⑥
「話してくれてありがとう」
「え?」
陽彩は意外な反応を見せた怜志を見上げた。運転中で、視線を移せないのがもどかしい。前を向いたまま話を続ける。
「人になかなか言えないでしょ。知り合ったばかりで、しかも店の客。もしもこれで何かあれば……って、不安になったんじゃない?」
怜志の言葉に、こくりと頷く。
「でも、喋ってくれた。それって、少しは俺を信用してくれてるって認識で間違ってないよね」
「怜志さんは……何となく、僕を知ろうとしてくれているように感じたので」
「知りたい。陽彩くんをもっと知りたいと思って今日は誘った。二人きりでゆっくり話したいなって。騒がれてるって言ってたし、気分転換になるって言ったのも本当だよ。でも本音は前者かな」
「なんで……僕なんかを……」
「初めて目が合った時、陽彩くんは何かに怯えていて、俺に助けを求めているように見えたんだ」
「そんなことは……」
「俺の思い込みだから、気にしないで。でも話してくれたってことは、やっぱり誰かに知って欲しかったんじゃない?」
陽彩は黙り込んでしまった。自分の気持ちと向き合っているのだと怜志は思った。
車を走らせながら、街から離れ、工業地帯を目指そうと頭の中で考える。幻想的な光を見せたいと理由もなく思った。
朝とは違い、今度はインストバンドの音楽を流している。自分たち以外の言葉を、今はこの空間に持ち込みたくなかった。このまま、陽彩が喋らなくなったとしても、自分を拒否していないと分かったからそれで良かった。
ピアノソロの伴奏に入った時、「そうかもしれません」と陽彩は言った。
「自分が何者なのか見失いそうになる時があります。本当は誰の目にも写ってないんじゃないかって」
「どうしてそう思うの?」
「僕は子供の頃、体が弱くて学校に殆ど通えませんでした。家でいる時間よりも病室で過ごしていた時間の方が長いくらいです。しょっちゅう高熱に魘され、何度も手術をしました。これも全て祖母から聞いた話による記憶です。手術と高熱を繰り返すあまり、記憶があやふやになってしまったんじゃないかと先生や祖母は話しています。祖母は僕に不安を与えないように病名は話しませんでした。今なら聞けば教えてくれるかもしれませんが、今度は僕がそれを聞くと祖母を悲しませるような気がして聞けないんです」
「記憶があるのは何歳くらいの時から?」
「中学生になった頃からようやく体力がつき始めて、少しずつ学校にも通えるようになりました。でも丸一日は無理です。保健室の常連で、友達もいませんでした。人が多いのが怖くて教室に入るのも怖かったのを覚えています。病院は静かでしたから、教室のざわめきが頭を殴るように襲いかかってきて、頭痛と吐き気に苛まれていました。病院の先生みたいに気遣ってくれる生徒なんていません。空気みたいな存在だったと思います」
きっと虐めにもならないほど、影の薄い生徒だったのだろう。多感な年頃だが、思春期の子供が興味を持つのは目立つ側の人間だ。スポーツができる人、オシャレな髪型の人、不良みたいな、ちょっと悪い空気を纏っている人。透明感のある陽彩のような人が視界に入らないのも頷ける。
陽彩は高校受験が受けられなかったと話してくれた。同年代の中に入って生活するのは精神的に苦痛だった。結局は休みがちになり、家と病院を往復するだけの生活をしばらく送っていたのだそうだ。
「アルコープで働き始めたのは十七歳くらいの時からです。迅郎おじさんは祖母と昔から仲の良かった人で、僕が体が弱いことも知ってくれてて。『ウチなら学生は来ないし、常連客はみんな良い意味で放っておいてくれる。社会に出る練習になるかもしれないよ』って」
「それほど苦しんだのに、大学にはどうして行こうと思ったの?」
「アルコープで働くうちに、対人関係にも免疫ができたし、迅郎おじさんや常連さんの後押しも大きな理由でした。自分でも中学の頃よりは強くなった自信もありました。高卒認定試験を受けて、大学入試に臨みました。勉強は病院の先生が教えてくれました」
「大学ではどんなことを勉強していたの?」
「小説を書きたくて。家でいられるのもありますけど。物語の中に入るのが楽しいので」
「いいね。陽彩くんが書いた物語、読みたいな」
「まだ全然ですよ。風間くんとは学課は違うんですけど、受講している講義が同じで。最初は怖かったんですが、いい人だと思います。静かに過ごしてきたのは中学生の頃と変わりませんが、それが苦痛ではありませんでした。でもまさか、四回生になってこんなことになるなんて、考えてもいませんでしたけどね」
