第2話 酒場女の苦悩ですのよ
竜鱗の裔の街区は、人間には住みづらい。
迷宮都市ラビリントゥムには様々な種族が集まっているが、珈琲にミルクを溶かしたように均一なわけではない。むしろ生クリームを浮かべたように、くっきりと層が分かれている。
それは種族間の対立感情が原因のこともあれば、シンプルに利便性から来るものもある。たとえば緑肌矮人と食人巨鬼では身長が3倍以上違う。これでは一緒に暮らす方が難しい。
竜鱗の裔の場合は前者の理由だ。対立感情というか、選民意識と言った方がより正確である。千年前の大崩壊時、世界が混沌に墜ちるのを防いだ飛天鱗甲の眷属の血を継いだ末裔であるという意識がそうさせる。
正直、「遠い親戚に偉い人がいる」といったレベルの迂遠さである気もするが、他の種族も多かれ少なかれ同じような意識を持っていることも否めない。粘体生物はご先祖様が混沌を消化したと云うし、奈落鍛冶なら大帝国時代の秘宝が火を吹いたのだと云う。まあ、民族意識とはそういうものだろう。
とはいえ、他種族ならば表向きには御伽噺として秘めた誇りとしているものを、竜鱗の裔があからさまに誇るのには歴とした理由がある。
それは、種族的に強靭であることだ。
その鱗は小口径の銃弾ならば弾き返すし、その身にこもった魔素はちょっとした魔術や呪詛なら寄せ付けない。魔術の行使こそ苦手だが、膂力に優れ、炎や氷や酸の吐息は闘争の用に十分な威力を持つ。そして、何より翼だ。主要種族の中で唯一、魔術や道具の力を借りずに空を飛べるという特長は、何よりも彼らの自信を裏打ちしていた。
そういう傲慢な性質を持つ竜鱗の裔の街区の外れ。
巡察官の監視が及ばぬスラムに踏み入るぎりぎり手前。
飛竜の巣穴亭と云う、一軒の酒場があった。
(はあ、やっぱりこんなところで店をやるんじゃなかったかな……)
人間の女だった。店の女主人であり、名をラスティと云う。
竜鱗の裔の酔いどれどもが、ガラガラと喉を鳴らして浮かれ騒ぐ店内を、食べ散らかしを踏み、吐瀉物に足を取られながら、忙しく駆け回っていた。
「おい、鱗なし! 酒が遅えぞ!」
「す、すみません! ただいま!」
「おい、鱗なし! 俺のはネギ抜きだっつったろ!」
「すみません! 取り替えます!」
「おい、鱗なし!」「鱗なし!」「鱗なし!」「鱗なし!」「鱗なし!」
てんてこ舞いである。
ただでさえ忙しいと云うのに、従業員が皆辞めてしまったのが痛い。
どうして辞めてしまったのかと言えば――
「きゃあっ!?」
背中に衝撃。頭から冷たい液体を被った。
襟から入ったそれは瞬く間に下着まで濡らす。
「バカ野郎! 俺の酒がこぼれちまったじゃねえか!」
「翼もねえのにふらふらしてんじゃねえよ!」
「翼がねえからふらふらしてんじゃねえのか?」
「そりゃそうかもなあ」
ガラガラガラガラ。
竜鱗の裔特有の、痰が絡んだような濁った笑いがどっと湧く。
「おい、鱗なし。俺の服が濡れちまったぞ。こいつぁ高かったんだがなあ」
「も、申し訳ございません……」
「謝って済んだら巡察は要らねえんだよ!」
「申し訳ございません……。あ、あの、洗濯はさせていただきますので……」
「ハア? 汚え鱗なしに俺の服を洗濯なんてさせるわけがねえだろうが。弁償は今日の勘定で許してやるよ」
これである。
この場所に店を構えて5年、楽だったとは言わないが、経営は軌道に乗っていたのだ。
人間の店ということで当初は白い目で見られたが、貴族屋敷のメイド時代に身につけた料理の腕が評判となり、徐々に客足が増えた。従業員も雇い、蓄えも少しずつ増えて、そろそろ店の改装でもしようかなどと考えていたところで――
