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怜志からの告白に、陽彩は明らかな動揺を見せた。恋愛に興味があると言ったから気を遣わせたと焦ったか。それとも『好き』とは実際どんなものなのか、怜志に何らかの特別な感情を抱いているのは間違いないが、果たしてそれが正解──映画と同じ感情──だと言えるのか、判断出来ずに困っているのかもしれない。
大人しく抱きしめられている陽彩の頭の中を覗いてみたい。
とはいえ、この沈黙が気まずくはなかった。むしろ鼓動のユニゾンが、相性の良さを感じさせてくれる。何だか可笑しくなってきて、怜志は「ふふ……」と声を漏らした。
陽彩は視線を上げ、様子を伺う。
「真剣に考えくれて嬉しいよ。でも、今すぐに返事を出さなくていいから」
今度こそ映画を観ようとテレビのスイッチを入れる。恋愛映画を選んだのはわざとだ。
自分でもしたたかだと思う。今、陽彩をリラックスさせるには癒し系の動物の映像でも流すのが賢明だ。けれど怜志は、この距離感や、肌にまとわりつく甘ったるい空気を壊したくなかった。
肩を抱き寄せて前を向き直った怜志の胸に、陽彩は頭を預けている。テレビに向いたまま陽彩が訊ねる。
「何故、怜志さんはそんなに優しいんですか? 僕のためにそこまで気遣ってくれるなんて」
「気遣ってしてるんじゃないよ。陽彩と恋したいって言ったのも全部本心だし、帰したくないのも、一緒に過ごす時間を増やしたいのも、全部、俺の欲望」
「でも僕は怜志さんにどんなことをすればいいのか分かりません。どうすれば恋と呼べるようになるのでしょうか」
「そんなの絶対的な定義なんてないから、ラフにいこうよ。強いて言えば……そうだな、こうして触れ合う時間をもっと増やすとかさ」
陽彩の髪に指を絡める。艶やかな黒髪は、見た目よりも太くてしっかりしている。触れてみなければ分からない。彼に踏み込むほどに、新しい一面が見られる気がする。
「引っ付いていると暖かくて安心します。それなのに緊張もしてるなんて矛盾してますよね」
「全然変じゃないよ。だってそれが、恋の始まりかもしれないじゃん」
陽彩はさっきの怜志の言葉を思い出したようだ。
「……確かに、こうしているとドキドキしてしまいます。初めての感覚で、なんだかくすぐったいような……」
緊張してるとはいえ、学生の頃に教室に入るのが怖いと感じたそれとはまるで違うと陽彩は言う。
「気に入ってくれた?」
「はい。ずっとこうしていたいと思えるほどに」
「じゃあ、ずっとこうしていよう。ずっと引っ付いて過ごそう」
陽彩の強張った体から力が抜け、怜志に寄りかかる。
「この気持ちが恋ならいいのに」胸の前で両手を組み、祈るように陽彩が言う。彼の小さな声は、僅かにも気を抜くと取りこぼしそうになる。一言一言を聞き逃さないように、怜志は耳を傾ける。
恋愛映画は必要なかったかもしれない。陽彩はしっかりと怜志と向き合ってくれていると確信が持てた。
「陽彩が好きだって思いたいなら、きっと好きなんだよ。いや、そうであって欲しいから誘導してる。このまま好きになってよ」
「れ……怜志さんは、僕を好き……なんですか?」
「俺は……うん、そう、好き。こんなに必死になるくらい好きになってる」
陽彩にばかり恋愛感情を向けさせておいて自分は何も伝えていなかったと、今更になって気が付いた。これでは狡い奴みたいだ。
改めて陽彩と眸を合わせ、怜志ははっきりと伝えた。
「俺、陽彩が好き。多分、一番最初にアルコープに行った日から惹かれてた。君のこのどこまでも澄んだ瞳に、心ごと吸い込まれたんだ」
怜志は一つ結論付けた。陽彩はやはり城ヶ崎とは無関係だと。こんなに純粋無垢な人が、あんな奴の身内なわけがない。平気で人の人生を踏み躙るような冷徹な男とは、到底繋がらない。
伊角の話で友情に熱い人だったのかもしれないとは思った。しかし研究に多額の支援金を贈るのも昔の誼があったから。それも自分にメリットがあるのを見越しての話である。そりゃ、そうだ。城ヶ崎が世の為人の為だけに貢献などする人間な訳がない。
