第2話 聖女候補は王太子を選ばない
「わたし、殿下の隣は、いや……」
セシリアの声は、シャンデリアの光よりも細かった。
けれど王宮大広間にいた全員が聞いた。
音楽家たちは弓を弦へ乗せたまま固まり、貴族たちは扇の陰で息を殺す。誰もが、その一言を理解できずにいた。
聖女候補は王太子に救われ、悪役令嬢は王太子に捨てられる。
全員が、その物語を信じていた。たぶん私も、さっきまでは信じていた。
でもセシリアの指は、私の袖を掴んでいる。
逃げたい相手の袖を、こんなふうに握ったりはしない。
「セシリア」
ユリウス殿下の声が低くなった。
「今の言葉は、聞き間違いだな」
命令だった。
問いかけの形をしているだけで、答えは最初から決められている。
セシリアの肩が跳ねる。喉元の聖印は、細い罅を帯びていた。星を連ねた銀の輪はまだ残り、呼吸のたびに弱く明滅している。
私はその光を見て、手首の痛みを思い出した。
破約の薔薇は、たしかに聖印へ届いた。けれど切り落としたのではない。
鍵穴へ、やっと爪をかけた程度だ。
「セシリア様」
私は袖を掴む彼女の指へ、そっと手を重ねた。
「答えなくても構いません。あなたが苦しいなら、無理に言葉にしなくていい」
セシリアの睫毛が震える。
その顔は、泣くことすら許されていない子どものようだった。
「レティシア」
殿下が一歩踏み出す。
近衛の青年たちが動きかける。
「その手を離せ。お前が何をしたか知らないが、セシリアは混乱している。禁じられた魔法で被害者を惑わせるとは、恥を知れ」
「恥なら、先ほど十分にかかされました」
私は笑った。
喉が乾いていた。左手首は熱を持ち、手袋の裂け目から赤い線がにじんでいる。
それでも背筋は曲げない。
「婚約破棄も、断罪も、すべて受け止めます。ですが、セシリア様の意思まで殿下が代弁なさるのは違うでしょう」
「彼女を守るためだ」
「守るとは、相手の言葉を奪うことですか」
大広間の空気が凍り、ユリウス殿下の金の瞳に怒りが浮かぶ。
怖くないわけがない。相手は王太子だ。私は、たった今婚約者の座を失った令嬢にすぎない。
けれど、袖を掴むセシリアの指は離れない。
「セシリア」
殿下は私を無視して、彼女へ手を伸ばした。
「こちらへ来なさい。今なら不問にする」
不問。
その言葉で、セシリアの顔が青ざめた。
まるで彼女が罪を犯したみたいに。
私は彼女の前へ半歩出た。
その瞬間、床に落ちた私の影が揺れた。
誰かが、すぐそばにいる。
視界の端。黒い侍女服。低く結われた黒髪。私の侍女、ユーリア・ナイトレインが、いつの間にか柱の影へ立っていた。
彼女は何も言わない。
ただ、殿下の近衛が一歩踏み込めば間に入れる位置にいる。
私の胸に、遅れて安堵が落ちた。けれど同時に、違和感も刺さる。
ユーリアは私の侍女だ。なのにその視線は、私だけではなく殿下の指先まで冷静に測っている。
まるで守る相手を選び直しているようだった。
「殿下」
「もう一度、セシリア様に確認いたします」
「許さない」
「許可を求めておりません」
私はセシリアを振り返る。
近くで見ると、彼女の瞳は涙に濡れていた。聖女候補。原作ヒロイン。国を救う少女。
でも今は、ただ怖がっている。
私は声を落とした。
「それは、あなたが選ぶことよ」
自分の口癖が、こんな場で出るとは思わなかった。
「私の手を離してもいい。殿下のもとへ戻ってもいい。誰にも答えたくないなら、それでもいい。あなたが選んで」
セシリアの唇が開く。
喉元の聖印が、また縮んだ。
彼女の体が痛みに折れそうになる。私は支えようとして、抱きしめる寸前で止まった。
私が決めてはいけない。
奪い返すとしても、最後に選ぶのは彼女でなくてはいけない。
セシリアは震える息を吐いた。
涙が一筋、頬を伝う。
「わたしは……」
銀の聖印が、彼女の声を噛み潰そうとする。
それでもセシリアは顔を上げた。
「レティシア様の、手を……離したくありません」
大広間が割れたように騒然となった。
ユリウス殿下の表情から、王族らしい余裕が消える。