急激に客層が悪くなった。
常連は去り、従業員も次々に辞めた。
何がきっかけだったかは知らない。人間風情が竜鱗街で店をやっているのが、いまさら気に入らなくなったのかもしれない。近隣の店が繁盛を妬んだのかもしれない。先日の地震で地崩れした丘から新たな古代遺跡が見つかって、新参の遺跡荒らしが各地から集まっているせいかもしれないし、赤鱗党とかいう盗賊団の親玉が帰ってきたという噂があり、その影響で治安が悪くなったのかもしれないし、あるいはこれらすべての推測は的外れで、ただの偶然なのかもしれない。
(地上げ目的……ってことだけはなさそうだけど)
スラムにほど近く、面した路地は湿気でじめじめしていて、風向きの悪い日には嫌な臭いが流れてくる。飲食店の立地としては最悪で、だからこそ格安で営業権付きの物件を買えたのだ。実際、ラスティが買うまでは何年も空き家だったそうで、廃屋にしか見えない荒れ具合だったのだ。
可能であれば、他の場所でやり直したい。
しかし、そんな金などどこにもない。
独り者の男が多いラビリントゥムで飲食店は手堅い商売で、よほどの例外でもなければ物件が安くなることなどないのだ。なお仲介屋の話によると、この店は本来飲食店の営業許可が下りるような場所ではなく、行政のミスで認可され、そのまま取り消されずに放置されていたことも安さの理由のひとつだと云う。その話を聞いたときには、生まれて初めて役人の仕事の遅さと無責任さに感謝した。……もっとも、今やそれは後悔の暗い色に彩られた思い出だが。
「おい、鱗なし! ぐずぐずしてんじゃねえぞ!」
ほんの束の間、あらぬ思いに囚われていた心が現実に引き戻される。
慌てて駆けようとした足元に、何かが絡む。
派手に転倒し、片付けようと手にしていた食器が宙を舞って、食べ残しを頭からかぶってしまう。
「クソ鱗なしが! 俺の尻尾を踏んでんじゃねえ!」
「……す、すみません」
踏んだのではない。引っ掛けられたのだ。
しかし、反論すればより嫌がらせがひどくなるのは目に見えている。
唇を噛み、俯いて耐える。
そのときだった――
「おーほっほっほっほっ! おーほっほっほっほっ! ……けほっけほっ」
「お嬢様、大丈夫ですか? 下賤な酒場の空気に肺をやられてはおられませんか?」
不自然な高笑いとともに、スイングドアが開いた。
入ってきたのは二人連れ。
ひとりは金髪をドリルじみた巻き髪に仕立て、やたらひらひらとしたドレスをまとった少女。年は十代前半くらいか。
もうひとりは黒い執事服の青年。
少女よりはいくらか年嵩に見える青年は、白手袋をはめた手でドアを押さえ、恭しい態度で少女をエスコートしている。
「さあお嬢様、こちらの席に」
「あらセバス、お店の方の案内を待たなくてよいのかしら?」
「こうした下賤の店では、空いた席を勝手に選ぶのです。アーカイブを参照したところ、この店は20世紀後半の西部劇に登場するサルーンに近似のスタイル。マナーはこれで間違いございません」
「さすがはセバス、庶民向けのお店にも詳しいのね。なんでも知っていてすごいわ」
「過分なお言葉、身に余る光栄。しかし、なんでも知っているわけではございません。お嬢様のご期待に答えられるよう、お望みに沿って学んでいるのみでございます」
「うふふ、わたくしはよい従者に恵まれたのね」
セバスと呼ばれた青年は、空いたテーブルの椅子を引くと、座面にハンカチを広げた。
そして巻き髪の少女はたおやかな所作で小さなお尻を椅子に乗せる。
まるで社交ダンスの一幕を切り取ったような光景に、ラスティはそれをぽかんと見つめることしかできなかった。




