②
彼の感情は読み取れなかった。数秒、目が合っていたと感じたが、軽く会釈をするとそっぽを向かれた。
徐に凝視していたと気付き慌てて座り直す。要も見ていたらしく、目配せをして小さく頷き合ったがどちらも声には出さなかった。
キッチンからケッチャプの焼ける香りが届き、自分の空腹を思い出す。
出されたナポリタンには半熟に焼かれた蕩けるオムレツが乗せられている。見た目と匂いだけで唾液の分泌が増した。
「うわっ、美味しい」
隣に座っている要が思わず声を上げ、「早く食べてみろ」と急かしてくる。
「いただきます」と手を合わせてから大きめの一口を頬張ると、ケチャップと卵の裏切らないハーモニーが口中に広がった。これは決して空腹が原因しているわけではない。毎日食べても飽きないかもしれないと思うほどの美味しさだった。
たかがナポリタンでこんなに感動するとは思いもよらない。子供の頃に食べていたなら、間違いなく『好きな食べ物はナポリタン』になっていただろう。何か隠し味で特別な調味料を入れているのかと訊ねてみたが、実にシンプルな味付けしかされてなくて更に驚いた。
要と共に夢中で食べていると、卵サンドが出来上がった。食後にはコーヒーとプリン……。
はっとしたと同時に店員も同じことを考えたらしく、目が合って思わず笑みがこぼれた。
「卵尽くしですね」
「狙ったわけではないけど、そうなってましたね。全部、違う味ですし卵料理は好きなので。でも今度はハムサラダサンドにしようかな」
「また来ていただけるということですね」
「勿論です。丁度、営業先の帰り道ですし。通ってもいいですか?」
「それは嬉しいですねぇ」
初老の店員はここのオーナーだった。カウンターにショップカードが置かれているのを見つけ、一枚もらう。
【喫茶アルコープ】の下に小さく『神津迅郎』と書かれている。それを見た要が「かっこいい名前ですね。迅さんって呼んでもいいですか?」と愛嬌を振り撒く。神津も笑顔のままで「皆さん、そう呼んでくれています」と答えた。
「向こうの彼は?」要が続けて訊く。大胆だなと内心感心していると、神津の方が「おやおや」と目を丸くした。
「最近のお客様はSNSなどであの子を見てから来るので、そうなのかと思っていました。あの子はバイトでね、鳴海陽彩と言います。大学生ですが、騒がれすぎて疲弊してしまって。とりあえず半年休学しました」
その頃には落ち着いているといいのですが……と続けた。
「バズるってやつですか?」
「えぇ、最近はそんな言い方をするそうですね。芸能人に似ているからと騒がれてまして。本人の意図せぬ所で火種が大きく燃えてしまって、困惑してますよ」
「かっこいいから、余計に騒がれそうですね」
「見た目がかっこいいだけなら、他にも沢山いるでしょうにねぇ」
神津がため息まじりに肩を落とす。
怜志は要と神津の会話を黙って聞いていたが、やはり城ヶ崎との関連は期待できなそうだ。
(やっぱりな)と思いながらも、どこか残念な気持ちが拭えない。
食後のコーヒーまでをしっかり堪能し、店を出る。
要がうんと伸びをして「さぁ、帰って午後からの仕事に取り掛かるか」と、気合いを入れながらも満腹で眠そうだ。
「運転、代わりますよ」
「助かる。昨日も遅くまで仕事しててさ。移動中だけ寝る」
「そうしてください」
車を発進させる。少しの間黙っていた怜志と要であったが、「身内じゃなかったな」ポツリと要が呟いた。
怜志も同じことを考えていたので頷く。
「本当に似ていましたけどね」
「うん、似てた。でも知らないふりしたのは正解だったな。陽彩くんだっけ……顔色、悪かったな」
「大人しそうな子でしたし、いきなり騒がれれば狼狽しても仕方ないですよね。元々、体が弱そうな感じがしましたし……どことなく、放っておけないオーラを感じました」
「それ分かる。職業病って言われるとそれまでだけど」
二人とも頭の中では、彼に合う薬や医師を思い描いていたに違いなかった。病院の帰りだから余計にだ。
「でも、アルコープがご飯もコーヒーも美味しかったのはラッキーでしたね」
「しばらくあそこのナポリタンだけで過ごしたい」
「要さん、一度ハマるとそればっかになるの、良くないですよ」
「じゃあ次はオムライスにする」
大差ないと笑い合う。
要は本物を見られたのと、真相が判明し、今日だけで鳴海陽彩については満足したようだった。しかし、怜志はまだ心に引っかかっている蟠りを拭えないでいた。むしろ、本物を見てしまったからこそ余計に目に焼き付いて離れなくなってしまった。
