③
翌朝はいつもより早くに目が覚めた。昨日、初めてクロノス総合病院の研究チームの人たちと挨拶を交わしたとはいえ、自然と気合いが入る。新しい病院、初めて会う先生でも打ち解けるのは得意だと自負しているが、公になっていない研究室に出入りするというのが特別な気がしてならない。とにかく失敗しないようにと自分を励まし、壮大な敷地を建物に沿って北に回る。そこには関係者しか許されない出入り口があり、怜志も昨日初めてこの場所を知った。
病院のようなざわめきは一切ない。患者と付添人が話す声も、テレビの音も、アナウンスも、子供の泣き声も、ここには僅かほどの音も存在していなかった。怜志が歩く足音だけが響き、耳に障る。昨日は要と一緒にいたからか、そこまで気にならなかったのに、一人で歩くと孤独な迷路に迷い込んだ気になってしまう。
長い廊下を進んでいると、たまに途中の研究室のドアが開き、出てきた研究員が会釈をしてくれる。それだけで幾分か肩の力が抜けた。
ようやく怜志が関わっている研究室へと辿り着く。ノックをして、中から声が聞こえたのを確認すると、そっとドアを開けた。薬品の独特な匂いが鼻を掠めるが、決して嫌な気はしない。
「鶴見さん、お疲れ様です。昨日仰っていた培養液を届けに来ました。これで問題なければ直ぐに注文の量を作ります」
「ありがとう。昨日の今日で対応してくれるなんて、流石だね」
「二、三日中に準備が整うようにと、試作品を早急に作ってくれました」
「頼りになるよ。少し見て行くかい? クローンの心臓が動き始めたんだ」
「本当ですか?」
「まだ未熟だけどね。これが移植できるレベルになれば心疾患の研究がぐんと進む」
「期待、できそうですか?」
「今のところは順調だ。そろそろ伊角さんが来るから、紹介するよ。昨日、会えなかったでしょ」
「鶴見さんの上司の?」
訊ねると、そうだと頷く。
「研究員の中でも一目置かれている人だ。見た目は話しかけ難いけど、良い人だから安心して」
「はい。失礼のないよう、心掛けます」
「そんな緊張しなくても大丈夫だから」鶴見が声を出して笑う。
そのタイミングで背後でドアが開いた。
「伊角さん、お疲れ様です。新しい営業の方が見えてますよ」
怜志の肩越しに鶴見が話しかけると「あぁ」とだけ頷いた。
慌てて振り返り、お辞儀をする。
「要と共に担当することになりました。青柳怜志と申します。よろしくお願いします」
「伊角透だ。あまり畏れるのは得意じゃないんだ。楽にしてくれ」
「ありがとうございます」
名刺を渡すと、両手で受け取ってくれた。細く長い指が印象的だった。
スクエアの眼鏡越しに、一重の切れ長の眸と目が合う。一目で怜悧な人だと思わせる、説得力のある顔立ちだ。
「昨日、研究室の見学はしたんだってね?」
「一通り見せてもらいましたが、正直、緊張していてあまり覚えていません」
「ははっ、そうか。どうせ要くんが極秘だとかなんだとか、大袈裟に脅したんだろう」
「極秘ではないんですか?」
「そりゃ、そうだけど。ここは悪いことをしてるわけじゃないから」
「それは勿論です」
鶴見が言っていた通り、見た目よりもずっと話しやすい人で安堵した。要を“君”付けで呼ぶくらいだから、割と砕けた人なのかもしれない。
鶴見が培養液を持ってきてくれたと成分表を手渡し確認を促す。伊角は目を通しながら怜志にも声をかけ、研究中のクローンの心臓を見せてくれた。本物そっくりのそれは人体模型とは全くレベルが違っていて、怜志にはグロテスクに映った。思わず口許を手で覆う。
「まだ使い物にはならない」伊角は言った。「心臓はまだまだ研究が必要だ」と。
「でも、凄い進歩ですね。伊角さんのような才能有る人が、ちゃんと医学の道に進んでいるというのが奇跡だと俺は思ってます」
「そう言ってもらえるのは研究者冥利に尽きるよ。僕だって先輩からこの研究を引き継ぎ、その先輩だって前任者から引き継いできたんだ。僕がこの仕事に就いた時には、血管や多くのクローン臓器の製造に成功していた。恵まれた環境が、ここには既に存在していた」
「そこから更に次の奇跡を生み出し続けている……」
