肉ピストン、鬼ジェット。
さて、ビッグ3というのはかくのごとく、非常にシンプルながらも癖のある種目だということがお分かり頂けたであろう。
いやいや待った。これでビッグ3について理解したつもりになるのはいささか早計である。まだある。残されたる最後の種目は、デッドリフト。
デッドリフト?
何ぞそれ?
そう首を傾げたなろう読者もいるはずだ。そう、ベンチプレスやスクワットという圧倒的にメジャーな種目にくらべ、デッドリフトというのは若干知名度に乏しい。ビッグ3としてかのトレーニングと肩を並べるにはあまりに地味極まりない。
「しかしながら最後の種目デッドリフトは、ビッグ3……いや、あらゆるトレーニングを差し置いて、もっとも最強のトレーニングと言っても過言ではない」
ここで、デッドリフトという種目について多少の説明を交えておこう。
デッドリフトがメインターゲットとする筋肉は、背面全般。と言うと随分まどろっこしい感じはするが、実際広範に効果のわたる全身運動であり、多くの関節が動員する高強度なコンパウンドトレーニングである。
スタートポジションは、床に置かれたバーベルを前屈姿勢で握った状態になる。足は軽く曲げてもよろしい。そのまま上体を起こし、床のバーベルを腰の位置まで引き上げる。なんてことはない、側から見ればシンプルなトレーニングだ。
しかしこの単純な動きの中に、数多の筋肉が動員される。上体を起こす力の要となる大臀筋、ハムストリング。ウェイトを引き上げる広背筋。そして、脊柱を一直線に保つための脊柱起立筋群などが主働筋として働く。その他、姿勢制御やウェイトの安定に関わるさまざまな補助筋が動員されるのだ。
そのため実際のところとして、デッドリフトにおいて使われる筋肉は『背面の筋肉全部』と一括りにしてよろしい。
「身体の背面を鍛えるということ……それはすなわち『パワー』を得る行為そのもの、とさえ言える」
そう言うと津田沼はおもむろにタンクトップを脱ぎ捨て、バッキバキにキレた肉体を露わにした。下も脱ごうとしたみたいだけど、俺と秋葉原があからさまに嫌そうな顔をしたため渋々ながらも諦めた。
「例えば、走るという動作。地面を蹴り出し、自身の体重を地面と反発させるという行為。この際において、どこの筋肉が最も運動エネルギーを生み出すと思う?」
「どこってそりゃ……脚だろ」
「脚なのはもちろんのことだが、具体的にどこの筋肉だと思う?」
「うーん」
俺は少し考えたのち——常識を働かせた結果、人体で最も大きな筋肉と言われる大腿四頭筋を指差した。
津田沼はゆっくりと首を振り、背を向けた。そしてジャージ越しでもハッキリとわかる、大きく肥大した大臀筋——の下の、巨大なもも裏をバシバシと叩く。
「ハムストリングだ」
ハムストリングとはふとももの裏に位置する大腿二頭筋、半膜様筋、半腱様筋の総称である(複数形をとって、ハムストリングスと呼ばれることも多い)。
もも裏ということもあり普段なかなか目にすることもないと思うが、前屈した時に痛くなるあそこと言えば分かりやすいだろう。膝を曲げる際に働く筋肉というイメージが強いものの、実はこのハムストリング、大腿骨から股関節を跨いで骨盤にも繋がっている筋肉なのだ。前屈した時に痛くなるのはそのせい。
「ダッシュ、ジャンプ、パンチ、投擲……あらゆる実践的な動きにおいてこそ、ハムストリングは真価を発揮する。その鍵を握るのは、股関節の伸展動作だ」
「股関節の伸展? スポーツで大事なのは、膝関節の伸展じゃあないのか」
「ああ。膝関節の伸展——すなわち大腿四頭筋が重要になるのは、それこそスクワットのように大きな屈伸動作を行うときだ。しかしスポーツにおいてそのような動きをすることはあまりないだろう?」
「まあ、確かにな」
