⑤
クローンの心臓の研究が大幅に進んだと知った研究チームは、早急に培養液の準備に取り掛かった。
「クロノス研究室は週末も関係なく稼働しているだろうから、早めに届けてあげてよ」と言われ、怜志はその日のうちにクロノス総合病院までもう一往復する羽目になった。
定時に上がれる予定だったが特に予定もないし仕方ないと思い直す。再び会社に戻ってきても仕方ないので、自分の車で届け、そのまま退社することにした。
しかしアルコープの前を通りかかった時、陽彩の顔が脳裏を過った。
「いきなり誘ったら、迷惑かな……まだ騒がれてるって彗くんも言ってたし。でも、どこにも遊びに行けないんじゃつまんないよな」
ドライブなら外を歩かなくてもいいし、気分転換にもなる。昼間はもう少し話していたいと思ったタイミングで神津が帰ってきたのもあり、不完全燃焼なのもあった。週末、怜志は休日で、次に会えるのは月曜日以降になる。せっかく縮まりそうな距離がまた開いてしまうのは避けたい。
陽彩を誘うタイミングは今じゃないかと胸騒ぎが治らない。
病院の帰りに喫茶店がまだ営業していれば、これはもう行っちゃえという神様の導きだと判断しようと決めた。
病院の研究室に行くと、伊角が出迎えてくれた。日中に会った時とは正反対に浮かない顔をしている。
「どうかされたんですか? 顔色が悪いように思いますけど」
「クローンの心臓が止まってしまってね。すまない、良い大人がこんなことで」
「こんなことって……大変な事態じゃないですか」
「まだ血流が不完全なんだろう。電気電動の圧も調整中だし、まだまだ問題は山積みだ」
「すでに問題が明確になっているのが流石だと思いますよ。培養液なんですが、ウチの研究チームがペニシリン入りのものと栄養剤だけのものと、二種類準備してくれました」
「助かるよ。お礼を言っておいてくれ。とりあえず今夜は徹夜だ。気になって休めない」
「無理は良くないですよ……と言いたいところですが、ウチの人たちも気合い入っているので。俺も出来るだけ力になりたいです。夜食を差し入れても良いですか?」
「そこまでは悪いよ。適当に食べるから、青柳くんも疲れてるだろう?」
「俺なら平気です。サンドウィッチが美味しい喫茶店があるので是非」
伊角は「じゃあ、ありがたく頂くよ」と表情を和らげてくれた。きっと日中、怜志が帰ってから怒涛の時間を過ごしたはずだ。要が明日行くとメールを送っていたが、返信する余裕もなかったのではないだろうか。
一度、研究室を出て要に連絡すると、残念そうではあったものの、どちらにせよ明日は赴くと言っていた。伊角たちにとっても、相談するなら要の方が頼りになる。要としても本来なら明日は休日。他の仕事を考えなくて良い分、都合がいいだろう。
要との通話を終えると、続けてアルコープに電話をかける。予想通り、神津は二つ返事で了承してくれた。本来、テイクアウトはしていないはずだが、個人で営んでる店だからこそ色々と融通は利かせますよと快く引き受けてくれた。
少しでも伊角たちの力になりたいがゆえの行動であるが、陽彩への下心があるのも否めない。アルコープへ行く自然な理由ができ、陽彩を誘うタイミングも極自然に迎えられる。少しでも陽彩と話をするために、一刻も早く到着せねばならない。
怜志は急いで車を走らせた。気持ちばかりが先走りしてしまうが、こんな時に限って赤信号に捕まってばかりだ。ハンドルを握る指先が落ち着かない。体が前のめりになっているのさえ気付かなかった。
指定の駐車場に停め、息を切らしながらアルコープへと入っていく。
「こんにちは。急に無理言ってすみません」
神津に挨拶をしながらも、店内に陽彩がいるのを目線だけで確認する。神津はまだサンドウィッチを作っている最中だった。
「早かったですね。すみません、もう少しかかります。時間は大丈夫ですか?」
「急かしてしまって、こちからこそすみません。待ってますので、焦らないで大丈夫です」
「ではコーヒーでも飲んでてください。陽彩、ブレンドを淹れてくれるかい?」
陽彩が頷き、コーヒー豆を挽き始める。時間差で豆の香りがふわりと漂ってきた。
