02.恋煩い
世界はこの街を讃えてやまなかった。
海に立ち上る壮麗な館を。壁という壁を埋め尽くす絵画を。比類なき富を。ヴェネツィアを。
晴朗この上なき共和国。
今となっては、身に余る呼び名。
かつての栄華は夢と消え、今のヴェネツィアは泥と葦の潟にうずくまる、厚化粧の老婆に過ぎない。
世界はこの街を好きな名で呼んだ。
悪徳の都。
アドリア海の淫売。
海のバビロン、と――。
§
日毎夜毎、ヨーロッパ一の賭博場へ吸い込まれてゆく影絵のような人の群れ。
天使のような高級娼婦。
娼婦のような修道女。
およそ人の欲望でヴェネツィアが満たせぬものはない。
ちょっとした娯楽も、身の破滅を呼ぶ甘い刺激も、男同士の禁忌の愛さえ、この街では容易く手に入った。
「おっ。レオ、お帰り~」
レオが家に入るや否や、黒い長衣の紳士が愛想のよい顔を振り向けた。
「マリーノ。また来てたの」
「またとは何だ。ご挨拶だな」
「貴族って暇なんだね?」
「そう見えるよう努力はしているよ」
いとも優雅に扇を口元に当てながら、マリーノ・フェリエラはふふんと目を細める。
燃えるような赤毛に映える、黄金を帯びた翠玉の瞳。なまめかしい白磁の肌。
そういう仕草が嫌になるほど様になる男だった。
こう見えて、ヴェネツィア黎明期にさかのぼる十二の家柄のひとつ、フェリエラ家の御令息である。
狭い土地に人がひしめき合って暮らしているせいか、ヴェネツィアでは庶民と貴族の距離が近い。名家中の名家の男子と、下町の三文画家が気の合う友人同士というのも、ここでは珍しくもないことだった。
二人はいつものようにカード遊びに興じながら、馬鹿話に耽っていたらしい。
レオの父ジャコモとお気楽なマリーノは、友人というより悪友だった。
つい先日も、「ものすごいお宝を見つけた」などと言いながら、画家の狭い家に息せき切って駆け込んできたマリーノが手にしていたのは、交易の時代に生きたご先祖が遥かインドから持ち帰ったという、細密画の春画であった。
「これってさ、見ながら描いたのかな……」「そりゃそうだろ」と、こそこそ言い合う二人のそばをレオが通ると、二人はびくりと肩を揺らした。
いい大人が一体何をやっているんだか。
マリーノはマルコより十歳近く年上らしいが、レオにはマルコの方が断然大人に見えた。レオに娘はいないが、もしいたら嫁がせたいのは絶対にマリーノではなくマルコである。
レオはただいまと言うように父の背中に抱きついた。
「お帰り」
ジャコモはカード遊びの傍ら、小さなカンバスに絵を描いている。仕事中なのだった。
「またコロッセオ?」
「人気だからな」
ヴェネツィアは英国貴族の子弟たちが、学業の集大成として行う欧州大陸周遊・イタリア編で大抵最後に訪れる場所だった。イタリアの名所旧跡を描いた手頃な大きさの絵はお土産に最適で、一番人気は今も昔もローマ。コロッセオ。
海から見たヴェネツィアの総督宮殿の売り上げも悪くなかったが、ローマには一歩及ばなかった。
「ローマかぁ。俺も行ってみたいな……」
ジャコモが絵筆を動かしつつ、ぽつりと漏らす。
――父さん、行ったことなのに描いてるんだ……?
父のジャコモは息子の贔屓目を抜きにしても、ヴェネツィア一の伊達男だった。
すらりとした長身に浅黒い肌。艶やかにうねる黒髪。観光客向けのそれっぽい絵しか描かないくせに、芸術家らしい雰囲気をまとったずるい男。美貌で鳴らすマリーノも父の前では霞んで見えた。
ジャコモはレオの本当の父ではなかった。
聞いた話ではジャコモは昔、どこからか連れてきた赤ん坊を、覚束ない手つきで突然世話し始めたという。「俺の子だ」と言い張るのを周囲は誰も信じなかった。ジャコモがそんな下手を打つはずがないと。
その赤ん坊がレオである。
周りがそんな風だったから、レオも物心つく頃にはそのことを自然に知っていた。
「マルコさんにジェラートをご馳走になったって?」
「……」
マリーノも知っていたようで、にやにやしている。この界隈の誰かに見られていたに違いない。狭いヴェネツィアではいつものことだ。勿論、さっきの奢ってもらおう云々はただの軽口で、マルコ・パツィエンツァが庶民にたかることなどあり得ない。
マリーノが何とも微妙な表情になった。
「お前は相変わらずアンニュイだな……それジェラート食べてきた子の顔じゃないぞ」
「いいでしょ別に……。それよりマリーノはジェルソミーナを知ってる?」
貴族は貴族同士、少なくともレオよりは彼女のことを知っていそうだった。
「どのジェルソミーナ?」
この女たらし。
「ジェルソミーナはジェルソミーナだよ。マルコの妹の」
「ああ、ジェルソミーナ・パツィエンツァか!」
マリーノの唇がクッと楽しげな弧を描く。
「どうした。気安く声でもかけて、ぴしゃりとやられたか?」
「え……?」
マリーノは何を言っているんだか……。
彼女は別に気位が高い感じはしなかった。貴族の姫君としては少し、いやかなり型破りだとは思ったが。
レオの内心の訝りも知らず、マリーノが続けた。
「花なら咲き初めの年頃ながら、男ににこりとも笑ってやらぬ、つれない才女さ」
「そうなの?」
どちらかというと、お転婆とか、悪戯っ子という印象だったが……?
マリーノの口から出てきたジェルソミーナは、レオが出会ったジェルソミーナとはまるで別人のようだった。
「しかも、剣の腕も立つ」
「剣? なんでまた……」
「マルコが稽古をつけてるからなぁ……」
「マルコは妹さんをどうするつもりなの?」
「いや、マルコが強いてというより、ねだられてやむなくというところだろう。あいつは妹に甘いから」
「そうなんだ……」
剣の腕を磨くのは、男装して一人でうろうろする時の護身用だろうか。
「ま、マルコにとっては可愛い妹でも、ジェルソミーナは孤高の花さ。マルコによく似た優しい美貌の娘だけど、冷たくて人を寄せ付けない。――いいから、そろそろ何があったか聞かせろよ」
「……」
笑わぬ才女。孤高の花。知れば知るほど彼女の姿はこの手をすり抜け、霧の向こうに霞んでゆく。レオが出会ったジェルソミーナは朗らかで、岸壁を洗う波のように楽しげで。
「レオ?」
「別に……」
レオは二間しかない家の奥に向かいながら、ぽつりと呟いた。
「『またね、レオ』って言ってくれたんだ……」
「……」
ジャコモが絵筆を、マリーノが扇をぽろりと取り落とす。
悩ましげなため息を吐いて、レオが扉の向こうに消えると、大人二人は絶句したまま、しばし扉の表面を穴が開くほど見つめていた。




