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陽彩との距離は瞬く間に縮まっていった。アルコープに行った時も、陽彩と対面して座るようになったし、昼休みの限られた時間をなるべく一緒に過ごせるよう努めた。
一度心を開いた陽彩は、随分と笑ってくれるようになった。声を出して笑うというわけではなかったが、表情も少しずつ豊かになっていると感じるのは決して勘違いではないだろう。
「昨日は俺と彗くんが入れ違いで来たんだってね」
「はい。会いたがっていましたよ」
「本人からメッセージもらった。就活に苦労してるんだって」
「怜志さんの会社は入れないんですか?」
「俺のコネなんてないよ。部署が違うとそんなに関わりもないから、人事部にも詳しくないし。昨日メッセージでやりとりしてたけど、アドバイスになったのかなぁ」
「きっと話を聞いてくれるだけで嬉しいと思います。僕も、話を聞いてくれると嬉しいですから」
「それって俺に?」
「怜志さんと風間くんしか友達がいないので」
そう言った陽彩は特に気持ちを誤魔化しているでもなかった。俺に気遣って社交辞令を言う術も知らないから、本心なのだろう。ここで『怜志さんだけです』なんて言われれば舞い上がったに違いないが、陽彩の中で自分はまだその境地に達していないと突きつけられてしまった。二人の距離が縮まっていると感じているのは怜志だけなのか……自分から話を投げておいて、バツの悪い表情をしてしまいそうになる。
陽彩は、風間ともよくメッセージや電話でやり取りをするようになったのだと言っていた。
怜志も風間の就活の悩みを聞くこともあり、連絡先を交換した。営業に向いてると思うなんて言えば無責任かもしれないが、あまりに悩んでいるので伝えてあげると、その方向でチャレンジするとやる気が漲ったようだ。周りは続々と就職が決まっていて風間は随分焦っていた。
怜志も自分の大学生時代を思い出してみるも、インターン中にそのまま就職が決まったので、その辺の苦労が分からない。今の会社で働くために頑張ってきたため、むしろ他の会社の情報などは一切追っていなかった。なので風間の悩みに共感してあげられないのは申し訳なく思う。
陽彩は怜志の就活話を興味深そうに聞いていた。
「こんな話、面白い?」
「はい、僕はきっと経験することはないので。みなさんが色々と努力したり苦労しているのは、僕から見ると全て楽しそうです。活き活きしているように見えます。風間くんには言えませんけど」
「そうだね。就職が決まった時に話してあげるといいんじゃないかな」
陽彩は会話の最中、子犬のような潤んだ瞳を逸らさない。それは怜志からも逸せないほどの熱烈ぶりで、他意はないと分かっていても意識してしまう。そんなだから、怜志は時折、神津の調理の進捗を伺う振りをして誤魔化すしかなかった。ここまで相手の反応に困るなど怜志にとっては珍しい。仕事モードでなくとも取り乱したりはしないのに、焦りを悟られまいと平常心を保つのに精一杯だ。
こんなことでは次に二人きりになっても格好がつかないのではないかと不安になってしまう。
初めてドライブに行ってから一か月以上経っているが、実はあれ以来遊びに行けていない。また直ぐにでも誘うつもりでいたのに、仕事が急に忙しくなってしまったのだ。
クローンの心臓の動きが止まってしまってからというもの、先輩である要はほぼ泊まりがけでサポートに当たっていて、怜志は会社と病院を一日何往復もすることもある。プラーベートなら運転も苦じゃないが、仕事での移動は緊張感が別格だ。薬品や栄養剤など、特注で成分が配合されているため、もしも搬送中に不備があれば大変な事態になる。中には数日かけて作られるものあり、責任感による緊張状態が続いている。
