表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

2/3

第2話 聖女候補は王太子を選ばない

「わたし、殿下の隣は、いや……」


 セシリアの声は、シャンデリアの光よりも細かった。


 けれど王宮大広間にいた全員が聞いた。


 音楽家たちは弓を弦へ乗せたまま固まり、貴族たちは扇の陰で息を殺す。誰もが、その一言を理解できずにいた。


 聖女候補は王太子に救われ、悪役令嬢は王太子に捨てられる。


 全員が、その物語を信じていた。たぶん私も、さっきまでは信じていた。


 でもセシリアの指は、私の袖を掴んでいる。


 逃げたい相手の袖を、こんなふうに握ったりはしない。


「セシリア」


 ユリウス殿下の声が低くなった。


「今の言葉は、聞き間違いだな」


 命令だった。


 問いかけの形をしているだけで、答えは最初から決められている。


 セシリアの肩が跳ねる。喉元の聖印は、細い罅を帯びていた。星を連ねた銀の輪はまだ残り、呼吸のたびに弱く明滅している。


 私はその光を見て、手首の痛みを思い出した。


 破約の薔薇は、たしかに聖印へ届いた。けれど切り落としたのではない。


 鍵穴へ、やっと爪をかけた程度だ。


「セシリア様」


 私は袖を掴む彼女の指へ、そっと手を重ねた。


「答えなくても構いません。あなたが苦しいなら、無理に言葉にしなくていい」


 セシリアの睫毛が震える。


 その顔は、泣くことすら許されていない子どものようだった。


「レティシア」


 殿下が一歩踏み出す。


 近衛の青年たちが動きかける。


「その手を離せ。お前が何をしたか知らないが、セシリアは混乱している。禁じられた魔法で被害者を惑わせるとは、恥を知れ」


「恥なら、先ほど十分にかかされました」


 私は笑った。


 喉が乾いていた。左手首は熱を持ち、手袋の裂け目から赤い線がにじんでいる。


 それでも背筋は曲げない。


「婚約破棄も、断罪も、すべて受け止めます。ですが、セシリア様の意思まで殿下が代弁なさるのは違うでしょう」


「彼女を守るためだ」


「守るとは、相手の言葉を奪うことですか」


 大広間の空気が凍り、ユリウス殿下の金の瞳に怒りが浮かぶ。


 怖くないわけがない。相手は王太子だ。私は、たった今婚約者の座を失った令嬢にすぎない。


 けれど、袖を掴むセシリアの指は離れない。


「セシリア」


 殿下は私を無視して、彼女へ手を伸ばした。


「こちらへ来なさい。今なら不問にする」


 不問。


 その言葉で、セシリアの顔が青ざめた。


 まるで彼女が罪を犯したみたいに。


 私は彼女の前へ半歩出た。


 その瞬間、床に落ちた私の影が揺れた。


 誰かが、すぐそばにいる。


 視界の端。黒い侍女服。低く結われた黒髪。私の侍女、ユーリア・ナイトレインが、いつの間にか柱の影へ立っていた。


 彼女は何も言わない。


 ただ、殿下の近衛が一歩踏み込めば間に入れる位置にいる。


 私の胸に、遅れて安堵が落ちた。けれど同時に、違和感も刺さる。


 ユーリアは私の侍女だ。なのにその視線は、私だけではなく殿下の指先まで冷静に測っている。


 まるで守る相手を選び直しているようだった。


「殿下」


「もう一度、セシリア様に確認いたします」


「許さない」


「許可を求めておりません」


 私はセシリアを振り返る。


 近くで見ると、彼女の瞳は涙に濡れていた。聖女候補。原作ヒロイン。国を救う少女。


 でも今は、ただ怖がっている。


 私は声を落とした。


「それは、あなたが選ぶことよ」


 自分の口癖が、こんな場で出るとは思わなかった。


「私の手を離してもいい。殿下のもとへ戻ってもいい。誰にも答えたくないなら、それでもいい。あなたが選んで」


 セシリアの唇が開く。


 喉元の聖印が、また縮んだ。


 彼女の体が痛みに折れそうになる。私は支えようとして、抱きしめる寸前で止まった。


 私が決めてはいけない。


 奪い返すとしても、最後に選ぶのは彼女でなくてはいけない。


 セシリアは震える息を吐いた。


 涙が一筋、頬を伝う。


「わたしは……」


 銀の聖印が、彼女の声を噛み潰そうとする。


 それでもセシリアは顔を上げた。


「レティシア様の、手を……離したくありません」


