08.バビロンの軛2
「その場にいたのは、ヴェネツィアに移り住んだ者のうち、指導的な役割を果たしていた十三の家の者たちでした」
うち一人が声を振り絞って尋ねた。
――どうにか……今回限りのことにはならぬのか。
水鳥は人間のような仕草で首を横に振った。
――無力なヴェネツィアよ。麝香のようにかぐわしいお前は、とかく魔を引き寄せる。残念だが、今回限りのことにはならぬだろう。
その時、人間たちの顔に浮かんだ絶望が、どれほど水鳥を愉しませたか!
乱れ騒めく人の心を借り物の喉で味わいながら、水鳥は己のちょっとした戯れに、永遠に囚われる贄が差し出されるのを今か今かと待っていた。
拒めるはずがない。だって、お前たちはとても困っているのだから。
現に、一人の者の心が固まったようだ……。
水鳥は優しく促した。
――受け取るのは誰だね?
――私が。
闇に浮かぶ鬱然とした十三の顔が、一斉に後ろを振り返った。
輪の外から進み出てきたのは、十三家の中心的存在であるヤコポ・クッキアイオの息子、オルソ・クッキアイオだった。
「最も力のある者が、最も重い責務を負う。ヴェネツィアでは当然のことでした」
葦の陰でオルソはすべてを聞いていた。
――今更手ぶらで追い返すこともできぬでしょう。ならば、その呪いは私に。
子や孫を思い、進み出るのを躊躇した父をオルソは抱きしめて許す。
水鳥に近づくオルソの背に、十二の家の者たちは深く首を垂れた。
立ち止まったオルソの目の前で、まるで小さな月のように、緩く開いた嘴の中がほの白く丸く輝く。
それは光の筋となってオルソの胸に沈み込み、水鳥とヴェネツィアの契約は成った。
「……ヴェネツィアは、蛮族を撃退することに成功しました」
オルソが受けた永遠の軛と引き換えに。
だが、それは束の間の安寧に過ぎなかった。
――麝香のようにかぐわしいお前は、とかく魔を引き寄せる。
水鳥の不吉な予言通り、葦の中の小さな国は、その後も魔の侵攻に悩まされ続けた。
「ですが、何と言っても、クッキアイオ家の歴代ご当主様方のうち、最も忙しかったのは、ヴェネツィアが香辛料貿易で栄えた時代の方々でございましょう……」
別の土地にいた精霊や魔人が、帆柱にもたれ、香辛料の袋に紛れ、遥かな海路の果ての国、ヴェネツィアへ次々とやってきた。
彼らは変幻自在に姿を変え、悪さを繰り返した。
「彼らにとってはお遊びでも、ヴェネツィア市民にとっては死活問題でございました。狭く密集したこの街で、面白半分に火などを起こされては堪ったものではありません。この当時、精霊とご当主様の追いかけっこが見られぬ日はなかったとか」
弱り果てたようなシルヴィオの口調に、レオが口元を綻ばせる。
実際には、異国趣味のアーチが連なる運河沿いの柱廊や、服装も人種も違う人々が行き交う賑やかな市場を、すり抜けるように走っているところを目撃されたのは、クッキアイオ家のご当主様だけだっただろう。
「いえいえ、そういう感覚の敏い者には、精霊もちゃんと見えていたのですよ……」
シルヴィオが語る当主と魔物の攻防は、絢爛豪華な絵物語のようだった。
「目が回るほどの忙しさだったかと……。対処されていたのは常にご当主様お一人でしたから」
クッキアイオ家にはオルソ以降、代々男子一人しか生まれなくなっていた。
「水鳥めの呪いは徹底しておりました」
シルヴィオは苦々しげにそう言って、悲しげな目をレオに向けた。
「これがどういうことか、お分かりになりますか」
訊ねるというより、確認するような口調だった。
「クッキアイオの名と責務を継ぐのは、あなた様お一人しかおらぬということです――あなた様の母親が何者であろうと」
シルヴィオはレオの手を取り、恭しく甲に口づけた。
「事情を知る者からは尽きせぬ敬意を、事情を知らぬ大多数の者からは朧げな畏怖を受けながら、クッキアイオ家はヴェネツィアに寄り添い守る影であり続けました」
その身の内に呪いを宿し、人でありながら人と同じには生きられぬ一族。
表舞台に立つことは二度となかった。
十三家の筆頭、偉大なる十三という呼び名はいつしか不吉な噂と相まって、十三番目となっていた。
「今のヴェネツィアを守っているのは、アルジェント・クッキアイオ、あなた様のおじい様でございます」
僕の、おじいさん……。
昔語りは現在とつながった。
シルヴィオの声が再び歌うような響きを帯びた。
「時代は移り変われども、変わらぬものもございます。ヴェネツィアがクッキアイオ家の力を必要とする時は、正装した総督の使者がクッキアイオ家の広間に跪き、総督の依頼を伝えるのです」
首を垂れる使者の曰く。
――いと誉れ高き古い名を持つ御方、ヴェネツィアの憂いをお取り除きください。
「クッキアイオ家の返答はただ一つ」
――承知した。
「そうやって、クッキアイオ家はヴェネツィアを守ってきたのです」
語り終えたシルヴィオは、まだ子供の丸みを残す頬を一瞥し、ぽつりと言った。
「レオナルド様には、過酷な定めを背負って頂くことになりますな……」
別にいい。
レオは物憂く首を振った。
――レオ、止せ。
記憶にある限り、父の前では力を使ったことはない。
シルヴィオが来るまで、そんなことをする必要もなかった。
まったく……。
知っていて育ててくれたのだ。実の子でもない、いわくつきの子供を。
呪われた子供を。
その父が住む街を、この手で守れるのなら悪くない――。