「反面、脚を後方に蹴り出すという動作は実に様々な局面において使われる。ダッシュをする時は無論のこと、パンチや投擲、バッティングなどにおいても地面を蹴る動作が上半身へパワーを伝えるんだ。そして、その動作に不可欠な筋肉こそがハムストリングというわけなんだな」
「まあ大臀筋についても同様の働きをするんだけれども、スポーツなどの動きではハムストリングこそ重要になることが多いんだ。所謂『腰を入れる』ってやつなんかは特にね。無論大腿四頭筋だって大きな働きをするわけだが、ピストンのごとく運動エネルギーを生み出すハムストリングや大臀筋のほうが、殊更重要になってくるんだよ」
「ほーん」
なるほど確かに、腰の入ったパンチだとか、腰の入ったバッティングだとか言うのはスポーツの現場においてよく指導される事項だ。
股関節の伸展動作により生み出される骨盤の回転。
よくわからないという皆さんには是非試していただきたいのだが、足を肩幅に開いて立って、右足を着いたまま後方に蹴り出してみると、上半身が回転して右肩が前に押し出されるのが分かるはずである。
これは骨盤が回転したことで生み出されたエネルギーが脊柱を通って右肩に伝えられているということであり、すなわちハムストリングの生み出したパワーが上半身にまで及んでいるということ。これこそが俗に言う『腰を入れる』ということなのだ。
そして、上半身の生み出すパワーと下半身の生み出すパワーどちらが強いか? となれば言わずもがな。
椅子に座ったままでは重いパンチなど繰り出せまい。また、ソフトボールを遠投することだってままならぬであろう。
下半身こそが力の源。そして、その動力源たる肉ピストンとは、他でもないハムストリングである。
「それこそが、デッドリフト最強説の所以たるところだ。そしてこのデッドリフト、何よりも——」
津田沼は得意げにニヤリと笑った。白い歯をキラリと光らせて。
「俺が最も得意とする種目でもある」
「な……」
何ともはや、ここに来ての得意種目です発言とは。
あれだけデッドリフト最強説をごり押していたところにこれである。ともすれば、コイツはなっから自慢したいがためにハムストリングガーとか講釈を垂れてやがったな?
自慢ありきの前振りだったな?
「ああ、また出たね。津田沼の背筋力自慢」
秋葉原の反応から察するに、いつものことらしい。
とはいえである。ベンチプレス300キロを超えるモンスターである津田沼が、自ら得意だと自負するという事。その意味。お分かりであろうか?
それはすなわち、想像を絶すると言う事である。
……いや申し訳ない。正直語彙力が足りなかった。しかしながら底辺高校生が頑張ってひり出す稚拙な表現などでは、到底表すことなどできまい。おそらくはそんな、想像を遥かに絶する領域に津田沼は立っているのだ。
「さて、今日は上半身の日と決めていたんだがな——しかし予定なんざ、変えてみるものだ。せっかく新入部員がいるのに説明ばかりしていてもつまらない。だろ?」
「全く、今日は倒れるんじゃないぜ。見物させられるこっちの身にもなってくれっていうんだ」
「え、おいおい、そんなにヤバイの?」
「こいつ一回、いきみすぎて失神したことがあってさ。大事には至らなかったけど」
秋葉原は相も変わらずさらりと言った。いやいや、相当ヤバイやつですやん。
さて、当の津田沼はやる気マンマンであった。腰にはトレーニングベルトをきつく巻き、手には滑り止めのグローブを装着。バーベルにはすでにプレートがセットされ、準備万端、いつでもOKな状態である。
バーベルにはめ込まれたプレートはほぼ限界ギリギリ。重量物の過積載。空間を歪める質量というより、物理的に床が歪むくらいの重量である。実に————
「450キログラム。それが、俺が挙げられるデッドリフトのMAXだ」
450キロ。
米俵にして、約15個分。2リットルペットボトル約225本分。田中はん約——えーい、もうわからん!
暗算なんてクソ食らえや! 死ね!