呟いたつもりだったが、伊角や鶴見にも聞こえていたらしい。伊角は遠い過去を振り返り、遠い目をした。
「この研究がこんなにも進んだのは、何十年も前に相当な支援をしてくれた人がいるお陰なんだ」
「そう……なんですね」
「僕の先先代の頃だよ。なんでも学生の頃から互いの無謀な夢を語り合う仲だったんだって。一人はクローンの研究、もう一人は俳優になる夢。どちらも田舎じゃいい笑い者だったようだ。しかし二人共その夢を叶えた。俳優になった人は、自分が病気になった時のために一刻も早く研究を進めろ、なんて言っていたらしく、資産の多くを研究費として寄付してくれていたらしい」
「そんなに凄い俳優だったんですか?」
「あぁ、青柳君も名前くらいは知ってるんじゃない? 城ヶ崎榎生」
「じょう……っ」
ここでその名前を聞くとは思っていなかった。完全に気を抜いていて、顔が強張ったのを隠せなかった。しかし伊角も鶴見も大物俳優の名前に驚いたと捉えたらしい。
「病気で亡くなったのにって、思ったでしょ」伊角が目を伏せた。こんな人たちまで、城ヶ崎の死を悼んでいる。
そりゃ、城ヶ崎ともなれば一般人では考えられない額の支援金を贈れただろう。いいことだ。いいことなのに、やるせなさが募る。
今度は表情に出さずにいられた。個人的な恨みで、この人たちの努力を否定するような真似をしたくない。
伊角は当時の先輩から技術と共に受け継がれてきた城ヶ崎と研究員の話を聞かせてくれた。
城ヶ崎がこの研究室に出入りしていたのは、伊角が入社するよりずっと過去に遡る。今は研究員を引退し、病院を開業した先輩の、そのまた先輩に当たる人が城ヶ崎の幼馴染というわけだ。
「城ヶ崎さんは一秒でも長く芝居をやっていたいから、病気になると困る。だから、幼馴染の……滝川さんって人だったんだけど、滝川さんの再生医療の研究を熱心に応援していた。なのに、城ヶ崎さんはデビュー作がヒットして人気は鰻登り。依頼を一切断らない主義だった彼の仕事は年々多忙を極めていった。滝川さんの研究は紆余曲折ありながらも進んでいた。いくら進行性の病気だったとはいえ、もっと早くに診察していれば城ヶ崎さんも助かった可能性はあったかもしれないが、些細な症状なんかに気遣う余裕なんてなかった。彼は現場で倒れるまで芝居をやめなかったと聞いているよ」
静かに、聞いた話を思い出しながら伊角は語った。
怜志は気になることを聞かずにはいられなかった。もし話せないと言われれば、深追いするつもりはなかった。
「城ヶ崎さんの遺産は、全て交際していたと言われる女性に渡ったのではないんですか?」
伊角は刹那眉根を寄せたが、眼鏡のブリッジを指先で押し上げ「やっぱり噂は今でも有名なんだね」と呟いた。
「いや、俺も詳しくは知らなかったんです。でも最近、話題になってる大学生をご存知ないですか? 城ヶ崎さんにそっくりだっていう。それで、テレビで城ヶ崎さんもよく映されてるんですよ。俺もそれで知ったくらいで」
「そうなんだね。テレビを見る時間がなくて、知らなかった。自分に似てる人はこの世に三人いるというけど、その一人が城ヶ崎さんなんて凄いなぁ。でも残念ながら、僕も直接会ったことはないから詳細は知らないんだ」
「世代が違いますもんね。もう、あの人が亡くなって……三十年? とか、そのくらい経ってるんですよね」
「現役時代だけでも目を瞠る額の支援金を寄付してくれているとは聞いているよ」
そうだ、と思った。何も支援金は遺産だけとは限らない。伊角の話では、起きている時間のおおよそ全てを演技に費やしていた。ワイドショーなどで噂されている夜の街で豪遊するのはドラマや舞台の打ち上げを切り抜かれたものばかりだったようだ。そしてそんな嘘は誰の目にも明らかだった。いつ寝ているのだろうと、むしろ世間の興味はそっちだったと伊角は先輩から話を聞いていたらしい。
「少ない休日には研究室を訪れていたと聞いている。滝川さんと一緒にいる時は昔もに戻れるのか、リラックスした様子だとここでは語り継がれている。滝川さんは城ヶ崎さんの病気を治してあげたかったと言うのが口癖になっていた。あの頃だと限界はあっただろうけどね。でも城ヶ崎さんの死をもって更に研究に打ち込んだ滝川さんの熱意は、今でも生きている」