そんな奴に似ているからという理由だけで、勝手に騒ぎ立てた世間が一人の一般人の平穏な日常を奪ったのも腹立たしい。そのおかげで陽彩と出会えたという点を差し置いても、全ての根源は城ヶ崎なのだと考えると、やはり憎むべき相手なのだ。
「好きだよ、陽彩」
髪にキスを落とす。柔らかく触れるだけのキスでも、陽彩は肩を戦慄かせ、怜志の腿に置いている両手の拳に力を込めた。
怜志は再びキスを落とす。
「これはね、好きな人にだけする愛情表現。これをすると、言葉にしなくても相手に気持ちが伝わるんだ。どう? 俺の気持ち、伝わってるかな?」
額に触れた唇で、今度は眦に触れる。頬に、鼻先に、そして、口に……。
決して欲情を煽るような口付けではない。けれど、今の二人にはそれだけで充分だと言えるほど情熱的に感じた。
怜志の問いに、陽彩は首まで真っ赤にして小刻みに頷いた。刺激が強すぎたかもしれない。眸いっぱいに溜まった涙が頬を伝う。
刹那、やりすぎたと焦った怜志だったが、謝りたくはなかった。陽彩にキスをしたかった。
零れた涙を掬うように、再び頬に口付ける。
反対側に添えた指を滑らせ、頬に張り付いた髪を耳にかけた。
自然眸を閉じてキスを受け入れた陽彩が視線だけを怜志に向け、じっと見詰める。涙で潤んだそれは、いつもに増して煌めいている。
「全部、怜志さんが教えてください。僕は、怜志さんと恋がしたい……です」
「じゃあ、もっとしていい?」
「は、はい。お願いします」
「ははっ。お願いされちゃった。身構えさせてごめん。俺も焦ってた」
「怜志さんが?」
「うん、だって、陽彩に好きになって欲しいもん」
陽彩が観た映画の中でもキスをしていただろう。イメージ通りだっただろうか。陽彩はキスに対してどんな感情を抱いてきたのかは想像もつかない。それでもこの行為を気に入ってくれたのには間違いなかった。陽彩は怜志からキスして欲しいと思ったら軽く服を引っ張る。無意識だと思うけれど、頻繁にそうするものだから、きっと今後もこれがキスの合図になる気がした。怜志は期待に応え、顔中に唇を落とす。陽彩は全てを受け入れ、くすぐったいと眸を眇めて「くっくっ」と嬉しそうに笑う。
彼が恋愛に対して前向きであったのは怜志にとっては僥倖だと言えた。
二人で映画を流し見しながら、何度も見詰め合い、キスをする。画面を見るよりも圧倒的に向き合う時間の方が長かった。
合間で鳴海と連絡を取り、怜志の残りの休日の四日間を全て怜志のマンションで過ごすことになる。鳴海が怜志を気遣っているのではなく、むしろワクワクしている女子学生のようにはしゃいでいた。
「私も昔は親に友達と行くと嘘を吐いて、彼と旅行したりしたわ」懐かしい思い出を、電話越しに話してくれた。
「陽彩は本当に世間知らずだから、青柳さんが色々教えてあげてね」そう言って電話を切った。
続いて陽彩から神津に連絡をかけた。明日からの三日間、仕事を休む旨を伝える。神津はこれまで余程のことがない限り休日を取らなかった陽彩に、たっぷりと息抜きをするよう伝えたようだ。電話を切った陽彩は照れながら目線で「OKだった」と頷き合図を送ってきた。
怜志は肩で息を吐き、陽彩を抱き寄せた。仕事を頑張った褒美に神様が陽彩との時間を贈ってくれたとしか思えない。そうでなければ展開が速すぎやしないか。思えば陽彩との距離が縮まる時は、こんなふうに急カーブを描くように好転する。まるで華やかな未来へと導かれているようだと感じてしまう。
「晩御飯、何が食べたい? 俺が作るよ」
「仕事もできて、料理もできるんですか?」
「簡単なものしか作れないけどね。神津さんほど美味しく作れないから、期待はしないで」
「怜志さんが作ってくれたものなら、なんでも食べてみたいです」
「それじゃあ、相談にならないな。一品ずつ言い合うってのはどう?」
「僕は……焼き魚が食べたいです」
「和食、いいね。俺は鮭か鯖が好きだけど、陽彩は?」
「鮭が好きです。怜志さんは何が食べたいですか?」
「焼き魚に合うって言えば、煮物か和物……それに味噌汁が欠かせない。よし、和物と煮物はお惣菜を買ってきて、味噌汁と焼き魚を作るか」