そう、単純にベンチプレスの1.5倍ということである。その差はまさに150キロ。
同じビッグ3でそれだけの開きがあるというのは、まさしく上半身と下半身、前面と背面のパワーの差を思い知らされるというか、少なくとも自慢するだけのことはあるといったところか。先程熱弁を受けたデッドリフト最強説を裏付けるだけの圧倒的証拠は、それを語る本人そのものだったという落とし所なわけだ。
「さあ————ブチ挙げるぜ」
津田沼がバーベルを握る。
たったそれだけの行為で、部室に満ちていた軽い空気が彼方に吹っ飛んだ。一瞬にして緊張が張り詰め、俺と秋葉原の注意は一点に釘付けとなる。
息を吸い込み。
シュッ、と吐き出した。
「ッッッッッッッッーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
ぐにゃり、とバーベルがたわむ。
万有引力への宣戦布告。万物の法則たる重力に反旗を翻したハムストリングは、今やジャージを引き裂かんばかりに収縮、膨張している。
それはまさに、星と筋肉の力比べ。
重力という見えざる手が、バーベルの両端を固く地面に繋ぎ止めていた。強大な力と力の綱引きは例によって空間を歪ませ、ゆらゆらと、蜃気楼のように部室全体を溶かしてゆく。
津田沼の背後から見守りつつも、おそらくその表情が苦痛に塗りつぶされているであろう事は想像に難くなかった。
神に喧嘩を売るかの如く、こんな勝負、はなから勝ち目などあるはずもない。こんな重量、人の子が挙げられる道理など無いはずである。
しかし。
バーベルが、
————浮かんだ。
「オオオオオオオオアアアアアアアアアアアアアッッッッッッッッッッッッ‼︎‼︎‼︎‼︎‼︎」
部室をつんざく、津田沼の咆哮。
絶対とさえ思われた質量の壁。重量の手を振り切って、鋼鉄の塊が浮かび上がった。
……しかしながらも俺は、偉業とさえ呼べるその瞬間に対し目もくれていなかった。
まさか、これ程までに圧倒的なパフォーマンスを目の当たりにして、興が冷めたなどということは決してない。断じて違う。ただ、突如として現れた『それ』に、呆気を取られてしまったのだ。
逆三角形をとうに越し、いっそフリスビーと言うべき円盤状へと肥大した背中。その背中に、『それ』は住み着いていた。
『それ』はまるで、
鬼の形相のような……
あれ。
某漫画で、見たことあるやつだ!
「気づいたかい、川崎。ヤツの背中、鬼の顔……。ハムストリングに並んで、津田沼の最強の部位。パワーの根源たる、広背筋さ」
まさしく、怪物がこの世に君臨する瞬間だった。
鬼の顔。ドラゴンの翼。蜷局を巻いたヨルムンガンド。複雑に絡み合った背中の筋肉が渦模様を描き出し、その向こう側から、怪物は現世を覗き込んでいた。
その眼差しに宿るのはは怒りか、あるいは確固たる克己心であろうか。神へ誓った復讐。この世の摂理すら克服してみせると言わんばかりの、恐るべき眼光を放っていた。
大きく張り出した鬼の頬を形作る広背筋もまた、スポーツにおいて爆発力を生み出すジェットエンジンとなる。
広背筋が担う『引く』という動作。それは時に、押すという動作以上に強大なエネルギーをもたらす。
『打撃用筋肉』。
『懸垂用筋肉』。
『水泳用筋肉』。
引くこととは、物を手繰り寄せるだけの行為にあらず。爆発的な反作用によって推進力を生み出すジェット噴射なのだ。
重量の束縛を突き破るロケット。果てなき宇宙空間に飛び出した彼は、穏やかなる無重力のうちに漂った。
心地よい静寂。彼は生まれて初めて自由を知った。心に求めるものは、ただそれだけで十分である。
再び大気圏に舞い戻り、しばしの自由落下を得た後、鋼鉄は静かに部室の床へと降ろされた。450キロの重量が遺す、ズシンという断末魔。その振動は部室中を走り抜け、骨を伝わって、俺の中を突き抜けた。