それでもアルコープに通うのは、一種の意地もあるだろう。鳴海が話してた会話の内容も相まっているが、それがなくとも怜志が陽彩に会いに通うのは変わらない。結局はどんな理由があっても繋がりを切らしたくないのだ。
鳴海は陽彩にいろんな経験をさせてあげたいと言っていた。子供の頃から入退院の繰り返しで、楽しい思い出がないのを嘆いていた。病院の窓から見える景色だけが、陽彩に四季を教えてきたのだ。体が弱いのだから仕方ないといえばそれまでだけれど、両親もおらず祖母が一人で病弱な陽彩の世話をしてきたのを想像すると、陽彩に祖母からの愛情は充分伝わっているだろう。だから、鳴海が嘆くよりもずっと陽彩は幸せを感じているのではないかと怜志は思う。
もちろん、頼られて嬉しくないわけはない。怜志は陽彩を連れ出すくらい、造作もないことだと大口を叩いた。しかし現状、見事なまでに鳴海の期待に背いている。仕事が第一優先なのは当然の話。しかしどうしても、もどかしい気持ちが拭えなくて焦ったさが募る。
仕事に打ち込んだ時間は決して無駄にはなっていなかった。伊角の研究は失敗に思えたが、この一ヶ月の持ち直しは見事なものだった。一から心臓細胞を作り始めるかと思っていた怜志だったが、伊角はそんな遠回りはしなかった。三週間も過ぎる頃には、心臓は以前よりもしっかりとした動きを見せ始めたのだ。一体、何をどうしたのか。要は満足気に伊角の隣にいるが、怜志の理解の範囲は超えている。この状況について行ける要のようになるには、まだまだ勉強が足りないと痛感した。
それでも医学の進歩を前線で目の当たりにしているのは気色良い。ずっと鳥肌が治らない。寝不足が続いていても脳が覚醒していて、どれだけでも動けそうな気さえする。もっとこの人たちに近付きたいと思わずにはいられない。
興奮を抑えきれずに、気付けば足はアルコープへと向かっていた。
頭を空っぽにしたい時に行くと言っていた伊角を思い出した。今、正にその通りだ。一度脳内をリセットしないと膨大な情報量に頭がパンクしそうになる。今日は窓際のテーブル席に座ってブラックコーヒーを飲むのも良いかもしれない。それではまるっきり伊角の真似になってしまうか。やはり座るのは、陽彩の前しか有り得ない。
彼の顔を見ていると仕事で切羽詰まった脳の過緊張が解れる心地がする。アルコープでいる間だけは、猫背になってもテーブルに肘をついても、だらしなく脚を開いて座っても許される。情けない姿も陽彩になら晒せる。
彼は怜志がどんな状態だろうと反応を変えたりしなかった。励ましもしないし、心配の声もかけない。ただ怜志から話しかけた話題について話をする。それだけだ。怜志にとっては妙に気遣われないやり取りが有り難いとさえ感じる。
この件がひと段落した時は気が抜けて三日や四日や五日くらいは寝込んでしまうだろうと思う。脳は覚醒され続けているが、同時に身体の怠さも存在している。脳の興奮状態だけで立っているようなものだ。しかしそれを他人に心配されたところで「大丈夫」としか返しようがない。大丈夫ではない大丈夫を言うのはしんどい。
それを言わせない陽彩との会話は本当の意味で安らげるのだ。
とは言え、怜志や少し寂しく感じる面もあった。それは陽彩から『また遊びたい』と言われないことだ。そりゃ言われたところで困るのだが。しかし会話の中でも二人で行ったドライブの話題にはならないのをふまえると、もしかしてあの夜は陽彩にとって記憶に残るような印象的な出来事としてインプットされなかったのではないかと、勝手に落胆してしまうのだ。
それとも何度か繰り返し経験することで彼の脳に思い出として刻み込まれる可能性も考えられる。いずれにせよ、怜志との時間を『つい話したくなる』ような思い出にしなければ、陽彩にとって怜志はまた常連客の一人に成り下がってしまう気がする。
