係ない。実績を基準とする」
セイラは正面を向いたまま、一度だけ深く息を吸った。
魔力がないから役に立たない、と言われ続けてきた。婚約を解消されたのも、最終的にはそのためだった。
でも数字は魔力で変わらない。
事実は、変わらない。
式の後、ヴィンダール子爵の件の最終的な判決が出たとラースヴから聞いた。
海運免許の永久剥奪、財産の一部没収、三年前の事故の被害者家族への補償金支払い。
グスタフはどうなるかと、少しだけ気になった。でも調べようとは思わなかった。関係のないことだ。
「元婚約者のことを考えているか」とラースヴが聞いた。
「少しだけ」とセイラは正直に答えた。「でも関係ないので」
「そうだな」
「ラースヴは、父親の件でグスタフを気の毒だと思いますか」
「思わない」とラースヴは即答した。「あなたを笑った人間だ」
セイラは少し驚いて、それから笑った。
「それが理由ですか」
「十分な理由だ」
ラースヴは真剣な顔だった。セイラはまた笑った。
レイヴンに戻ったのは夕方だった。
港に着くと、ヘルガが岸壁に立っていた。
「おかえり」とヘルガは言った。
「ただいま帰りました」
「新聞に載っていたよ。気象分析部門、おめでとう」
「ありがとうございます」
「あの提督殿も一緒かい」
「少し遅れて来ます」
「そうかい」ヘルガは少し笑った。「あの人、あんたがいない間、毎日ここに来ていたよ」
「……え?」
「港を見る振りして、あんたの気象台の方ばかり見ていた」ヘルガは肩をすくめた。「気づいていなかったのかい」
セイラは港の方を見た。夕日が海を染めている。
数字では読めないことがある、と思った。
気象台に戻ると、新しい気象士の二人が待っていた。
二十代の若い男女で、二人とも魔力による気象予測の訓練を受けていた。最初はセイラを見て少し戸惑った顔をしたが、セイラが三ヶ月分の記録を広げて説明し始めると、真剣な目になった。
「これだけのデータを個人で集めたんですか」と一人が言った。
「ここに来てから三ヶ月と、前の借り人が残していった日誌八年分と、オットーさんの記録を合わせると」
「魔力なしで、ここまで」
「データがあれば魔力は要りません」
二人は互いに顔を見合わせ、それからノートに記録を写し始めた。
セイラは今日の気圧を計った。少し下がっている。明後日から雨になりそうだ。
ノートに書き込む。気温、気圧、風向き、雲の形。
変わらない日課だ。
夜になり、気象士の二人が帰った後、ラースヴが来た。
港に戻ってきたばかりらしく、軍服のままだった。
「記録の引継ぎはうまくいったか」と言った。
「順調です。二人ともよく理解してくれて」
「そうか」
ラースヴは気象台の窓から港を見た。灯台が光っている。正しく、規則正しく。
「一つ、聞いてもいいですか」とセイラは言った。
「何だ」
「私がいない間、毎日港に来ていたそうですね」
ラースヴは少し間を置いた。
「ヘルガか」
「はい」
「……港の確認は提督の仕事だ」
「毎日来る必要は?」
「……ある」
セイラは少し笑った。
「ラースヴ」
「何だ」
「私もここが好きです。ここの海が、ここの空が、ここの数字が」とセイラは言った。「それから」
少し間を置いた。
「毎日同じ時間にここに来る人のことも」
ラースヴはセイラを見た。表情は相変わらず静かだが、目が少し違う。
「……それは、私のことか」
「他に毎日来る人はいません」
ラースヴはしばらく黙っていた。それからゆっくりと言った。
「私もここが好きだ。この港が、この空が、このデータが」
「それから?」
「毎日同じ時間に記録をつける人のことも」
波の音がした。
灯台が光っている。正しく、規則正しく。
セイラはノートを開いた。今日の最後の記録をつける。
気温、気圧、風向き、灯台の点滅間隔。
そして今日から、一行増やすことにした。
「今日も、海は正直だった」
ラースヴが隣に立ち、同じ窓から港を見ていた。
明日も嵐の予測をする。データを読む。記録をつける。
魔力がなくても、数字は読める。
海は、正直だ。
そしてセイラは今日も、この場所にいる。




