01.光あふれる海へ
レオは世馴れた顔で仮面の令嬢に頷き、手を取って走り出した。
まだ誰も気づかない。
でも油断は禁物。
レオは素早く周囲に視線を走らせ、人一人通るのがやっとの細い路地裏に令嬢を連れて飛び込んだ。
迷路のようなヴェネツィアの小道を右へ、左へ、左へ右へ。
瞬く間に方向感覚を失った令嬢の手が震えている。怖いのだろう。だが彼女は足を止めようとしない。レオに連れられるまま小運河へ抜け、彼女の寝台よりも小さな橋を伝って対岸へ飛び移る。
令嬢の絹のマントが風に翻る。
――海へ。連れていって、あのひとの許へ。
それが彼女の望みだった。
「うっ……」
狭い運河に堆積するあれこれの、ねばついた異臭が令嬢の鼻を衝く。本来ならば生涯嗅ぐこともなかったはずの凄惨な臭いに、令嬢が卒倒しそうになる。先を行くレオが振り返る。令嬢は気丈にも持ちこたえる。
どうして。いつかは醒める夢だろうに。
「やあ、レオ」
飛び込んだ先の薄暗い路地で、立ち話をしていた少年たちが二人に気づいて声をかける。おや、とレオは一瞬、眉を上げる。当てが外れた。誰もいないと思ったのに。
彼らの脇をすり抜けながら、レオは「黙ってて」と合図する。レオが手を引く令嬢は旅装である。彼らは訳知り顔に頷き合う。
令嬢の息が上がる。レオは目顔でもうすぐだと告げる。
レオのまどろむような灰色の瞳が、包み込むように令嬢を見やった。
庶民の子に手を許し、綺麗なフレンチヒールをぐちゃぐちゃに汚して、それでも彼女は走るのを止めない。
令嬢の目元を覆う黒絹の仮面は涙を吸って濡れていた。
レオは彼女の体から肉の重さを少しだけ引き取ってやった。
「あっ」
途端に軽くなった足元に、令嬢は思わず声を上げる。
――どうしたのだろう。体が急に軽くなったような気がする。ああそうか。きっと高揚しているのだ。この先の海であのひとが待っている。
ひんやりとした半円形のトンネルを抜けると光差す海だった。
漁船を模した怪しげな船が一艘、岸壁に横付けされている。じりじりと石を蹴りながら待っていた恋人が胸に飛び込む彼女を抱き止め、レオに金貨を投げる。
怪しい漁船は瞬く間に岸を離れていった。
「ふん……」
金貨など欲しくもなかったが、契約は契約だった。
――帰ろ。
あまり日の光の下に長くいると、調子が悪くなる。
「今の、キャピュレット家のお嬢さん?」
突然声をかけられ、レオがぴくりと振り返った。
いつからそこにいたのか、レオとよく似た恰好の少年がすぐそばの柱にもたれている。
まっすぐにレオを見つめる、海を宿した濃緑の瞳。
優美な立ち姿が、感情の読めない微笑が、その少年の出自を十分物語っていた。身なりはレオと同じにしていても、一目で分かる。貴族の子だ。
「……そうだよ。駆け落ちだ」
レオは魅入られたようにそう答えていた。こんなに綺麗な子、見たことがない。
「ひとつ前の通りで君たちを見かけた。慌ただしく、謎めいていて、ちぐはぐな二人。面白そうだと思ってね」
彼は独り、くっくっと笑う。
「キャピュレットの奥様、今頃……」
その時、鋭い声が飛んだ。
「ジェルソミーナ!」
「あら……」
別の筋から飛び出してきた青年貴族が顔を真っ赤にしながら駆け寄ってくる。
「何て恰好だ!」
「マルコ」
レオは驚いたように青年貴族に呼びかけた。
「レオじゃないか」
青年貴族の方も驚いている。
「こんなところで何を……あ!」
青年貴族はレオの肩をつかんだ。
「レオ、ここに仮面を被った二人連れが逃げてこなかったかい? 一人はヴェローナ貴族、もう一人は先程誘拐されたヴェネツィア令嬢の可能性があるんだ」
「見かけなかったけど……」
レオは金貨をそっとポケットに仕舞う。
その隙にジェルソミーナは身を翻した。
「――またね、レオ」
「あ、こら待て!」
マルコがそう言うより早く、ジェルソミーナは路地の向こうに消えていた。
「まったく……」
「マルコ、今の子は」
レオが急くように訊ねる。レオの冷たい心臓がどくんどくんと湧き立つように鳴っている。
マルコは苦々しげに呟いた。
「……妹だ。少々、お転婆でね」
妹?