それだけは避けたい。そう思っていたのに、時間は無常にも過ぎ去っていく。気付けばそこから更に三か月が過ぎていた。ここまで順調すぎて余計に焦ったさが募る。研究は佳境に入っていると言えるだろう。クローンの心臓は移植できるレベルに達していると言っても過言ではない。あとは伊角がOKさえ出してくれれば、この多忙さから解放される。そうなれば一番に陽彩を誘いたい。悶々とした気持ちを抑えつつ、今日も出社して直ぐにクロノス総合病院へと向かった。要は昨日から泊まり込みなので、朝ごはんをコンビニで買っておいた。
「おぅ、おはよう」要を見ていると、つくづくタフだなと感心してしまう。スポーツの経験もないと言っていたくらいなのに、スポーツ経験のある怜志よりも遥かに元気だ。要曰く、好きなことに対してだけはいくらでも打ち込めるのだそうだ。
それにしても今日はいつにも増してテンションが高い。これはもしかして……内心、期待してしまう怜志だった。
その後、期待は現実になる。待ちに待ったその言葉をついに聞く時が来た。
「よし、ここまで来れば心配いらないだろう」
伊角が眼鏡を外し、目頭を掴む。
夏はすっかり過ぎ去り、病院の窓から見える山はほんのりと紅葉している。
「正直、研究室で年越す覚悟を決めていました」苦笑いを浮かべる鶴見も、流石に目が半分閉じている。
ソファーに身を投げた鶴見が天井を仰ぐ。普段の爽やかな印象からかけ離れた姿だった。怜志も近くの椅子にどっさりと腰を下ろし、脱力した。
「今日は久しぶりにシャバの空気が吸えそうですね」要が伊角に話しかける。
伊角は肩で息を吐きながら、要の肩に手を置いた。
「君たちの尽力には感謝しかないよ」
「いえいえ、この瞬間に立ち会うために俺は仕事をしていますから」
無邪気な子供のように白い歯を見せて笑う。研究員がコーヒーでも飲みましょうと言って研究室から出ていった。
「要くんたちもどうぞ」と誘ってくれたが、要が断ったので怜志も従った。
「ひと段落つけば代休と有休を使っていいと言われているので、早く帰って休みます」
怜志も疲弊しきっている。早くマンションに帰って泥のように寝たい。
伊角たちに見送られ、病院を出た。
「このままマンションまで送りますよ」
「怜志も疲れてるだろ」
「要さんに比べれば大したことないです。電車で寝落ちしないか心配ですし」
「寝る自信はある。じゃあ遠慮なく頼もうかな」
気が抜けて一気に睡魔に襲われているようだ。大きな欠伸をしながら、口数が一気に減った。
仕事モードから解放された要は、途端にふにゃふにゃの軟体動物のようになり、ダラリと助手席に身を委ねた。その直後に寝息が聞こえてくる。ふわふわの髪も数日お風呂に入らなければしっとり落ち着いてしまう。
「お疲れ様です。カッコよかったですよ、要さん」
「ん……」頷いたのかと思いきや、要はぶつぶつと暗号のように成分表を読み上げている。夢の中ではまだ研究室にいるようだ。
要を部屋まで送り届けると、怜志も自宅マンションへと帰った。アルコープに寄りたかったが、店で寝てしまえば迷惑がかかる。さっきまで聞いていた要の寝息があまりにも気持ちよさそうで、怜志も一刻も早くベッドに入りたい。
世間はこれから会社へと向かっている人で溢れている頃だが、カーテンも開けずにリビングのソファーに寝転ぶ。そのままの体勢でシャツを脱ぎ、スラックスのウエストを緩めた。
どっと疲労が押し寄せる。
「疲れた……」呟いたと同時に暗闇に引き込まれるように意識が混濁し、眠りに落ちた。
昼過ぎに身震いをして目を覚ました。寝ぼけてしばらく状況が理解出来ずにいた。
頭の中で、帰って来る前からを思い出そうと思考を巡らせる。