「そんなにいっぱい食べられますか?」
「余裕。もっと食べられるよ。買い出しに行ったついでにスイーツも買おう」
神津から少食だとは聞いていたが、怜志の想像以上かもしれない。体型は要と変わらないように見えるが、要は見た目によらず大食漢で怜志と同じくらいの量をペロリと平らげる。正直、怜志の周りには少食の人がいないため、どの程度の食事を準備すればいいのか想像もつかない。
(まあ、俺が食べればいいか)一先ず怜志が食べ切れる量を作ることにした。
「買い出しに行ってる間、映画でも観ててよ」リモコンの使い方を説明する。しかし陽彩は突然不安そうな表情になる。いきなり他人の家で一人になるのは心細いか。けれど外を出歩くのは危険が伴う。鳴海や神津に相談しなければ、怜志一人では判断しかねる。
「やっぱり、配達してもらおう」提案したが、陽彩は首を横に振った。
「一緒に、買い物に行ってみたいです」
「え、でも……」
「怜志さんとなら、大丈夫だと思います。暗くなってからなら、顔もはっきりとは見えないでしょうし。僕は、いつか普通の人として生活するのが夢なんです。一人では到底無理ですが、怜志さんとなら叶えられる気がして……。あ、ごめんなさい。いきなり我が儘を……」
途中で我に返り、慌てて謝った。子供の頃の記憶はなくとも、自分の人生の殆どは病院のベッドの上で過ごしたのは事実で、退院してからも同世代の友人も作れず孤独を味わってきた。
鳴海や神津に守られて平穏になったものの、陽彩だって本当は年相応に楽しんでみたいに決まっている。その経験をするために頼ってくれて嬉しくないわけはない。
「いいよ」
「え?」
「だから、一緒に買い物行こう」
「いいんですか?」
「遅い時間なら、店も空いてるから。マスクとメガネで変装して、俺のアウターでも羽織ってれば誰だか分からないよ」
好奇心旺盛な子供のように得意げに話すと、陽彩の表情も途端に明るくなった。やはり、閉じこもってばかりでは気が滅入ってしまう。単純に出歩くという何でもない行動も、陽彩にとっては非日常なのだ。
出かけるまでに米を炊き、先に味噌汁を作っておいた。その間に陽彩にはコーヒー豆を挽いてもらう。直ぐに淹れたいところではあるが、食後の楽しみにとっておこうと置いておく。
窓の外が暗闇に包まれたのをしっかりと確認してから、変装した陽彩と共にマンションを出た。
移動は車だから問題ない。行動範囲の狭い陽彩のために、遠回りしてスーパーへ向かう。
「またドライブに行きたかったので、念願叶いました」
「俺は直ぐに誘いたかったんだけどね。仕事は放っておけないから」
「それはそうです。また、いつか行ければ良いなって……」
「そんなこと言ってたら何年も待たなくちゃいけなくなるかも。俺はそんなに待てない。ずっともどかしかった。アルコープへ行けば目の前に陽彩がいるのに、碌に話もできないし触れられない。遊びにも誘えない。今日はやっと二人きりになれて浮かれてる」
「僕もです。怜志さんに誘ってもらえて浮かれています」
陽彩の不意打ち攻撃に慣れる日は来ない気がする。これが車内でなければ、キスの嵐が巻き起こるところだった。
ハンドルを強く握りしめ、無理やり気持ちを落ち着かせる。
スーパーでの買い物は、拍子抜けするほど何事もなく終わった。並んで立つと怜志の方が目立つのが功を奏したようだ。特に急いで買い物を済ませたわけでもなく、ゆっくり見て回れたのも良かった。陽彩は二十四歳にして初めて自分で買い物出来た喜びに興奮気味だった。助手席に座っても買い物袋を抱え、中身を確認したりと落ち着かない。
「楽しかった?」
「はい、とても。こんな日が来るなんて、本当に怜志さんのお陰です」
「大袈裟。今日、大丈夫だって分かったから、また行こうよ。この分だと例えば……映画だってレイトショーで行けば問題ないかも」
「映画館!?」
何気なく発した言葉に陽彩は徐に食いついた。
「映画館、行ってみたい?」
「はい。でも、人が沢山いる所は今でも苦手ですし、勝手が分からないので諦めていました」
