エルモ~それでも歩み続けるあなたに~
ぽたん、と。
漆黒のインクに、一滴水を垂らしたように、空の端の色が薄くなった。
それを合図にしたように、山際がぼんやりとした明かりに包まれる。
逆に丘の稜線は強く影を描き、空と地上の境目がはっきりと見えるようになる。
空がはじまりの白蒼色に、染まっていく。
生まれたての太陽が恥ずかしそうにゆっくりと、昇ってくる。
しかし、変化はそれだけにとどまらない。
空の一部にかかっていた雲の下辺が、ゆっくりとその色を変えていく。
陽の光を浴びて、雲を染めていた薄墨の色が、さっと柔らかな黄色へ切り替えられる。
淡黄色から朱色へ、淡い桃色へ、そして、目の覚めるような撫子色へ。
空の色もそれらの色を帯びて、紫味の強い白蒼色へと、染めかえられていく。
一瞬とて目をそらすことのできない、色の変化。
シアン系列、マゼンダ系列、イエロー系列と色を構成する三原色全てが使われているのに、ハレーションを起こす訳でなく、互いに溶けあい、調和しあい、太陽を中心として絶妙なグラデーションを作る、それは朝焼けの情景。
………もう、こんな時間。
仰向けに倒れたまま、エルモは初めて瞼を閉じる。
あれからずっと空を睨んで、睨み続けて…………もう何日も変わらず、あの日があったことさえ忘れているように、太陽は昇り、朝が訪れて、夕焼けがやってくる。
そして、今やっと待ち望んでいたものが、訪れた。
朝焼けの中から、今にもひょっこり彼女が姿を現しそうな、気がしていた。
いつものように、弟子、とそう朗らかにエルモを呼んで。
目を閉じると、今ある情景よりも、さらに鮮やかな夜明けが浮かび上がってくる。
暁に空を染める、薔薇色の髪。
曙光と同じ、琥珀色の瞳。
夜明けに溶けて行った、美しいその姿。
このまま、目を開けなければいい。瞼の内側にある夜明けだけを信じていれば。
本当は朝を待ち望んでいた訳ではない。
何も出来ないまま、ただここに転がっていただけだ。
心の中では、朝が来ることを恐れていた。
彼女の不在が、浮き彫りになってしまうから。
だから、ずっと夜のままでいてさえも、良かったのだ。
そうすれば、彼女が居なくなったことを、なかったことに出来る。
けれど、そんな思いは無情にもたやすく破り取られた。
さくさくと、下生えをかき分けて歩み寄ってくる、その足音。
無情にエルモの闇を打ち払う、黄金色の太陽。
「なんだよ」
びっくりして肘を立てたエルモに、ダーヴィン・ミョンヘンは不機嫌な表情でそう呟いた。
「えっと、ダーヴィン、さん?……ダーヴィン、くん?」
おっかなびっかなと声をかける。
「朝焼けが綺麗だから、なんて言われて来てみれば」
エルモの思惑なんてどこ吹く風。
呼び掛けそのものを無視したダーヴィンはどかり、と隣に腰を下ろす。
そのまま胡坐をかいたダーヴィンはちらり、と空を見上げて
「こんなもん空がおかしな色に染まって、気味が悪いだけじゃねえか」
「違う……」
咄嗟にエルモは反論し、そこで突っ張っていた腕の力が抜けて再び仰向けに倒れ込んだ。
ダーヴィンが視界から消え、代わりに朝焼けがまた視界一杯大写しになる。
「違うよ、朝焼けは」
すうっと息を吸いこんだら、どうしてだろうか、今更涙が一滴頬を伝った。
「気味が悪いんじゃなくて、何処か胸騒ぎがして……ドキドキするんだよ。良いことと、悪いことが、いっぺんに起きるような気がして」
リーゼといる時も、いつもそうだった。
リーゼと一緒に居ると、この先何が起きるのか全然予測できなくて、それはとても怖いことで、だからいつもドキドキが止まらなかった。
しかし、それ以上に彼女が呼ぶ声も、何もかも魅力的で、一緒に居ることができたら、同じものを見ることができたら、どれだけ素敵なのだろうかと、そう考えるだけでもドキドキして。
「そんなもん、いつだって一緒じゃねえか」
何をそんなに怒っているのか、ダーヴィンは暁の空をじっと睨みつけたまま
「恋する気持ち、みんな持ってんじゃねえか」
違う、エルモは声にならない声で呟いた。
夜明けだけは、特別なんだ。
「だって、こんなに心が動くのは……」
ここに居るよ、と心が必死に訴える。応じるように、心臓がトクトクとはやいテンポで鼓動を刻む。それは、夜明けだけの、特別なのだ。
「夜明け、だけなんだよ」
下らねえ、吐き捨ててダーヴィンが立ち上がる。
「お前何言っても聞かねえし、つまんねえから俺降りるわ」
じゃあな、と来た時と同じくらいの傍若無人さでダーヴィンが歩き去っていく。
エルモの気持ちなどお構いなしに。
真っ直ぐに前を向いた、ダーヴィンの横顔。
朝焼けの光に照らされて紅く染まっている。
そこに浮かぶのは、変わらず不機嫌な表情。
でも、来た時と少し、表情が違う?
