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神津は陽彩の代わりに食後のコーヒーを淹れてくれた。
「夏の暑さが堪える年になると秋が恋しく思ってしまいますが、今度は朝晩冷えて日中との寒暖差に堪えます」
「俺は今年の夏は季節を感じる間もなく終わってしまいました。打ち上げ花火の音を聞いたような気もするのですが……仕事に没頭しているのはやりがいはありますが、忙しすぎると記憶には何も残らなくて勿体ないです」
神津と過ごす時間も定番になっていた。穏やかに過ぎる時間を肌で感じる。神津が作り上げてきたこの空間に魅了されて、常連客は足繁く通ってくるのだろう。どの人もリラックスしていて、話が盛り上がっていても五月蝿いと感じない。いつしか怜志も他の客からも話しかけられるようになり、すっかり馴染んでいる。
「今週は仕事が休みなので、ゆっくり出来るんですよ」
「そうですか。ずっとお忙しそうだったから、体調を心配していましたよ。まだまだ若いから年寄りの心配なんて必要ないですね」
「いえ、カナリ疲れてました。あと一ヶ月続いていれば、確実に倒れてましたよ。雑用でも、役に立てたので報われますけど」
「雑用だなんて。立派なお仕事なのでしょう。今日は甘いものも召し上がってください。ケーキの新作の試食を沢山頂いたので」
「いただきます。丁度、甘いもの食べたかったんですよね」
アルコープのスウィーツは、近所の洋菓子店と提携していているのだと以前聞いていた。基本的にはメニューに載せているものだけ仕入れているが、付き合いも長くなると色々と試作品や季節限定品などをお裾分けしてくれるのだそうだ。神津は甘いものが苦手で、陽彩は少食。食べきれないので常連客にサービスしている。
「好き嫌いはありませんか?」
「シナモンが苦手なんですけど、あとは大体食べられます」
「ではモンブランと、かぼちゃプリンなんて如何です? おや、いちじくのケーキもまだ作っているようですね」
今日は客が少ないから全部でもいいですよと神津が言うので、遠慮なく三種類全て頂くことにした。
「濃いコーヒーが飲みたいです」とリクエストした。
外に目を向けるとマンションを出た時より風が強くなっている。そろそろアウターを準備していたほうが良さそうだ。
再び神津に視線を戻そうとした時、ドアのガラス越しに見覚えのある姿が映った。
「陽彩くん?」
怜志の声に神津も顔を上げる。
「こんにちは」
「うん、病院行ってたって聞いたけど」
「なんとなく、怜志さんが来てる気がして」
陽彩は本当に不意打ちで心臓を射抜くのが得意だ。自分に会いたくて来たようなものじゃないか。
口許を覆い、ニヤけて緩んだのを隠すと軽く咳払いをし、隣の席に促す。
「今からケーキを頂くんだけど、一緒にどう?」
「さっき祖母とご飯を食べてしまったので……」
「じゃあ、俺のを一口あげるよ」
かぼちゃプリンを掬ったスプーンを陽彩の口許へ運ぶ。陽彩は目を丸くして怜志を見上げた。心なしか、頬が少し赤くなっている気がする。
「怜志さんって……」
「俺? どうかした?」
「ドキドキさせるのが……お上手ですよね」
「え?」
陽彩は言った傍からみるみる顔が赤くなった。
これはもう、怜志に対してそれなりの気持ちを抱いていますと口にしているようなものだ。それが一般的な人間であれば。しかし相手は陽彩である。本当に、ただ素直に感じたことを口にしただけかもしれない。
でも、今、怜志に対して働いた感情は紛れもない事実なのであって……。
「ドキドキしてるの?」
「こんな食べ方、知りませんから……」
「食べてみてよ」
陽彩の緊張が伝わってくる。
二人きりなら、どうなっていただろうか……なんて、自分の中の本能が疼く。
陽彩は小さな口を開け、プリンを食べた。
「おいしいです……」
「おいしいよね。俺もこの味好きだわ」
平然を装い、プリンを平らげる。モンブランに移ろうとしたタイミングで神津がコーヒーを出してくれた。怜志はすかさずカップを口にした。今、自分がどんな表情をしているか自覚している。もしかすると神津には満更ではない怜志の心の内を読まれたかもしれない。いつもは片手でカップを握っているが、今日ばかりは丁寧に両手で抱え込み、顔の半分を隠した。
「今日は、このあと予定はある?」