 大広間が割れたように騒然となった。


 ユリウス殿下の表情から、王族らしい余裕が消える。


「セシリア!」


「ごめんなさい、殿下」


 セシリアは泣いていた。


 それでも、私の袖ではなく、今度は私の手を握った。


「わたし、怖かった。殿下に選ばれたら、国のためになると教えられました。聖女なら、拒んではいけないと。でも……」


 聖印が罅から白い火花を散らす。私の手首にも痛みが走る。まるで彼女の声が私の傷へ流れ込んでくるみたいだった。


「でも、いやです。わたしは、殿下のものに、なりたくありません」


 今度は誰も、聞き間違いだとは言えない。


 王太子の婚約者として断罪された悪役令嬢が、聖女候補に手を取られている。


 王太子が救うはずだった少女は、王太子を拒んだ。


 私はセシリアの手を包む。


 彼女の指は冷たかった。


 だから、強く握った。


「よく言えました」


 セシリアの瞳が揺れる。


「本当に、よく」


 最後まで言えなかった。


 殿下が近衛へ視線を投げたからだ。


 鎧の金具が鳴る。


 剣にはまだ手がかかっていない。けれど王太子の沈黙は十分な命令だった。


 ユーリアが、柱の影から一歩だけ出る。


 その動きは静かだった。けれど近衛の一人が足を止め、自分の影を見下ろして顔色を変えた。


 影が縫い止められたように、靴底から動かない。


 私はユーリアを見ないふりをした。


 ここで彼女の名を呼べば、王家に対する反逆の証拠を増やすだけだ。


 その判断ができるくらいには、私も公爵令嬢だった。


「殿下」


 私は大広間へ向き直る。


「たった今、セシリア様はご自身の意思を述べました。これでもなお、彼女を連れていくとおっしゃいますか」


「お前が言わせたのだ」


「では証人を集めましょう。この大広間にいる皆様に、今の言葉が魔法で操られたものに聞こえたかどうか」


 貴族たちが一斉に目を逸らした。誰も王太子に逆らいたくない。


 けれど誰も、聖女候補の涙を見なかったことにはできない。


「私は今夜、婚約者の座を失いました。であれば、王太子妃候補としてではなく、ヴァルトローゼ公爵家の令嬢として申し上げます」


 裂けた手袋を握りしめる。手首の薔薇は熱い。


「セシリア・ルミエール様の身柄は、本人の意思が確認されるまで中立の場で保護されるべきです」


「中立だと?」


 殿下が鼻で笑う。


「お前の屋敷に連れていくつもりだろう」


「いいえ」


 私は悪役令嬢らしく、公爵令嬢らしく微笑む。


「王立星冠学院の女子寮へお戻しします。学院長と聖堂医師の立ち会いで、彼女の体調を確認していただく。その間、殿下も私も接触しない。これなら公平でしょう」


 もちろん完全に公平ではない。学院には王家の目も教会の手も届く。


 けれど今この場でセシリアを殿下の馬車へ乗せるよりは、はるかにましだ。


 そして一晩あれば、手を打てる。


 ユリウス殿下は黙った。


 ここで無理にセシリアを連れ去れば、聖女候補の拒絶を力で潰した王太子になる。


 やがて殿下は、凍った声で言った。


「今夜の件は終わっていない」


「ええ」


 私は頷いた。


「始まったばかりです」


 セシリアの手が、私の手の中で小さく震えた。


 私は彼女を見下ろし、声をひそめる。


「歩けますか」


 彼女は涙で濡れた顔のまま、こくりと頷く。


「はい。レティシア様が、手を握っていてくださるなら」


 命綱を確かめる声だった。


 胸の奥が、痛いほど柔らかくなる。


「もちろん」


 私は彼女の手を握ったまま歩き出す。


 背後で、ユリウス殿下の視線が刺さる。


 前方では、貴族たちが道を開ける。


 そのさらに先で、黒髪の侍女が静かに頭を下げた。


 ユーリアの影は、誰の足も縫っていない。


 けれど彼女の目だけは、私に告げていた。


 今夜は逃げ切れても、次はない、と。


 大広間の扉が開き、涼しい夜気が血と薔薇の匂いをさらっていった。


 私はその風の中で、はじめて自分の手が震えていることに気づいた。


 それでも、セシリアの手は離さなかった。


ここまでお読みいただきありがとうございます。

続きが気になる方は、ブックマーク・評価で応援いただけると励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