第16話 試合のない日
県予選は順調に勝ち進み、準決勝まで一週間空くことになった。
久しぶりに試合のない土曜日。
それでも日紬高校バスケットボール部は、朝から体育館で練習をしていた。
「試合がないからこそ、気を抜くな!」
女子顧問の声が響く。
「はい!」
葵たち三年生が先頭に立って返事をする。
男子コートでも、一ノ瀬の声が飛んでいた。
「朝陽! ディフェンスの足が止まってる!」
「はい!」
試合を見てからというもの、朝陽の練習への取り組みはさらに変わっていた。
葵のように、最後まで走れる選手になりたい。
その思いだけで、足が前へ出る。
◇
午前練習が終わり、昼休憩。
部員たちは思い思いに昼食を広げていた。
「朝陽、コンビニ行くけど一緒に行く?」
結翔が声を掛ける。
「ごめん。飲み物だけ買ってくる」
「了解」
朝陽は体育館横の自動販売機へ向かった。
スポーツドリンクのボタンを押したその時。
「また同じだね」
聞き慣れた声だった。
「硯先輩!」
振り返ると、葵も同じスポーツドリンクを手にして笑っている。
「本当に好きなんだね」
「先輩もですよね」
「うん」
二人で笑った。
もう、このやり取りも自然になっていた。
◇
「少し歩く?」
葵が校庭の方を見る。
「はい」
体育館の裏には、小さな遊歩道がある。
木陰が多く、昼休みには生徒たちがよく歩いている場所だった。
二人はゆっくり並んで歩く。
「準決勝、楽しみです」
朝陽が言う。
「楽しみ?」
葵が少し驚いたように笑う。
「普通は緊張するって言われるのに」
「緊張もします。でも……」
「でも?」
「先輩の試合を見るのが、本当に楽しみなんです」
その言葉に、葵は少し黙った。
「そんなふうに言われたの、初めてかも」
「本当ですか?」
「うん」
少し照れながら笑う。
「ありがとう」
その笑顔を見ているだけで、朝陽は幸せだった。
◇
歩いていると、小さなベンチが見えてきた。
葵が腰を下ろす。
「少し休もう」
「はい」
二人で座る。
風が葉を揺らす音だけが聞こえる。
「朝陽くん」
「はい」
「高校生活、楽しい?」
「すごく楽しいです」
迷いなく答える。
「バスケも、友達も……」
そして。
朝陽は心の中だけで続ける。
――先輩に出会えたから。
「それならよかった」
葵は本当にうれしそうだった。
「私はね」
少し遠くを見る。
「引退まで、あと少しなんだって考えると寂しくなる」
初めて聞く弱音だった。
いつも笑顔で、誰よりも前向きな葵。
そんな先輩にも、不安はあるんだ。
「……先輩」
「ん?」
「最後まで、俺も応援します」
「うん」
「最後の最後まで」
葵は何も言わなかった。
代わりに、小さく「ありがとう」とつぶやいた。
◇
午後の練習。
男女合同でランニングメニューを終えた後だった。
ボールを片付けている朝陽を見つけ、葵が近づいてくる。
「これ」
小さなスポーツタオルを差し出した。
「え?」
「さっき汗を拭いてたタオル、びしょびしょだったでしょ」
「でも」
「新品だから」
朝陽は戸惑う。
「もらえません」
「貸すだけ」
葵は笑った。
「洗って返してくれればいいから」
「……ありがとうございます」
タオルを受け取る。
柔軟剤の、ほのかな香りがした。
朝陽は胸がいっぱいになる。
その様子を少し離れたところから見ていた結翔が、小さく口笛を吹いた。
「距離、近くなってるなぁ」
その言葉は、誰にも聞こえなかった。
⸻
【葵 side】
どうしてタオルを貸したんだろう。
部室で着替えながら、私は一人で考えていた。
他の一年生には、そんなことしたことがない。
でも朝陽くんが困っているのを見たら、自然と体が動いていた。
「洗って返します」
そう言って大事そうに受け取ってくれた姿が思い浮かぶ。
思わず笑みがこぼれた。
最近、朝陽くんの笑顔を見ると安心する。
その笑顔をもっと見たいと思う。
……もしかしたら。
私の中で何かが、少しずつ変わり始めているのかもしれなかった。