「特にはありませんけど」
「じゃあさ、俺んちで映画でも観ない?」
「いいんですか?」
「うん、まだのんびりしたいって思いつつ、三日も一人で過ごしたら人恋しくなっちゃって。でもあんまり出歩くのも疲れるし、どうしよって思ってたんだ。よければ夕食も一緒に食べようよ」
陽彩は困ると神津の顔色を伺う。
神津は何も言わず、ただ陽彩に向かって頷いて見せただけだった。それは陽彩にとっては充分な合図である。
「行きたいです」
少し緊張しつつ、すぐに決心してくれたのが嬉しかった。
「じゃあ、早速行こうか」
「え、あ、はい」
慌てて立ち上がる。病院からの帰りなのに急かしてしまった。「支払いするから、ゆっくりでいいよ」とは言ったものの、スマホを翳すだけの勘定は一瞬で終わる。
陽彩はアウターのボタンを全て留め、マフラーを巻いた。
「真冬の衣装じゃん」
「風邪を引くと酷く拗らせるので。季節の変わり目は特に気をつけないといけないんです」
「確かに、夜とか風が冷たく感じるよね。俺は暑がりな方だから平気だけど」
並ぶとまるで違う季節を生きているかのような服装の違いである。怜志はTシャツに薄手のニットカーディガンを羽織っているだけだ。
神津に挨拶をして店を出る。日用品を買いに行き損ねたが陽彩を連れての買い物は避けたい。マンションに直帰して陽彩を迎え入れた。
「お邪魔します」
中を伺うように視線を巡らせ、一歩室内へと入る。
「怖がらなくても何もないから」
お化け屋敷に入るかのような慎重ぶりに、怜志は思わず笑ってしまう。他人の家に来たのが初めての陽彩にとって、マンションは未知の世界なのだろう。
「広いんですね」リビングに入った陽彩は、ここでも入口で立ち尽くして呆然としていた。
「父が購入したマンションなんだけど、今は俺一人で住んでるんだ。あ、喧嘩別れとかじゃなくて。父は仕事の都合で別に部屋を借りてる。ここはファミリー向けだし、一人だと広すぎて寂しい時もあるよ」
「そうなんですね」陽彩はリビングに目をやる。所々に観葉植物を置いているが、これらは全てイミテーションで、空気を浄化する効果のあるインテリアだ。
ウォールナットの床には最低限の家具しか置いていない。鳴海家のようなナチュラルな温かみのある空間に比べて、怜志のマンションはシンプルでモデルハウスのようにスタイリッシュだ。しかし言い換えれば殺風景で寂寥感を与える。
「だから、これからも遊びに来てくれると嬉しいな」
「僕が来てもいいんですか?」
「陽彩くんに来て欲しいって言ってるんだ。なんなら泊まって行ってくれてもいいよ」
「病院以外で泊まったことないです」
「じゃあ、ここが最初にしてよ。動画の騒ぎが落ち着いたら旅行も行きたいね」
「旅行……?」
「近々ってわけじゃないから。いつかは行きたいねって話。いっぱい約束しよう。未来が楽しみになるようにさ」
ソファーに腰を下ろしてもらう。大人でも四人は余裕で座れるそこに、陽彩は隅の隅にちょこんと座った。肩には鞄を掛けたままだ。
怜志は陽彩のアウターとマフラーを預かりハンガーに掛けた。お茶を淹れ、戻ってきても陽彩は微動だにしせず、畏まっている。
「落っこちちゃうでしょ」
怜志は真ん中に座ると、陽彩を隣に来るよう促す。恐る恐る……といった感じで、陽彩は怜志の左側に引っ付いた。
「やっぱり怜志さんは温かいですね」ずっと温かそうだと思っていたと陽彩は言った。
「そんなこと考えてたんだ」
陽彩は距離感がいささかおかしい。咄嗟に肩を組んでしまいそうになるのを最大の理性で食い止めた。ソファーの背凭れを力一杯鷲掴みにし、陽彩に触れる自分を押さえ込む。
「何か観たい映画とかある?」
「洋画は分からないです。いつも動物ものか、恋愛ものを観ています」
「恋愛とか興味あるんだ」
「恋って楽しそうだと思っていたのですが、観るほどに両思いなのに切なかったりして、自分では経験したことがないから興味深くて」
「それって恋してみたいって言ってるみたい」
「そう……ですね。出来るか分からないですけど、一度でいいから主人公になってみたい願望はあります。でも、きっとそうなればどう振る舞えばいいか戸惑ってしまうので、周りで見てるだけの方が安心して過ごせそうですけど」
「そんな発想、初めて聞いた。陽彩くんって面白いよね」
恋愛に興味があるとは意外だった。恋愛の『れ』の字も頭にないと勝手に思っていたので話を流せなかった。