彼の憂いた瞳が忘れられない。今すぐにでも戻って、真正面から彼だけを眺めていたいとさえ思ってしまう。それで何か重要な手掛かりを掴めるわけでもないのに……。
考え事をしているうちに、隣から静かな寝息が聞こえてきた。要が眠ったようだ。音楽の音量を下げ、スピードを緩めた。
(声、聞いてみたかったな)
友達の撮った動画に映るくらいだから、気の知れた仲なら喋らないことはないだろうが、人見知りの性格ではあるとは容易く察しがついた。
彼が笑っている顔は想像できない。覇気のない表情の乏しさ、長年、寝不足に悩まされてきたような顔色。思い返してみれば、あの時、存在に気付かなかったのは陽彩が座っていたからだ。コーヒーが落ちるのを待っている間でさえ、彼は座っていた……世界から隠れるように。
「また考え込んでしまった」
今朝からずっと陽彩のことばかり考えている。自分の中で、まだ城ヶ崎との関連性を諦められないのが原因か。それとも陽彩への個人的な興味がそうさせるのか。
怜志に対して不信感は抱いていない様子であったし、興味本位で近付いたともバレていない。慎重に、怪しまれないように、気を使うつもりは毛頭ない。時間や距離も置こうとは思わなかった。むしろ明日も、明後日も、陽彩に認知されるまで通い詰めたい。
(声が聞きたいだけだ。静かに佇んでいる彼から発せられる声はどんなだろうか、どんな言葉を使うのだろうか。それが聞ければきっと満足する。……俺もミーハーだったってことか)
そういうことにしてでも、明らかに荒ぶっている感情をなんとかして心の奥に押し込みたかった。
そりゃ本音を言えば、陽彩が城ヶ崎の身内であって欲しかった。もうこの世にはいない人をどんなに恨もうとも、復讐のしようもない。しかし城ヶ崎の本命の女性との間に実は子供がいたと仮説を立て、その子供が成長して結婚し、また子供が産まれていたとしたら……。その可能性は充分あり得るのだ。
困った時に守ってくれる人がいて、匿ってくれる場所がある。チヤホヤされて育ってきたのだろう。だからこんな騒ぎくらいで休学までしたのだ。
ネガティブに考え始めると止まらなくなってしまう。怜志には助けてくれる大人なんていなかった。実の母親でさえ、最終的には男を作って怜志を捨てた。高校に上がってすぐの頃だった。一か八か、会ったこともない父親を頼ったことで怜志の人生は救われた。もしもあの時、行動を起こしていなければ……。歩むはずだったもう一つの道は考えたくもない。
完全に陽彩に嫉妬していると自覚している。恵まれた環境も、他の人なら羨ましいとも妬ましいとも思わない。けれど、陽彩に対しては違う。完全に城ヶ崎とは無縁だと証明できるまでは、その可能性を疑っていたいのは最早願望とも言える。
もっと近付きたい。仲良くなって、信用させて、誰よりも陽彩の近くにいたい。そして……自分に百パーセントの信頼を持った瞬間。奈落の底に突き落としてやりたい。自分だけはそれをしても許されると思ってしまう。もしも本当に、陽彩が城ヶ崎と血縁関係にあるのなら……。
車で四十分とかからない距離を、たっぷり五十分かけて移動した。おかげで要はしっかりと仮眠が取れたらしく、目がスッキリとしている。
時計を見て午後二時を過ぎているのを確認し、研究チームとの会議へと急いだ。
簡単に言えば、怜志や要は会社の再生医療プロジェクトの研究チームと、病院の研究室との橋渡しを担っている。今日、病院の研究室との間で話し合った内容を、会社の研究チームに伝達し、それを元に作られた薬を届ける。
取引先で最も大きな研究室が、クロノス総合病院なのだ。
「培養液をこれまでの倍の量卸して欲しいとの要望がありました」
「何か大きな研究が進んでるとか?」
「難色を示していたクローン臓器の製造に動きがあったとかで。研究の規模を拡大するそうです」
「なるほど。特別必要な成分があればメモしてくれ」
「はい……今、データを送っておきました。納期は早いほど良いとのことですが、いかがですか?」
「培養液くらいなら別段難しいことはない。二、三日待ってくれれば」
「了解です。連絡しておきます」
その場で病院の研究室にメッセージを送る。
クロノス総合病院の研究室では、患者の細胞からクローン臓器を作り出し、病気の変化を観察していく。その中でどんな治療法が有効か、薬の調合をどうするのかを研究している。
実際、クローン臓器をそのまま移植することも決して不可能ではないところまで研究は進んでいる。自身の細胞から作った臓器なら不適合のリスクも激減されるだろう。しかし細胞の研究がどんなに進んでも倫理的な問題が覆されることはなく、『人間ではなくなる』という観点からクローン臓器の移植は未だ認められていない。
