第3話 聖約書の知らない線
王宮の廊下は、大広間よりも寒かった。
扉が閉まると、さっきまで背中に刺さっていた視線が一枚向こうへ遠ざかる。代わりに聞こえてきたのは、セシリアの浅い息と、私の手首から落ちる血の音だった。
ぽたり。
白い大理石に、小さな赤が咲く。
「レティシア様、手が……」
セシリアが私の手を見て、青ざめた。
私は裂けた手袋を握り込む。左手首には薔薇の紋がまだ浮かび、花弁の端が熱を持っていた。
「平気です」
「平気な傷ではありません」
震える声なのに、そこだけははっきりしていた。
私は思わず彼女を見た。
さっきまで王太子の前で息もできなかった少女が、私の傷を見て怒っている。泣きそうな顔のまま、ちゃんと怒っている。
胸の奥が、妙に温かくなった。
「では、学院女子寮へ着いたら聖堂医師に診ていただきましょう。あなたと一緒に」
「わたしは……」
セシリアは言いかけて、喉を押さえた。
銀の聖印は消えていない。罅は入っているのに、まだ星の輪は彼女の喉元へ絡みついている。
王太子を拒んだ。私の手を選んだ。
それでも、枷は残っている。
破約の薔薇は万能ではない。
そう理解した瞬間、怖さより先に腹が立った。
誰かがこの子の声を縛った。拒むだけで痛むようにした。優しさを義務にして、聖女という名前で首輪をかけた。
悪役令嬢の私より、よほど悪趣味だ。
「レティシア様」
背後から、低い声がした。
ユーリア・ナイトレインが、音もなく私たちの横へ並ぶ。黒い侍女服は乱れておらず、まるで舞踏会の騒ぎなどなかったみたいだった。
「馬車を裏門へ回しております。正門は王家の馬車で塞がれました」
「早いですね」
「遅ければ、殿下の近衛に追いつかれます」
ユーリアの声は平らだった。
忠実な侍女の報告に聞こえる。けれど、それだけではない。今夜の大広間で見た彼女の目は、ただの侍女のものではなかった。
影を縫い止める術。
近衛の動きを読む視線。
私の背後に控えていながら、王太子の指先まで測る冷静さ。
頼もしい。
けれど、少し怖い。
「ユーリア」
「はい」
「あなたは、誰の命令で動いていますか」
彼女の足が止まった。
廊下の燭台が、黒い瞳に細い光を落とす。
「レティシア様の侍女です」
「答えになっていません」
「今は、それ以上申し上げられません」
今は。
その言い方だけで、答えの半分は聞こえた気がした。
セシリアが私の手を強く握る。彼女も、不穏さを感じ取ったのだろう。
ユーリアはセシリアを見て、ほんの一瞬だけ目を伏せた。
「ただ、今夜あなた方を王家へ渡すつもりはありません」
「それは命令ですか」
「私の判断です」
短い言葉だった。
信じていいかは分からない。
でも今は、その判断に乗るしかない。
「では、案内して」
「承知しました」
私たちは裏門へ急いだ。
王宮の壁沿いには、卒業舞踏会のための白薔薇が飾られている。祝福の花。次期王太子妃となるはずだった私を彩るための花。
今は、逃亡の目隠しになっていた。
馬車の中で、セシリアは私の隣に座った。
向かいに座る選択もあったのに、彼女は迷わず隣へ来た。肩が触れるほど近い。
けれどその近さは甘さというより、崖から落ちないようにつかまっている距離だった。
「苦しくありませんか」
「少し、喉が痛みます。でも、話せます」
「無理に話さなくていいと言いました」
「はい。でも、言わないと、また言えなくなりそうで」
セシリアは両手を膝の上で握った。
その指先は祈りの形に慣れすぎている。お願いする手。許されるのを待つ手。
私はその手に、自分の右手をそっと重ねた。
「では、一つだけ。あなたは殿下と聖約を結びましたか」
セシリアの肩が震えた。
「結んだと、言われました」
「言われた?」
「教会で。聖女候補として王家へ仕えるための誓いだと。わたしが署名したら、殿下を支え、拒まず、国のために祈る力が強くなると」
「あなた自身は、それを婚約の聖約だと理解していましたか」
セシリアは首を横に振る。
その拍子に、喉元の聖印がまた鈍く光った。
「いいえ。そんなこと、知らなかった。殿下の隣に立つのが怖いと伝えたかったのに、言葉が詰まって……それから、ずっと」
馬車の車輪が石畳を叩く。
ずっと。
その一言が重かった。
ゲームでは、セシリアは王太子に惹かれていく。優しく守られ、聖女として覚醒し、最後に結ばれる。
でも現実の彼女は、最初から言えなかっただけかもしれない。
拒む言葉を。
嫌だという一言を。
学院女子寮へ着いた時、夜は深くなっていた。
寮母と聖堂医師は、ユーリアが先に知らせていたらしい。寝巻きに外套を羽織った寮母が顔色を変え、聖堂医師は小さな診察鞄を抱えて待っていた。
「聖女候補様の聖約痕を確認します」
聖堂医師はそう言って、セシリアの首元へ銀の小鏡をかざした。
罅の入った聖印が、鏡の中で歪む。
聖堂医師の眉が動いた。
「これは……通常の婚約聖約ではありません」
「どういう意味ですか」
「契約文を見なければ断言できません。ただ、拒絶の言葉に反応して痛むのは異常です」
私は椅子の背を握った。
怒りで手が震える。
「聖約書の写しはありますか」
寮母が戸棚から封筒を取り出した。
「聖女候補の在学手続きで学院へ預けられた控えなら。王家と教会の写しですので、閲覧には本来許可が必要ですが……今夜は非常時です」
封蝋には星冠教会の印。
私はそれを破る前に、セシリアを見た。
「見てもいい?」
彼女は小さく頷いた。
「はい。わたしも、知りたいです」
聖約書は羊皮紙一枚だった。
整いすぎた文字で、王家への奉仕、祈りの義務、聖女候補としての従順が並んでいる。
署名欄には、セシリア・ルミエール。
細く、やわらかな筆跡。本人のものだろう。けれどその名前の最後、ルミエールの長音を引く線の下に、別の線が一本混じっていた。
鋭い。
硬い。
祈る手で書いた線ではない。
私の背筋に冷たいものが走る。
「セシリア様。この線に覚えは?」
彼女は羊皮紙を見つめた。
瞳が揺れる。
「ありません。わたし、こんなふうに書きません」
聖堂医師が息を呑んだ。
ユーリアだけが黙っている。
私は羊皮紙から目を離せなかった。
これは証拠だ。
まだ小さい。誰かに踏み潰されれば終わるほど細い。
けれど、たしかにある。
セシリアの声を縛った何かの、最初の綻び。
その時、窓の外で馬の嘶きが聞こえた。
寮母が顔を上げる。
ユーリアが燭台の火を指で消した。
部屋が暗くなる。
「王家の使者です」
ユーリアの声が、闇の中で落ちた。
「思ったより早い」
私は聖約書を胸元へ抱いた。
セシリアの手が、また私の袖を探す。
今夜は逃げ切れても、次はない。
ユーリアの目が告げていた言葉が、もう追いついてきた。
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