ただでさえ、ぴたりと張り付いて座っているのに、これで怜志が陽彩の顔を覗き込もうものなら鼻先が当たってしまいそうだ。もしも今、耳許で愛の言葉でも囁けば、陽彩はどんな反応を見せるのだろう。
リモコンを操作しながら、頭の中では全く違うことばかり考えている。隣にいる陽彩を口説くための文句を必死に繕おうとしてしまう。『慌てるな』と抑える自分と『勢いに任せて迫っちゃえ』と煽る自分がせめぎ合う。どっちが天使でどっちが悪魔のセリフなのか判断ができない。
背凭れを掴んでいた手が勝手に動いた。
陽彩の肩を抱き寄せる。
「恋愛って、ドキドキするところから始まるんだけど」
「そう……なんですね」
肩を竦め、しかし怜志から逃げようとはしない。盗み見た陽彩の頬は明らかに高揚している。確信を着くには充分な反応だった。
「俺はドキドキしてるよ」
「れ……いし……さん……?」
陽彩の手を取り、自分の胸に当てる。そっと触れさせた手に鼓動が伝わった瞬間、陽彩は怜志の胸に耳を寄せ、その音に耳を澄ます。
「これが、怜志さんの心臓の音」
映画を流さなくて良かった。静かな部屋で陽彩に聞こえているのは怜志の鼓動だけ。自分だけに意識を向けてくれている、この時間が凄く贅沢だと思ってしまう。
「陽彩くんの音も聞かせてよ」
抱き寄せたまま強請ってみる。
「恥ずかしいですから」陽彩は体を起こそうとはしなかった。それどころか自分の音を聴かせまいと、より怜志に密着する。
さり気なく肩に置いていた手を頭に添え、そっと顎を乗せた。
「ドキドキしてるの?」
陽彩は無言のまま頷いた。Tシャツが伸びるほど手に力が入っている。
怜志は陽彩と向き合うように座り直し、上半身が癒着するほど抱きしめた。
腕の中に収まった陽彩は想像以上に細くて薄い。乾燥した枝みたいにポッキリと折れてしまいそうだ。自分の手をどこに持って行くのが正解なのか分からなくて戸惑っているのが伝わってくる。
「俺の背中に腕を回して。そしたら、もっと近くなる」
きっと陽彩は頭が真っ白になっている。けれど、このチャンスを逃すわけにはいかない。次があるなんて思っていれば、またある日突然、研究室に篭る必要に駆られるかもしれないのだ。
最初があまりにも順調すぎて、まさか仕事で四ヶ月もお預けを喰らうとは想定外だった。できればクリスマスや正月は一緒に過ごしたい。二人きりで、このマンションで。
陽彩は戸惑いつつも怜志の背中に腕を回してくれた。抱きしめるには遠い力加減。それでも二人の間を阻んでいた腕が退き、完全に体が癒着した。その分、顔は見えないが、お互い今は自分の表情を見られたくないような気がする。きっと陽彩は真っ赤な顔をしているし、怜志はニヤけた口許を引き締められない。こんなにも心が満ち溢れたのは初めてだと言えるほど、感激している。
陽彩が可愛くて仕方ない。このまま家に送り届けずに、朝まで一緒に過ごしたい。頭を撫でて、全身を愛撫して、鈍感な陽彩でも『これが恋なんだ』と実感するまで愛の言葉を囁きたい。
「今日、帰したくない。一緒にいよ?」
ストレートに伝えた。遠回しな言葉では、純粋な彼には伝わらない。
陽彩は困っているだろう。けれど後押ししてくれる神津はここにはいない。自分の意思で決めるしかない。怜志は、きっと陽彩は悩んだ末、答えを導け出せないだろうと思った。
「なんて、冗談」だと言って、映画を観よう。でも、あと少しだけこのままで……。
抱きしめたまま深呼吸をする。すると陽彩は「一緒にいたいです」と聞き逃しそうなほど小さな声で言った。
「陽彩……本当に?」瞠目として、そのまま固まってしまった。今、確かに……聞き間違えていなければ……。
僅かに口を開いたが思い留まった。聞き直しは無しだ。答えが変わるかもしれない。もしも、この雰囲気に流されていると言うのなら、このまま流されてしまえば良い。流されて、溺れてしまえば良い。後戻り出来ない程に。
焦るなが、悪魔の囁きだったのか。怜志は気持ちを抑えきれずに囁いた。
「陽彩……恋をする相手は、俺にしてよ」
陽彩に対し、誰にも渡したくないほどの独占欲にまみれている。自分なしでは生きていけなくなるほど依存して欲しいなんて、大真面目に思っている。陽彩の中を自分で埋めつくしたいなどと……。
「俺は、陽彩と恋したい」