「セシリア!」
「ごめんなさい、殿下」
セシリアは泣いていた。
それでも、私の袖ではなく、今度は私の手を握った。
「わたし、怖かった。殿下に選ばれたら、国のためになると教えられました。聖女なら、拒んではいけないと。でも……」
聖印が罅から白い火花を散らす。私の手首にも痛みが走る。まるで彼女の声が私の傷へ流れ込んでくるみたいだった。
「でも、いやです。わたしは、殿下のものに、なりたくありません」
今度は誰も、聞き間違いだとは言えない。
王太子の婚約者として断罪された悪役令嬢が、聖女候補に手を取られている。
王太子が救うはずだった少女は、王太子を拒んだ。
私はセシリアの手を包む。
彼女の指は冷たかった。
だから、強く握った。
「よく言えました」
セシリアの瞳が揺れる。
「本当に、よく」
最後まで言えなかった。
殿下が近衛へ視線を投げたからだ。
鎧の金具が鳴る。
剣にはまだ手がかかっていない。けれど王太子の沈黙は十分な命令だった。
ユーリアが、柱の影から一歩だけ出る。
その動きは静かだった。けれど近衛の一人が足を止め、自分の影を見下ろして顔色を変えた。
影が縫い止められたように、靴底から動かない。
私はユーリアを見ないふりをした。
ここで彼女の名を呼べば、王家に対する反逆の証拠を増やすだけだ。
その判断ができるくらいには、私も公爵令嬢だった。
「殿下」
私は大広間へ向き直る。
「たった今、セシリア様はご自身の意思を述べました。これでもなお、彼女を連れていくとおっしゃいますか」
「お前が言わせたのだ」
「では証人を集めましょう。この大広間にいる皆様に、今の言葉が魔法で操られたものに聞こえたかどうか」
貴族たちが一斉に目を逸らした。誰も王太子に逆らいたくない。
けれど誰も、聖女候補の涙を見なかったことにはできない。
「私は今夜、婚約者の座を失いました。であれば、王太子妃候補としてではなく、ヴァルトローゼ公爵家の令嬢として申し上げます」
裂けた手袋を握りしめる。手首の薔薇は熱い。
「セシリア・ルミエール様の身柄は、本人の意思が確認されるまで中立の場で保護されるべきです」
「中立だと?」
殿下が鼻で笑う。
「お前の屋敷に連れていくつもりだろう」
「いいえ」
私は悪役令嬢らしく、公爵令嬢らしく微笑む。
「王立星冠学院の女子寮へお戻しします。学院長と聖堂医師の立ち会いで、彼女の体調を確認していただく。その間、殿下も私も接触しない。これなら公平でしょう」
もちろん完全に公平ではない。学院には王家の目も教会の手も届く。
けれど今この場でセシリアを殿下の馬車へ乗せるよりは、はるかにましだ。
そして一晩あれば、手を打てる。
ユリウス殿下は黙った。
ここで無理にセシリアを連れ去れば、聖女候補の拒絶を力で潰した王太子になる。
やがて殿下は、凍った声で言った。
「今夜の件は終わっていない」
「ええ」
私は頷いた。
「始まったばかりです」
セシリアの手が、私の手の中で小さく震えた。
私は彼女を見下ろし、声をひそめる。
「歩けますか」
彼女は涙で濡れた顔のまま、こくりと頷く。
「はい。レティシア様が、手を握っていてくださるなら」
命綱を確かめる声だった。
胸の奥が、痛いほど柔らかくなる。
「もちろん」
私は彼女の手を握ったまま歩き出す。
背後で、ユリウス殿下の視線が刺さる。
前方では、貴族たちが道を開ける。
そのさらに先で、黒髪の侍女が静かに頭を下げた。
ユーリアの影は、誰の足も縫っていない。
けれど彼女の目だけは、私に告げていた。
今夜は逃げ切れても、次はない、と。
大広間の扉が開き、涼しい夜気が血と薔薇の匂いをさらっていった。
私はその風の中で、はじめて自分の手が震えていることに気づいた。
それでも、セシリアの手は離さなかった。
ここまでお読みいただきありがとうございます。
続きが気になる方は、ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。