「貴重な話を、ありがとうございました」
頭を下げる。それ以上はとても訊けない。噂の女性との間に子供はいましたか……なんて、伊角だって又聞きの情報しか知らないのに、知っているとも思えない。それにこれ以上妙に踏み込んで逆に何か訊かれでもすれば怜志だって答えに困ってしまう。
そこからは心臓のクローンについての話に切り替え、城ヶ崎のネタは胸にしまい込んだ。
話込んでしまった分、クロノス総合病院から出たのは予定よりも随分遅れていた。
時計を見れば十四時を過ぎている。
喫茶店の近くの駐車場もガラガラだった。
車を降りて軽く腰を伸ばしてから、アルコープへと向かう。
城ヶ崎の名前を聞いたばかりで、怜志はやはり陽彩にもっと近付きたい気持ちが高まっていた。
静かにドアを開くと、今日もコーヒーの香ばしい匂いに包まれる。
店主の神津は「早速来てくださいましたか」と、怜志を覚えてくれていた。
「しばらく通うことになりそうです。今日は俺一人なんですけど。カウンターに座ってもいいですか?」
「どうぞどうぞ。今日はハムサラダサンド……ですか?」
「そうだな。でも米が食べたい気分だから、ハンバーグのライスセットにします」
「畏まりました」
「あと、食後にコーヒーとワッフルを」
注文を終えると、怜志は椅子の背凭れに背中を委ね、ゆっくりと息を吐いた。
「お忙しいんですね」神津が気遣ってくれる。
「いや、新しい部署に移ったばかりで柄にもなく緊張してて。ここに座ると一気に脱力しました」
「そう言って頂けると嬉しいですよ」
神津は軽く会釈をすると、冷蔵庫からハンバーグの種を取り出し、調理に移る。
チラリと視線を右に移すと、今日も陽彩がコーヒーを淹れている。向かいのテーブル席には昨日とは別の常連客に目配せを送っていた。
常連客は昨日のおじさんと同じように、自らコーヒーを受け取りに立ち上がり動いている。
やはり奇妙だと怜志は感じた。
陽彩は今日もこちらを見ようとはしなかった。自分だけ意識的に無視されているなら文句の言いようもあるってもんだが、陽彩は誰のことも見てはいない。自分の側には神津がいて、わざわざ陽彩に声をかける用事もない。
客にコーヒーを手渡すと陽彩は座ってしまい、カウンターの陰に隠れてしまう。次は怜志の食後まで動かないつもりか。研究室から引き続き、もどかしさに苛まれる。神津への挨拶の流れで、明日は陽彩にも挨拶をして見てはどうかと頭の中で計画を立てた。自分でも必死過ぎて笑える。こんなにも脳内を陽彩に占領されているというのに、肝心の本人には話しかけるタイミングさえ掴めないのだから。
神津とはいくらでも世間話で盛り上がれるのに……。
手際よく仕上がっていく料理をカウンターから眺めていると、デミグラスソースの香りが店内に立ち込めた。食欲が蘇り、思い切り濃厚な匂いを吸い込む。すると店のドアが勢いよく開き、若い男性客が飛び込んできた。
「オーナー、こんにちはっす!! あ、陽彩いた。調子、どう?」
そう広くはない店内に声が響き、全員が彼に注目したが、本人はちっとも気にせず怜志の後ろを大股で通り過ぎカウンター奥へ進む。陽彩が再び立ち上がり彼を目で追っていると、真ん前の席に身を乗り出して座った。チラリと見た顔には見覚えがあった。例の動画を投稿した陽彩の友達だ。二人は本当に仲が良いのかと疑うほど、正反対の印象を受ける。全くと言って良いほど声を発しない陽彩に対し、所構わず大声で喋る友人。
「なかなか来られなくて、ごめん。ずっと心配してたんだ。あ、メロンクリームソーダーで」
言葉とは裏腹に悪びれる様子は伺えない。他の客も堂々と二人を見ていたので、怜志も構わず視線を送った。
「うん……」そよ風よりもささやかな返事が耳を掠めた。今のは陽彩の声だろうか。いや、空耳だったかもしれない。もう一度何か喋ってくれないだろうか。怜志は神津からライスの皿を受け取りながら、耳は陽彩と友人に集中していた。