目を見開くレオの横で、マルコが眉間に皺を寄せたまま振り返った。
「遅いぞ、君たち」
マルコと行動を共にしている、同じく良家の子息たちが、肩で息をしながらようやく追いついてきていた。
「駄目だ。まんまと逃げられてしまったね」
「完全に裏をかかれた。二人はもう海の彼方さ」
彼らは喘ぎ喘ぎ、口々に言う。
「我々もカフェで一休みしよう」
マルコは信じられないと言うように一同に非難の目を向けた。
「誘拐者を野放しにすると言うのか」
言われた方も黙ってはいない。
「だって、どうせ誘拐じゃないじゃないか」
「騒いでいるのはキャピュレットの奥様一人」
「マルコだって知っているんだろう」
「それは……」
マルコがぐっと言葉に詰まる。
ねえ? と言い合う彼らの足は既にカフェに向かっている。レオは照りつける日差しの下で、暢気な貴族たちのやり取りをぼんやりと聞き流していた。さっきまでジェルソミーナがもたれていた柱に、その鮮やかな姿が焼きついている。
濃緑の海に光があふれ、辺り一面眩しかった。
「レオ?」
「あ、ごめん。何」
レオは夢見心地でマルコに向き直る。
「レオ……」
マルコは優しくレオの肩を抱いた。
「――二人を逃がしたのは君だな?」
「……!」
逃げようとするレオを押さえ、マルコは大人の男の腕の中に小さな体を閉じ込めた。
「放してぇ!」
「まったく、ジェルソミーナといい、君といい!」
「妹さんのことは知らないよ……!」
哀れっぽい声を上げながら、レオは気を抜いていた自分を呪った。マルコは堅物だが間抜けではない。さっさとここから立ち去るべきだったのに。
ジェルソミーナのせいだ。あんなところにいたから。
「さて、では何を奢ってもらおうかな」
マルコはレオの肩を抱いたまま、否応なしにくるりと方向転換させる。
「なんで僕が」
「今は懐があったかいだろ」
レオは唇をわななかせてマルコを振り仰いだ。
「マルコ・パツィエンツァともあろう者が!」
「おや。キャピュレット家に引き渡される方がいい?」
「ぐぅ……」
眉目秀麗。品行方正。周囲からの信頼も厚い、絵に描いたような理想の貴公子。だが、マルコは決してそれだけの男ではない。
レオは渋々頷いた。
「分かったよ……」
マルコは満足げに頷くと、思い出したように続けた。
「そうそう、父から伝言だ。お菓子を用意して待っているから、またいつでも遊びにおいで、と」
「アンドレア様が?」
「うん。あー、走ったから暑いな……。カフェって気分でもないし、我々はジェラートにしようか」
「うん」
いい考えだと思った。冷たいジェラートでも食べれば、この胸のもやもやも少しは落ち着くかもしれない。
連れ立って歩きながら、レオはマルコをそっと見上げる。
美しい陰影を持つ、鈍色の金髪はジェルソミーナと同じ。瞳の色はもう少し明るくて青い、潟の更に向こうの海の色。
「どうした?」
「ううん。別に」
レオは物憂く首を振る。
ちょっとびっくりしただけだ。跳ねっ返りのジェルソミーナ・パツィエンツァ。
光をまとった海のような、その目の輝きに。
【参考文献】
アルヴィーゼ・ゾルジ(2005)金原由紀子、松下真記、米倉立子訳『ヴェネツィア歴史図鑑』東洋書林.
塩野七生(1989)『海の都の物語』中公文庫.
勝又洋子(2016)『ヴェネツィアの仮面カーニヴァル』社会評論社.