そりゃそうだろう、折角社会に出る一歩を踏み始め、四年間の大学生活を平穏に送る予定だったはずだ。それがたった一度の動画で人生が一変した。
最初、陽彩が休学したと知ったと時は大袈裟だと思ったが撤回する。体が弱い上に、彼にとっては人が沢山集まる場所へ行くだけでも勇気がいるのだ。風間のような元気な人も一人ならまだしも、大勢に囲まれた時の威圧感は耐え難いものだろう。
良くも知らないくせに自分基準で批判的に考えてしまったことを後悔した。
「前、見て。綺麗でしょ」
目の前に見えてきた工業地帯に目を向ける。陽彩は顔を上げた途端「わっ」と声を上げた。
「別世界にいるみたい」
「工場の光って俺、好きなんだよね。日中と全然違う印象を受ける。幻想的で、日常から切り離された気持ちになれるんだ」
工場を囲むように道が続く。陽彩は感嘆のため息を吐き、不思議な世界にトリップしているようだった。
「ドライブって素敵ですね」
「楽しんでくれて嬉しいよ。もうすぐ車を停められる場所があるから、そこで一緒にサンドウィッチを食べようか」
「そうだ、僕ったらすっかり忘れていました。温かいコーヒーも淹れてくれてます」
「いいね。サンドウィッチにピッタリだ」
車を停め、目の前に広がる景色を眺める。無造作に設置されたオレンジ色の光が鉄パイプを照らし出す。イルミネーションとも夜景とも違う幻想的な空間は、心が奪われるほど綺麗だと感じる。
隣にいる陽彩がこの景色を見て同じ気持ちになってくれているのが嬉しかった。
ドライブに連れ行こうと思い立ったはいいが、それ以上は無計画だった。自然の流れに身を任せて、今回は正解だったようだ。おかげで陽彩もリラックスしてくれている。車に乗る時とは全く違う表情をしていた。
食後のコーヒーを飲み終え、また車を出発させる。このまま連れて帰りたい衝動に駆られるが、祖母に連絡を入れるよう促した。
予定していたよりも既に時間は随分過ぎていた。これまでアルコープの閉店後に直帰していたならば、今日は夜遊びしたと言えるほどの時間を過ごしたことになる。神津から連絡しておくと言ってくれていたからある程度は心配いらないだろうが、それでももっと早く送り届けるべきだった。
「遅くなって、心配してるんじゃない?」
「いえ、大丈夫です。迅郎おじさんも前もって連絡してくれてましたし。祖母が、よければ挨拶させて欲しいと返事がきました」
「それは是非とも会いたい。これからも陽彩くんを誘っていいか、確認もしなくちゃ」
「また、ドライブに連れて行ってくれるんですか?」
「だって友達になってくれるんだろう? それなら、ドライブくらい何度でも誘いたいよ。陽彩くんがいいなら、ウチで映画鑑賞会とかも楽しそう。外を歩かなくてもできることは他にもあるかもしれないしね」
「……はい」
にっこりと微笑んでくれたのが、視界の隅に映った。この笑顔を真正面から見たかった。
ドライブに誘ったのは大成功だったものの、やはり陽彩の表情を見ながら話したいと思ってしまう。
(欲深いか)自分に呆れるが本心だった。
車は来た道をひき返す。神津から聞いていた住所へと向かう。アルコープから車で二十分ほどの距離に陽彩の家があるようだ。
道中、陽彩は沢山話してくれたが、両親の話題にはならなかった。それほど、彼の中で存在しているスペースが小さいのだろう。祖母、神津、風間、そして病院の担当医。陽彩の中にいる人物は極限られていて、その人たち以外は完全に“無”なのかもしれない。祖母が両親の話をしていない様子も伺える。引っかかる点がいくつかあった。
陽彩は始終リラックスしていたのは良かった。ゆったりと背凭れに身を委ね、顔は怜志の方を向いている。懐いた子犬のような彼の態度に、怜志の母性本能は絶えずくすぐられていた。
抱きしめて頭を撫で回してやりたい。そうすれば、陽彩は本当に犬のように身を捩らせて喜ぶのではないかと想像してしまう。
「あの家がそうです」
門の前で人影が見える。きっと祖母だ。そろそろ帰ると思い、待っていたのだろう。
車三台が停められる駐車場にバックで停め、陽彩と共に車を降りた。
「こんばんは。遅くなってしまい、申し訳ございませんでした」
頭を下げ、青柳怜志ですと自己紹介をする。陽彩の祖母はふっくらとした頬を満面の笑みで持ち上げ「良いのよ。それより貴方にお礼が言いたくて待っていたの。陽彩を連れ出してくれてありがとう」
祖母は鳴海葵衣ですと丁寧にお辞儀をしながら、良ければ上がってくださいと促した。
