#1 白い部屋と透明な少女
「つまりあなたは、自分が目覚める前の記憶がない…ということになりますが、それで宜しいですか」
天井をぼんやりと見つめたまま、その言葉を聞いていた。
「あっ──はい」
「なるほど。」
「ごめんなさい、上の空になってしまって」
「仕方ないことです。まだ起きたばかりでしょう」
目覚めた時にはこの人がいた。
中性的で背の高く、研究者か医者のような服を着ている。
いくつか質問をさせてくださいと頼まれ、今は分かる範囲で自分の置かれた状況を説明していたところだ。
「逆に何か、覚えていることは?」
「えっと…名前がロクサーヌ・ルルーシュ、歳は15で」
「…15?」
先ほどまでスラスラと書類を書き進めていた手が、急に止まった。反射的にその人の表情を伺う。
自分の事の筈なのに怪訝な顔を向けられ、何が何だか分からなくなってしまった。
「え、違うんですか」
「…違いますね。名前は合っているんですが」
「ええ…」
自分の歳も把握できていないとは。一体私はどうしてしまったのだろう。
* * * * * *
ロクサーヌ・ルルーシュ。
私は今自分の名前と、病室のような部屋の中にいるということだけを知っている。
それ以外は何もわからない。
だけれど。
ここにいることに困惑しているということは、普通に、健康に暮らしてきたんだと、思う。
他に何か答えられることは。
少しでも思い出せることってないかな。
――そう思って何とか頭を回してもそこには空白しかなかった。
* * * * * *
「他には…そうですね」
そう言いながら書類にチェックを入れたり、文章を書き込んだりしている。
そういえばこの人の名前を知らない。
「あの、名前はなんというんですか」
「僕ですか。僕はナナです。」
ナナ。ずいぶんかわいらしい名前だ。
そんな感想をよそに問答は続く。
「次は能力についてですが」
「能力…?」
能力。
聞き返してから、自分でも首を傾げた。
いかにも現実的とは思えない言葉だ。
「……その反応であれば…『能力』そのものを知らないと見て良いでしょうね。」
──どう考えても前提がおかしい。
夢でも見ているのだろうか。
「その聞き方だと、それって知っていて当然のことなんですか?」
「そうですね。」
「此処にいる人は皆、知っておかなければならないことです。」
「今はともかくとして…あなたにもいずれ必ず教えることになるでしょう。今はただ知るべきことなのだということだけ覚えていてくれればよいのです。」
* * * * * *
「それから身体に違和感や、痛みなどはありませんか。」
すっかりまだ夢の中にいるような気持ちでいたからか、まだ自分の体のような感じがしなかった。
試しに手足を動かすと、関節にほんのり痛みが走る。
「少し動かしづらいです、まだ起きたばかりだからだと思うんですけど」
「であれば少しずつで良いので、体を動かしてください。簡単で効果的な運動を知りたいようでしたら教えます」
運動を教える…体育の指導もできるのか。
そんな風には見えないけど。
「ああそれから――これは個人的に聞いておきたいものなのですが」
「あなたはどれぐらい眠っていたと思いますか」
正直に答えてくださいね、と念を押される。
「……。」
時間。
私は、いつから眠っていたのだろう。
「えっと…」
「どうかしましたか」
「…いや、その…分からなくて」
「そうですか」
「あの、ごめんなさい!」
咄嗟に、まるで条件反射のように謝った。
「何も謝ることではありません。」
「えっ?」
「僕はあなたに謝ってほしいとは思っていません。それに曖昧な答えよりも正直にそう言ってくださった方が、よりあなたのことを正確に記録できますから。」
「『分からない』という答えも、立派な回答の一つです。」
何枚かプリントが挟まったクリップボードを触りながら、その人は淡々と答えた。
フォローしてくれたのだろうか。
「えっと…ありがとうございます」
優しくしてもらえてなんだかほっとした。
ほとんど表情が動かなくて、冷徹なイメージだったから。
「どういたしまして。今日の質問はここまでです」
「えっ、もう良いんですか?」
まだまだ続くものだと思っていた。
「はい」
「私はまだ答えられますよ」
「とはいえ負荷をかけすぎるのは良くないですから。」
「負荷ってそんな…」
そこまでいうほどの疲労感はないのだが──ここは言われた通りにしておいた方が良いだろう。
* * * * * *
「また来ます。その時はもう少し詳しい話もしましょう。あなたから僕に何か質問は」
質問といえば、そうだ。
「一つだけあって…散歩はしてもいいですか?」
今日から明日まで何もすることがないのは少し困る。
「良いでしょう。この階から出なければ大丈夫です。」
「わかりました」
ナナ…さん、がドアを開け、私は深く礼をする。
「今日はありがとうございましたっ」
そうしてドアが閉まり、私は再びベッドに横になり周りを見渡した。
床、壁、天井。それから棚も、机に椅子まで、全てが真っ白だ。
空気はほんのり冷たくて、部屋の静けさがより際立つ。
これほど静かだと、自分の呼吸が大きく聞こえる。特に荒くはなっていない、正常だ。
「はぁ…」
ため息をつく。
目も冴えてきて、今更眠れる気もしない。
体を動かすようにと言われたし──立ち上がって、少し部屋の中を歩いてみることにした。