あぁ、そうだ。長期に渡る仕事の山場を乗り越え、帰ってきたのが朝の七時過ぎだった。時計を見ると十三時を回っている。お腹の虫が鳴いているが、それよりも風呂に入りたかった。
重い体を起こして給湯スイッチを押す。
まだ頭は冴えない。このまま横になれば、再び寝落ちしてしまいそうだ。癖でテレビを付けてしまいそうになり、伸ばした腕を止めた。
「いや、止めよ……」呟いて、水を飲みにキッチンへと移動する。今はもう、陽彩の動画のネタなど流れていないとはおもいつつ、万が一も考えられる。今は城ヶ崎に関する話題に触れたくない。
ぼんやりしている間にお風呂が溜まり、入浴剤を入れて浸かる。脚が伸ばせるほど広い浴槽で良かったと、今日ほど思った日はないかもしれない。頭も浴槽の縁に凭れ出来る限り身体をのばした。目を閉じ入浴剤の香りだけに意識を向ける。鼻から抜けるジャスミンの花が、疲れた身体を癒してくれる。鼻から思い切り息を吸い込み、口から長く時間をかけて吐き出した。
陽彩に会いたいと思った。
しかし今日は眠らなければ。無理をして遊びに誘っても愉しませられない。自分の体調を万全にするのが先決だ。
風呂から出ると、冷蔵庫の余り物で適当にご飯を作る。
気まぐれに、手土産を片手に突然こっちのマンションに帰って来る父は、こういう時に限って来ないものだ。ご飯を持って来て欲しいと頼めば来てくれるだろうが、それだけの為に呼び出すのも悪い気がして遠慮してしまう。
残り物だけでは空腹は満たされず、しかしアルコープまで行くのも憚れる。宅配サービスは割高で好きではなかったが、家を出るのも億劫で仕方なく利用した。子供の頃の貧乏症は変な所で現れる。「やだねぇ……」スマホを操作しながら自分自身にボヤいた。
五日間の休みに加え、土日を加え、丸一週間あった内の三日をマンションから出ずにダラダラと過ごした。外に出て身体を動かす方が好きだが、今回ばかりは多忙を極めるどころか限界を何度超えただろうか……四ヶ月のうちに休みは片手で収まるほどしかなかったように思う。そんなだから、流石の怜志も出来るだけ身体を休めることに徹した。
要は今頃、畳の上で寝転がっているだろうか。
空いている部屋を和室にDIYをしようかと本気で考え始めた。
アルコープへ行ったのは、休日四日目の午後だった。宅配サービスの食事にも飽き、日用品の買い出しも兼ねて外へ出たついでに店を訪れた。
しかし、そこに陽彩の姿が見えない。目が合った神津は怜志の意図を察し「折角来て頂いたのですが、今日は陽彩はいないんですよ」と申し訳なさそうに眉を下げる。
「何か用事ですか?」
そういえば連絡先を交換したのを忘れてしまっていた。朝にでも今日、店に行く旨を伝えれば良かったと今更思った。
「葵依さんと病院へ行ってます」
「鳴海さん? 付き添いですか?」
「葵依さんが陽彩の付き添いです」
「陽彩くん、体調が悪いとか?」
「いえ。子供の頃、体が弱かったと話しましたでしょう? 今でも定期的に検診に行っているんです。貴方に会いたがっていましたよ」
「陽彩がそう言ったんですか?」
「口にはしませんが、しきりにドアが開くのを気にしていたので。ふふ……、案外、分かりやすい所があるんです」
「そうですか。俺も会いたかったです。明日はいますか?」
神津は「はい」と頷いた。
続けて「しばらくぶりに会った気がしますが、まだ三日しか空いてないんですね」と言いながら、指を折って数える。
「俺も久しぶりに来たと思ってしまいます。仕事の忙しさからやっと抜けられたから、陽彩くんをまた誘おうと思いまして」
「それは是非、誘ってやってください」
神津は賄いをご馳走してくれた。炙った鯛のお茶漬けは出汁の香りが優しくて、じんわりと心まで温めてくれる感じがした。




