白い朝、幻の命
「それが、三年前……ううん、もうちょっと前かなあ」
この苹果はもう駄目かな。ジャムにでもしよう。
同じ発音、同じ淡々としたリズムで言葉を放つ。
「気がついたら、アローのなんだろ?形?みたいなものがちょっとずつわからなくなって、形がない代わりに意識に常にアローが居るようになって」
叔母は何も言わなかった。
ただ、三日月のように笑ってリーゼを見ていた。
そして、ある日とうとうアウローラは、一つの白い箱になっていた。
気がついたら、という感じだった。
何気なく入ったアウローラの部屋。
いつの間にか部屋にあった調度は全て始末されていて、何もない部屋の中に真っ白な箱が、一つだけ置いてあった。
アウローラが、居なくなったと気付いたのは、その時が初めてだった。
「もともと何日も部屋から出てこないとか、何日も帰ってこないとかザラだったし、そんなに心配はしていなかったんだけど、まさか死んじゃっていたなんてねえ」
だから、茫然とした。
白く強い、オーロラのような朝焼けの光が差し込む部屋で。
小さな白い箱におさまった、叔母の姿を見た時に。
………一体、彼女はいつから居なくなったのだろう。
そして、どうしてあたしは、それを知らなかったの?
答えは、胸の中にあった。
―――「簡単よ。ずっと一緒にいたから、気がつかなかったの」
嘲笑うような、それでいて真摯な声は、自分の内側から。
「それから、アローは時々出てくる。月に、三日とか四日とか、いつの間にか『あたし』が『アロー』になっている。誰も、気がつかない。同じ外見で、同じ声……当たり前だよね。外見は変わらないんだから」
だから、怖くなる。
いつか、誰も気がつかなくなるんじゃないかと。
リーゼと言う人間が居たこと。アローと言う人間が居たこと。
二人が、別々の人間であったことに。
リーゼは、苦笑した。
「おかしい話だよね。ジュジェでさえ何か少しおかしかったのかな?って思うだけなんだもの。あんなにずっと、一緒にいるのに」
笑ったはずの声が、絞られる。
そう、……………気がついてくれたのは、昨日のキミが初めてだった。
キミが初めて、リーゼのことを覚えていてくれた。
「誰も、リーゼのことなんか、忘れちゃうんじゃないかと思って!」
そして、何よりも、一番怖いのは。
「だんだん、あたしがあたし自身を忘れてしまう気がする。アローと変わっていることに、気がつかないあたしが居る」
目が覚めて、また。ああ、変わっていたんだな、と思うだけで。それを、当たり前と捉えていることに。
「……………それが、とても、怖い」
アローに自分自身をあげることを選んだのは、リーゼ自身だ。
いいよ、あげる。と、小さな自分は何も考えずに答えた。それが、こんな結末を生む。
今更、とても怖い。
「リーゼさん、それは」
そっと、エルモが樹の下から呼び掛けてくる。
答えない。答えたら、見えてしまうから。
「アローの得たことも、アローのしてきたことも、今のあたしには自分と同じことなの」
胸の上に乗せた手を、そっと握りしめる。
「アローが居なくなってから、急に学校の授業の中身がわかるようになった。
同級生の想鎖術が、すごく幼稚で簡単なものに思えるようになってきた……!」
それこそが、リーゼとアウローラの境目があいまいになってきた証拠。
「それから、すごく怖くなった。これ以上勉強を続けたら、自分の正体がわかってしまう」
リーゼさん、と少し怒ったような少年の声。
ああ、こんな風に怒ることもあるのだ、と思いながら、それでも言葉を止めることはできない。
「今のあたしが、一体どういう存在で、どういう状態なのか、わかってしまう」
恐らくは世界で唯一のイレギュラーな存在。想鎖術により、他者を自分に寄りつかせている……そんなことが、本当に可能なのか。
―――もし、そんなことはあり得ないとしたら?
あたしは、一体何なのだろう。
何のために、ここに居るのだろう。
だから、リーゼは高等部へは進まなかった。
恐ろしかったのだ、真実を知ることが。
自分が、何者なのかを理解することが怖くて、逃げた。
自分の好きな勉強だけならば、幾らでも家で続けることができた。
師匠は家にいるのだから、いつだって尋ねることができる。
それで、満足するべきだった。
「それが、あたしが高等部へ進まなかった、本当の理由」
先程から微動だにしない玉虫色の頭髪へと視線を下ろし、
「アウローラ・ルル・エスカトーレはこの世にはもう存在しない。存在しているのは、残骸みたいなあたしだけ」
ごめんね、と呟きは洩れて出た。
口を押さえるより早く、もう一つ。
ごめんね、と。
こんな師匠で、ごめんね。と。
「それは、違います。リーゼさんは、アローさんの抜け殻なんかじゃないと、思います」
少年は、ゆっくりと顔をあげてリーゼを見上げた。
夜の海を写し取ったような、神秘的な瑠璃色の瞳が、ひたとリーゼを見上げる。
「だって、アローさんとリーゼさんの想鎖術は、全然違いましたもん」