時間は二十二時を回っていて怜志は逡巡したが、断るのも失礼な気がして少しだけお邪魔することにした。陽彩と過ごせる時間が増えたのが嬉しかった。
リビングに通された怜志はすっきりとした室内を見渡す。鳴海の綺麗好きな性格が伺える。並べて置かれている観葉植物も、生けた花も、活き活きとしているように感じた。
ナチュラルなカラーで揃えられたインテリアも相待って、とても居心地が良かった。
鳴海はお茶を三人分淹れ、運んでくれる。
「噂は知っているんでしょう? もう何ヶ月になるかしら。騒がれ始めてから、三ヶ月……四ヶ月が過ぎたかしらね」
「そんなに」怜志はそれほどの期間、何も知らなかった自分に驚いた。要は初期から知っていたはずだ。必死に流行りを追わなくても生きていけると決めつけていたが、そこまで時間を無断にしていたとは思いも寄らなかった。
しかしテレビで取り上げられるくらいだから、考えてみればそうなのかもしれない。騒ぎになるにもそれなりの過程が必要だ。
鳴海はため息を吐きながら、また社会に出られなくなることを嘆いた。
「陽彩が健康ならいいのよ。でもね、ストレスで体調を崩してしまうくらいだから、休学は免れなかった。随分寝込んだし、入院も視野に入れてたのよ」
「子供の頃から体が弱かったと伺いました」
「えぇ、そうね。だから、何も楽しみがなくて。でも私も迅郎くんもいい歳でしょ? 流石に友達役には無理があるわ」
上品に笑う。怜志が気分転換にドライブに連れて行くと言い出したのは、神津や鳴海にとっては願ったり叶ったりなのだと言う。
「でも鳴海さんにとって、会ったこともない人と遊ばせるのは心配だったんじゃないですか?」
「いいえ、そこは迅郎くんが許可したっていうのが一番の安心材料だから」
「それは嬉しいです。俺、まだアルコープに通い始めて数日なんですよ」
「そうなの? あなた、余程良い人なのね」
神津からの信頼はそこまで強いのかと怜志は内心驚いたと同時に、良心だけではないことにチクリと胸が痛んだ。
「神津さんとは長いんですか?」
「私も、常連客の一人だったのよ。陽彩が働き始めてからは、敢えて行かないようにしているけれどね。ほら、見ちゃうとどうしてもアレコレ気になるじゃない」
「確かに、俺も身内に働いているところを見られるのは嫌かもしれないです。なんというか、気恥ずかしい感じがして」
「そうそう、私だってその気持ちは分かるわ」
鳴海は陽彩が友達と一緒に帰ってきて喜びを隠せない様子だった。よく喋る鳴海の隣で、陽彩は眠そうに目を擦っている。
「もっと喋っていたいですが、時間も遅いのでお邪魔します。良ければ、今後も誘って良いですか?」
「こちらこそ、お願いしたいわ。ね? 陽彩」
「うん……今日は、凄く楽しかったです」
「俺も楽しかったよ。また、アルコープでね」
鳴海に聞きたいことは山ほどある。けれど、奥歯を噛み締めて我慢した。
少しでも両親の話題を振れば、怜志の方が止まらなくなるのは目に見えて明らかだ。きっと質問責めにして困らせるに決まっている。
リビングの続きに、どうやら和室があるらしい。よくある全面開く横開きの扉がある。そこに、仏壇があるのではないか。両親の写真が祀られているのではないか、気になって仕方なかった。
これ以上居座ると、つい口を滑らせそうな気がして、潔く立ち上がる。
鳴海は怜志を見上げて、風間と良く似た反応を見せた。身長が百八十センチを超えている。初対面の人から話のネタに身長を聞かれるのも珍しくはないので、怜志からも抜かりなくいつも通りの反応で返した。
一日を通して満足感が高かった。
自宅マンションに帰ってからも、浮ついた気持ちが落ち着かず、冷蔵庫にある材料で簡単な料理を作って一人で晩酌をした。
なるべく内容の薄い恋愛映画を流し、ぼんやりと眺める。新しい仕事と、陽彩のことが同時進行で脳が疲れていた。週末は体を動かそうと思ってたが、欲のまま眠るのが良いと考え直す。
ゆったりと風呂に浸かり、ご褒美用のシャンプーとボディソープで洗った。
休みの前日だが早めにベッドに入った。陽彩はもう夢の中にいるだろう。今にも目が閉じそうだった。頭が縦に揺れているのが子供みたいだった。
「ふふ……」思い出して笑ってしまう。本を開いても集中できず、無理やり目を閉じた。
どうせ今は何をしても陽彩のことしか考えられない。ならばいっそ彼を想いながら眠りにつけばいいと開き直ったが、実際は疲れが溜まっていたのもあり殆ど考える余地もなく深い眠りへ落ちていったのだった。