なんだか寂しそうで、悲しそうだった。
ほんの少し傷ついたような、何かを諦めたような、けれど、とてもさっぱりした表情を、していた気がする。
「一体、何だったんだろう……」
仰向けに倒れたまま、呟く。
空は今が朝焼けの最高潮。これ以上陽が昇れば、空の端はまたもとの白蒼色へと染めかえられていく。
ふと、朝焼けの中に、彼女の笑顔を見た気がした。
次にこれを見られるのは、一体いつのことだろう。
その時に、自分は何を思うのだろう。
また、彼女の姿を、想うのだろうか。……暁髪のリーゼを。
「……そっか!」
何も、探し求めなくてもとっておきの対価が、ここにあるじゃないか。
もうわかった。
想鎖術のリズムの正体は、恋する心が刻む音。
人でも、物でも、愛おしく思うその気持ちが想鎖術のリズムになる。
エルモが想鎖術を成功させるのは、いつだってリーゼの傍に居る時だった。
……ってことはボクは、リーゼさんに恋しているの?
よく考えれば、それは自明の理で。最初から心はちゃんと、知っていた。
じゃあ、リーゼさんは、ボクのことを、一体どう思っているんだろう……?
それを想像することは、怖いようであり、胸が高鳴るようであり、また心臓がとくん、と鼓動を刻む。
そして、とくん、とくん、と耳になじんだ、あのリズムが。
いいや、それを考えるのはまたあとにしよう。
それよりも対価は、目の前にある。
そっと両手を伸ばし、夜明けの空へ両掌を掲げる。
目を閉じれば、振り返りこちらに微笑みかける、彼女の姿が。
ここから先に一歩踏み出せば、何が見えるのだろうか、とおそれる気持ち。
いつか見捨てられてしまうのではないか、と言う漠然とした不安。
そして、それを補って余りあるのは、一緒に居ることで生まれるよろこびと安らぎ。
いつだって、リーゼの傍にいれば心は否応なしに、音を立てていた。
今は、彼女を想うことが、その代わりになる。
姿はなくとも、心には、いつだってあの暁の髪の少女が居る。
泣きながら、歯を食いしばりながら、それでも歩み続けるあなたに、あらんかぎりの愛と抱擁を。
そして、叶うならばいつまでも共に、歌い続けよう。
とくん、とくん、とはやる鼓動の音に耳を澄ませる。
不思議とおそれる気持ちはなかった。不安も感じない。
絶対に失敗はない、そんな不思議な自信が全身を満たしていた。
心の内に火が灯ったような、高揚感。炙られるような衝動とも焦がれるひりつきともまた違う、安らかに燈るものがあった。
それは、彼女の姿を思い描いているからこそ。
長い髪の色、瞳の色、肌の色、爪の色、翳の色さえ間違えない。
どんなものよりもうまく、それこそ睫毛の長さまで、鮮明に思い描くことができる。
彼女と、この夜明けを繋ぐための言葉は……いいや、最初から決まっている。
―――『才能だけに頼ってちゃ駄目だよ。想鎖術の本質は、対価と讃えたいものを言葉で、想いで鎖することなんだから』
そんな風に彼女はきっと怒るだろうけれど、今だけは勘弁して貰おう。
だって、彼女を喚ぶために必要な言葉はこれしかないのだから。
エルモは目を開き、そっと微笑む。
とくん、とくん、と全身をめぐるあのリズムに全てを委ね、エルモはその言葉を口にした。
「リゼルシュタイン・ココ・エスカトーレ」