怜志は神津の前には座らず、陽彩の前に腰を下ろす。
「コーヒーが落ちるの、見てても良いかな」
「……どうぞ」
口数少ないものの、口振りは穏やかだった。
「お仕事、忙しいんですね」
陽彩から話しかけられ、瞠目としてしまった。昼にどんな話をしていたっけと思い返していて、気が抜けていた。
「あ、今日はたまたま……です」
思わず敬語を出してしまった怜志に、今度は陽彩が目を丸くした。
二人ともが同じ表情で目が合い、同時に笑い出す。
「取引先の人が、急遽残業になったと言っていたからね。差し入れだけ持ってくるって言ったんだ。だから仕事自体はもう終わってる。陽彩くんたちこそ、ずっとここで立っているんだろう?」
「暇な時は本読んだり、常連さんと喋ったりして、のんびりしてますから。あまり仕事って感じはしてないです」
「彗くんとは遊んだりしないの?」
陽彩は頷いて返事をした。
「彼とは大学で知り合ったんです。友達って言ってくれてるけど、僕にはどんな関係なら友達って呼べるのか分かりません」
「今まで友達って呼べる人は少ない方だったとか?」
「いいえ」静かに首を振り、「一人もいません」と言った。
どことなく、これ以上は聞かれたくないと示しているようで、怜志は深掘りして質問するのはやめた。
「じゃあ、俺が陽彩くんと友達になりたいって言えば、なってくれる?」
「僕と……あなたが?」
「青柳怜志。怜志って呼んでよ。俺も勝手に陽彩くんって呼んでるし」
「れいし……さん」
「うん」半ば無理矢理呼ばせた名前は、不意打ちで胸に刺さった。恥ずかしそうに目を伏せ、小さな口から澄んだ声で発した名前に、怜志の方が恥ずかしくなってしまう。恋を覚え始めた子供じゃあるまいし、こんなことで満足している場合ではないと自分を鼓舞する。もっと大切な目的があって来たのだ。
「よければ、この後ドライブでも行かない? 騒がれてから、碌に外に出られてないんでしょ? 差し入れを届けてから迎えにくるよ。その頃には外は暗いし、車だけなら顔もバレない」
「ドライブ……って何ですか」
「車で当てもなく音楽を聴きながら走るんだ。それだけ? って思うかもしれないけど、これが案外、気分転換になる」
自信満々に説明したが、陽彩はピンと来ていない。
そこに神津が助け舟を出してくれた。
「行ってみれば、分かるんじゃないかい? 何でも体験するのが一番手っ取り早いよ」
その言葉で、陽彩は逡巡したものの行ってみる気になったようだ。
「お願いします」
「緊張しなくて良いよ。リラックスするためのドライブだから。じゃあ、また。後で」
「じゃあ、また……」
神津からサンドウィッチを受け取る。頼んでいたより多めに作ってくれていた。
何度もお礼を伝え、直ぐに陽彩を迎えにきますと伝えて再び病院へと急いだ。
足が軽い。高く飛べそうだ。神津のおかげで警戒されずに済んだし、スムーズに話が進んだ。こうなれば一刻も早く戻ってきたくなる。
知らずのうちに鼻歌を歌っていた。エンジンをかけると、丁度その部分から音楽が流れる。
世の中の全てが自分の味方をしているとさえ感じる。ついに怜志は声を出して歌い始めた。クローンについては勿論気になるが、だからと言って研究室にずっといられたんじゃ伊角たちの邪魔にしかならない。伊角たちを最低限サポートすれば、さっさと帰るべきなのだ。
アルコープと病院が近くて良かった。思っていたよりも早く病院まで帰って来られた。
怜志が夜食を届けると、伊角はアルコープの文字を見て声を漏らした。こんなタイミングで見るとは予想外だったと、声に出さなくても伝わってきた。怜志は昨日聞いた城ヶ崎の話を思い出した。彼にそっくりな青年が噂になっていると教えたのは怜志だ。けれど、陽彩が彼と血縁関係があるという事実はなく、伊角が陽彩を知っているはずもない。それにしては地雷を踏んでしまったかのような気まずさを覚えてしまった。
「もしかして、伊角さんたちもこの喫茶店を知ってますか?」
沈黙にならないよう、話を繋ぐ。もしかして名店を知っていると豪語した割に、案外身近な店で落胆させたのかと思った。
「あ、あぁ、まぁね。頭を空っぽにしたいときに。たまに行くんだ」