「そういえば陽彩は小説家志望だって言ってたね。やっぱり映画は良く観るんだ?」
「詳しくはないですけど。でも、好きです」
「それは行くしかないね」
「いやでも、やっとスーパーに行けたばかりなのに、いきなりハードルが上がります」
「大差ないよ。上映終了間近の作品とかなら、殆ど客もいないだろうし、座席の空き具合を見て決めればいい」
怜志の提案に、陽彩はしばし黙り込んだ。
強引すぎたかもしれない。確かに怜志なら簡単にこなせてしまうが、だからといって陽彩もそうだとは限らない。訂正をしようと口を開いたと同時に、陽彩は「行きたい」とはっきり告げた。
「僕の初めてを、怜志さんと沢山経験したいです。甘えてもいいのなら」
「当たり前だよ。むしろ頼ってくれると嬉しいし、やりたいことがあるなら相談してよ。対策を練ろう。どうすれば叶うか、一緒に考えよう」
陽彩は眸を限界まで開き、輝かせた。自分の人生に初めて可能性を感じた、希望の光である。
マンションに帰り、怜志がご飯の支度をしている間に、陽彩はスマホで映画の情報を検索し始めた。特に今、観たい映画があるわけではないようだが、この勢いに乗って行ってみたいらしい。自主的にそうしてくれたのが怜志は嬉しかった。
「怜志さんは好きなジャンルはありますか?」何度もサイトの画面を上下にスクロールしながら訊ねる。
「俺は海外のホラー映画とかSFとか観るけど、陽彩はホラーは見なさそうだよね」
「ホラーは怖いです」
「だよね。レイトショーで良さそうなのある?」
「SFならあります」
「陽彩はそれで良いの? 折角行くなら、陽彩の好きなのが良いんじゃない?」
「一つ、気になる恋愛ものがあって……」
スマホの画面を怜志に向ける。人気の小説が実写映画化されたものだ。
「時間も遅いし、良いんじゃないかな。これにしよう」
「はいっ!!」
こんなにも喜んでもらるなんて、なんでも叶えてあげたくなる。
明日の夜、早速行こうと計画を立てた。
「丸三日も一緒にいられるから、思い出作ろう」
「お泊まりだけでも、大冒険に出た気持ちになってますけどね」
「それこそ、いつかこんなふうに一緒に過ごすのが当たり前になれば良い。さ、食べよ」
温めただけの煮付けと、焼いただけの鮭の塩焼き、味噌汁にご飯を皿に盛り付けダイニングへと移動する。
陽彩の少食ぶりには思わず声を上げてしまったが──幼稚園児かと疑うほどのご飯の量に、煮物は二口ほどしか食べなかった──鮭の塩焼きは美味しそうに綺麗に食べていた。
スウィーツは食べられないと言ってカフェオレだけ食後に飲んだ。
「いつも怜志さんの食いっぷりに感動してます」
「そんなふうに見られてたの? 確かに、平均よりは食べるかもだけど」
「怜志さんは、僕が出来ないことも沢山できますから尊敬してるんです」
「大食いに尊敬はしないで」
「それだけじゃありません。運転も上手だし、フットワークも軽くて仕事もできる。社交的だし見た目もカッコイイ」
「そこまで言われると、抱きしめたくなるんだけど」
参った、完全に惚れた。怜志は頭を抱える。美辞麗句を言う人ではないと知ってるからこそ、心に大きく響いた。
陽彩は何か気に障ることを言ってしまったかと思ったのか、怜志の顔色を伺う。しかし怜志は、今夜にでも陽彩を襲ってしまわないかと自分の理性と闘っていたのだった。
気を取り直して今度は癒し系の動物の動画を流し、気持ちを落ち着かせる。
お風呂に入り、寝室に入る頃には深夜になっていた。普段なら陽彩は寝ている時間だ。
セミダブルのベッドに並んで横になる。
「寒くない?」
「大丈夫です」
「こういう時は、寒いですって言って引っ付いてきてよ。恋してる俺たちだから」
「なるほど。勉強になります」
大真面目に返事をした陽彩だったが、どう行動に移せば良いのか答えが見つからない。
怜志から陽彩を抱き寄せ、腕枕をした。
「本当に、暖かいです」
陽彩は瞬く間にうとうとし始めた。
「おやすみ、陽彩」
怜志も眸を閉じる。
足の指が触れ合っているのまで意識しているのは、きっと怜志だけだろう。




