99.僕の腕の中にいる人は2
――お帰り、レオ。
愛しい人の口づけを受け、胸と額に温かな炎が灯った。
レオはふっと目を細め、幸せそうにジェルソミーナを見上げた。
「ねえ、ジェルソミーナ。あなたは僕のこと好き……?」
少し踏み込んだ、けれど形式的な問いだった。ジェルソミーナ、別名カルミネは、おいそれと男にこんな距離を許す人ではない。レオだって、自身の領域の最奥まで入れたい人は彼女だけだが。
このまま唇も貰おうか、なんて思いながら答えを待っていると、ジェルソミーナは悲しげに顔を曇らせた。
えっ、なんでそんな顔……。
「レオ、もし……もしもよ」
ああ、ジェルソミーナ、僕に何を言うつもり――?
あなたはたった一言で、僕を奈落の底に突き落としてしまえるのに。
ジェルソミーナは強張った顔で「過去のことはもう聞かないわ」と前置きし、
「でも、これからは……」
と、まるで不実な男を愛してしまった、哀れな娘のように唇を震わせた。
「私だけを見て、と言ったら……あなたは私から離れてしまう……?」
「いいえ? そんな訳ありませんが?」
驚きのあまり敬語になった。わざわざ頼まれずとも、レオはジェルソミーナしか見ていない。
「ずっと言ってる。僕にはジェルソミーナだけだ」
「……」
この目。
疑っている。ものすごく疑っている。
そういえばカルミネも、レオのことを花から花へと飛び移る不埒者だと言っていた。
カルミネ、ひいてはジェルソミーナが何故そんな誤解をしているのか知らないが、ここははっきり正しておくべきところだった。不実な男と思われたままでは、彼女に選んでもらえない。
「ジェルソミーナ、何か誤解してる。僕は……」
「何よ。カルミネに散々甘い言葉を囁いたくせに」
「あ、ええと……ええと」
誤解を解くどころか、初っ端からしどろもどろになった。
可愛い女の子を見かけた軟派男のように、カルミネにちょっかいを掛けていた自覚はある。なんであんなことしたかなぁ……。
ジェルソミーナの目が冷たくなっていく。
レオは顔を赤くして、ぼそぼそと告白した。
「多分だけど、本能であなただって知ってたんだよ……。他の誰かにあんなこと、しない」
あなただからだ、ジェルソミーナ。
ああ、最初からちゃんと知っていれば、変な葛藤もなく今頃もっとその先に……。
「そうかしら。ディーエスィーレ宮の夜会では、たくさんのご令嬢を侍らせて……」
「ちゃんと正確に思い出してよ! ホールであなたと会った時、僕は気配を消して逃げてるところだったでしょ」
「パリでは随分浮名を流したのですって?」
「何それ。本当に知らない。僕じゃない誰かの話だよ。僕はパリにいる間もずっと、あなたのことだけを想っていた」
レオは膝の上に乗せているジェルソミーナに縋りついた。
「ねえ、そんなものに惑わされないで。僕を見てよ、ジェルソミーナ」
そうすればきっと分かるはず。レオにとってはジェルソミーナがただ一人の女性だと。
そうなのだ。カルミネに惹かれていたのは――。
「あなたがどんな恰好をしていても、僕はあなたに惹かれてしまう」
レオは子供のように口を尖らせた。
「ヴィターレなんかによろめいたあなたと違って、僕はずっとあなたひとすじだ」
「よろめいてなんか。私だって、ずっとあなたが」
「――ずっと僕が何?」
「ず、ずっと、あなたが……」
ジェルソミーナの腰を抱くレオの腕に力がこもった。
ジェルソミーナ、その先は分かってるけど言わせたい――。
じっと我慢して待っていると、ジェルソミーナは遂にくれた。
「ずっと、あなたが好きだったわ」
ああ――。
膝の上に跨らせたジェルソミーナに抱きついて、レオは彼女の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。ジェルソミーナは諦めたのか、もはや振りほどこうとも降りようともしない。
ジェルソミーナは少し迷ってから手を伸ばし、レオの髪を撫でてくれた。
「ねえ、ジェルソミーナ。信じてくれる……? 僕が誠実な男だと」
レオがうっとりと撫でられながら訊ねる。
ジェルソミーナは小さなため息を吐いて「ええ」と答えた。
「あの、レオ、信じるから……そろそろ放し……」
嫌だ。放すものか。
「――僕の可愛い尼僧様。この哀れな唇は未だ、女の子の唇の柔らかさを知りません。尼僧様が教えてくださいませんか」
ひどく真面目な調子で懇願すると、ジェルソミーナは呆れたような表情になった。
駄目もとで言ってみたが、やっぱり駄目か――。
と諦めかけたところでジェルソミーナの顔が近づいてきて、レオはそっと目を閉じた。
それは運河の上に落ち、瞬く間に溶ける雪のような、一瞬の。
「夢のようだ、ジェルソミーナ……」
唇が離れた後も、レオは余韻を味わうように、腕の中の恋人を離さなかった。
「ミーナ、大好き。愛してる」
もし画家がこの場に居合わせていれば、一幅の絵が描けただろう。聖ジェルソミーナの祝福を受け、愛を知る悪魔。ティントレットなら隊列を組んだ天使たちが二人を囲む、楽しくも劇的な空間に、ティエポロならいかにもヴェネツィアらしく、大らかな聖と俗の戯れを享楽的に。
「ミーナ、ミーナ」
五年振りに再会を果たした愛しい人の名を呼んで、レオは夢見心地だった。ジェルソミーナの方は限界を迎えたようで、レオの首筋に触れている耳が驚くほど熱い。
可愛いな、年上だけど。
「ミーナ、もう少しだけ……」
思う存分甘えた後は、ああ、安心してほしい。今日のところは何もしないで聖域に帰してあげるから。
だって、僕らは何も焦ることはないだろう?
――僕のすべてはあなたのものです。
忘れたとは言わせない。
あなたはそう言ってくれたのだから。
(完)