「やっぱり。病院からも近いですし、そりゃ知ってますよね。俺は最近知ったんですけど、オーナーさんがとても良くしてくださってて。すっかり常連気取りです」
「僕はいつもコーヒーばかりで、サンドウィッチは初めて食べるよ。遠慮なく頂くね」
「是非、鶴見さんと一緒にどうぞ。要が明日来ますので、何なりと使ってくださいとの伝言です」
「彼もなかなかの仕事人間だな。こっちとしては助かるけど」
「要も研究マニアですからね。仕事だと思ってませんよ、きっと」
「それは共感できる」
少し冷静さを取り戻したのか、伊角の顔色は元通りになっていた。怜志も邪魔をしないよう早々に切り上げ、陽彩の許へと急いだ。彼の気が変わらないうちに、出かけたい。
移動が多くて疲れているはずなのに、脳が興奮して冴えている。陽彩に辿り着いたのは完全なる偶然だった。けれど今日は違う。自分でチャンスを掴んだのだ。この勢いに乗りたい。
「焦るな、俺」自分に言い聞かせる。きっと陽彩のようなタイプは、一度心を閉ざせば自分の殻に篭ってしまう。それだけは避けたい。
知りたい情報が山ほどある。全てを一度にぶつけるのは威圧と捉えられてしまう。
少しずつ、時間をかけて慎重に……。
深呼吸をしてからドアを開く。カウンター内では神津はグラスを一つずつナプキンで拭いていて、陽彩は帰る準備を整えてカウンター席に座っていた。
「お疲れ様でした」神津が労いの言葉をかけてくれ、肩の力が抜ける。神津はドライブついでにお願いしたいことがあると言った。
「毎日、陽彩を家まで送り届けているのですが、今夜は青柳さんにお願いしたいと思いましてね」
「俺で良ければ。明日も仕事ですよね。遅くならないように気をつけます」
「ふふ……、何だか我が子を預けるような気分になります。もう子供じゃないから、気にしなくていいですよ」
「あ、そうですよね。神津さんは陽彩くんの身内じゃないのに。でも信頼してもらえてるなら嬉しいです」
「私、人を見る目はあると自負しています。陽彩にサンドウィッチを持たせたので青柳さんも召し上がってください」
「ありがとうございます。頂きます。じゃあ、陽彩くん。行こうか」
「はい」
突然、話を振られて、陽彩は反射的に立ち上がった。カバンを両手で抱え、緊張しているのか体を強張らせている。
怜志は気遣いつつ、陽彩を車まで誘導した。
「直ぐ近くの駐車場に停めたけど、俺の陰に隠れてると良いよ」
並んで立つと、彼の華奢な体は怜志にすっぽりと包まれてしまう。そのくらい体格差があると感じているのは、きっと怜志だけだろう。
「大きい車ですね」
「四年前に仕事頑張るぞって、気合いで決めたんだ」
助手席のドアを開け、車内へと招く。陽彩はまだ緊張していて、口数が極端に少なくなっていた。
「ただ車を走らせるだけだから、気楽に乗ってて。背凭れに背中預けてた方が良いよ」
「すみません。祖母と迅郎おじさんの車しか乗ったことがないので、勝手が分からなくて」
長く息を吐きながら、ゆっくりと凭れる。
「お祖母さんも運転するんだ? 両親は?」
特に詮索するつもりはなかった。会話が続けば……そう気遣ったつもりだった。けれど陽彩はそこで黙ってしまい、狼狽えている。話したくないが答えないと失礼かもしれないと戸惑っている様子だ。
「ごめん、全部の質問に答えなくても良いから」慌ててフォローを入れるが、陽彩が話しあぐねている理由は怜志が思っていたのとは違っていた。
「違うんです。あの……僕は、両親の記憶がなくて……。両親だけでなく、子供の頃の記憶全てありません」
「それって……記憶喪失?」
「はい……僕が知っている過去の記憶は、全て祖母から聞いたことばかりです」
陽彩は俯いたまま小刻みに震えていた。友人は一人もいなかったと言っていた。ただ引っ込み思案で大人しい、窓際で本を読んで過ごしているタイプの子供だったのだろうと勝手に思い込んでいた。しかし陽彩は、そもそも自分がどんな幼少期を過ごしてきたのか、両親がどんな人だったのか、本当に友達がいなかったのか、何もかも、全て知らなかったのだ。
話す声も震えていた。きっと、他人に打ち明けたのも初めてなのかもしれない。