なるべく多くの情報を引き出し、治療方針を進めるのが目的の研究だ。
研究チームとの会議もスムーズに進み、定時で仕事を終えた。要は残業よりも怜志との時間を優先してくれた。
怜志の車を一旦マンションに置き、電車で移動する。待ち合わせをしていた店は、要がたまに利用する個室のある居酒屋だった。
「ここがやっぱ安心なんだよな。会話を聞かれる心配がないから」
「ですね。久しぶりに来ましたけど、落ち着きます」
和風モダンな店内に、要が気に入っている個室は畳が敷き詰められていて胡座もかけるし、酔っ払うと寝転べる。昔は畳が主流だったそうだが今では珍しく、しかし日本人の血が覚えているのか、最近また癒しを求めて畳の人気は上昇傾向にあった。
「俺、とうとう寝室に畳敷いたよ。休日の一番の楽しみは頬に痕が残るくらい畳の上で寝ることになった」
要が感嘆のため息を吐きながら早くも寝室に思いを馳せている。
「そうなんですか? 今度お邪魔させてくださいよ」
「ダメー。怜志のマンション、部屋余ってるんだろ? 一部屋、和室にすればいいじゃん。俺の和室は、俺だけのものなんだ」
神聖な場所のように言うじゃないかと怜志は揶揄したが、要がそうしたと言えば妙に怜志の中で価値が上がる。二人暮らしだった父が生活の拠点を別の場所に変え、怜志だけそのままマンションを借りているが、基本、どの部屋も物が少なく殺風景だ。一部屋くらい癒しの場にするのも悪くないと考える。
「良いっすね。検討してみます」何か趣味が欲しいと思っていたのもあり、怜志は真剣に思案することにした。
久しぶりの飲みの場で、気兼ねせずにいられる要とだからこそ、身構えずにいられる。
要のいる部署に入るのを漠然と目標にしていたが、これまでの営業とは内容が異なっている。それは所属した者にしか教えられない。社員の中には再生医療プロジェクトチームの存在すら知らない者も多くいる。実際、怜志も要が抜擢された際、こっそりと教えてもらわなければ未だに部署の存在を知らなかっただろう。怜志をプロジェクトチームに引っ張ってくれたのは要である。
「会社の中でもプロジェクトチームって知られてなくて、ただただ要さんが凄いって印象しかなかったんですけど、細胞やクローンの研究が主だったんですね」
「そうそう。研究を公にしてる機関もあるけど、クロノス総合病院みたいに秘密裏に行ってる研究室もあるからな。情報漏洩を防ぐために、うちの会社でも人員はかなり精査されてるんだ」
「クロノスほどの機関なら、堂々と研究した方が支援金も集まりそうなのに」
「それがさ、俺らも関わってない研究が他にもあるんだって。噂だけど」
「要さんが聞いてくる噂なんて、信憑性しかないじゃないですか」
ミーハーな性格ではあるが、気になる話題があれば納得いくまで突き詰める人だ。もしも意図のない噂だけなら、怜志に話すはずはない。
要も唸りながら日本酒を煽る。
「何か、心当たりでもあるんですか?」
「それが何も思い当たらないから余計に怪しいなって思ってるってこと」
注文した料理が次々と運ばれてくる。
昼が洋食だったから今は和食が気分だ。新鮮な刺身や焼き魚、野菜や豆腐料理もこの店の人気メニューである。
要は怜志よりも小柄な体型であるにも拘らず、同じくらいの量を平らげる。「その細い体のどこにそんなにいっぱい入るんですか?」以前、思わず訊いてしまった時「セクハラだ」と冷ややかな視線を浴びせられた。勿論、冗談だが。
他愛無い会話と仕事の話が交互に繰り広げられる。途中、要に研究チームから培養液の準備が整ったと連絡が入り、怜志が明日届けることになった。
「帰りにまたアルコープにご飯を食べに行きます」
「怜志、喫茶店に行くのをメインにしてるだろ」
「違います。仕事の合間の楽しみも必要だって教えてくれたのは要さんでしょう」
「そうだけど。いいな、俺も一緒に行こうかな」
「明日は一日、書類作成って言ってたじゃないですか。培養液を届けるくらい、一人で行けます。初めておつかいに出る子供じゃないんですからね」
要は渋い表情で「はいはい、一人寂しく仕事しますよ」口を尖らせて拗ねて見せた。
大学を休学しているなら、定休日でもない限り店に立っているだろう。
次はもっと近くに座ってみてはどうかと考える。
コーヒーを頼めるくらいの距離の席が良い。
怜志の頭の中は、再び陽彩で埋め尽くされた。




