雪華詰草
強く握っていた手が、握り返された。
背中に触れるか触れないかのところで、ゆっくり何かが動き出す。
躊躇うように視線を落とし、そのまま流れるように背中合わせの少年を見つめる。
目を閉じ、小さく口元が動いている。
「口接けの色、移って赤、涙に流れてはまた白く」
―――――赤、白。
一拍遅れて、とても小さく消え入りそうな声が聞こえてくる。
小さいが、確かな声。
それは、あらゆるものを内に含みながらなお、表出ることのない黒曜石の煌めきのようで。
「さあ、躊躇いの時間は終わりを告げました。選びなさい」
―――躊躇い・終わり・選び
自分自身のリズムと、リーゼのリズムを重ね合わせ、遅れて追いかけるように言葉が放たれる。
「全ては貴方の思うがまま。楽園となるか絶望となるか」
―――想うがまま。楽園を手に入れるため。
そうそう、その調子。上手だよ。
小さく放たれる言葉の一つ一つがリーゼの心にすうっとしみこんでいく。
それがまた、新たな物語の源となる。
「貴方の選択が私の道を決め、私の選択が貴方の道を決め」
―――終わりの時、近付いて。道行、定まらず。
「せめてひと時、泡沫の。幻のような時を過ごしましょう」
―――まぼろしの時、七つの夜を超えるのなら。
ふうん、なかなかやるじゃん。
いつの間にか、リーゼの言葉を追いかけるだけだったエルモの物語が、自分だけの道筋を歩んでいる。
キミはきっと、あれを呼ぶつもりなんだね。
だったら、こっちだって。
リーゼは声を半音高くし、物語の錬度を更に高めていく。
慌てたように追い付いてくるエルモ。
それが何だか愛しくて、そのままリーゼは、自分の思うまま物語を作り出す。
こんな事態だと言うのに、歌うのが楽しくてたまらない。
いつの間にか、全く別の物語。
全く別の歌い方。
しかし、互いの物語を消すことなく。
かと言って物語が交差する訳でもなく。
ただ二つの物語は並列して存在する。
「それでも、一人より二人がいいと言うのなら」
―――貴方のため、私は生まれた。
それが、そっくりそのまま想鎖術にも反映される。
「あの時の約束の花、今一度あなたに差し上げましょう」
―――貴方に出会うため、私は生まれてきた。
この辺りで、何かがおかしいと男たちが気付いてくる。
だけど、構うもんか。今、この一瞬を、この物語を大切にしたい。
「赤も白も、名前は変わらない。花の名は―――」
―――幾千万と、名前は変わらずとも。あなたはただ一人
「約束と幸福の花よ、どうかとこしえに」
―――知らずはその名。名など既に必要なく。
「秘密の貴女………枯れることなく世界を包め」
―――貴方に出会うための輝き・この身を包め。
まず、リーゼが想鎖術の物語を、紡ぎ終える。
物語に同調し、対価となった足元の苹果が光を散らしながら、巻き上がる。
光が終息した時に現れたのは、一面にはびこる緑の植物。
頼りなくひょろ長い茎の先につくのは球状の赤と白の花。
「雪華詰草!」
斑に花をつけながら、にょろり、と物凄い勢いでその茎は伸び、それはあっという間に周囲へと広まる。
放射線状に広がった草がとん、と誰かの足元にぶつかった。
そのまま支柱を見つけたかのように、草は男の足へと巻きついて行く。
「―――うわっ」
悲鳴をあげて、男が茎を振り払おうと足をばたつかせる。
これで想鎖術の第一段階は完了。
あとは、リーゼが呼びだした赤と白の花を、彼が間違えなく読み取れたらいい。
けれど不思議と失敗する、という不安はなかった。
むしろ、安らかな心地さえしている。
星明かりに消されそうな、小さな声へと静かに耳を傾ける。
綺麗な声だ。変わらぬものを愛おしみ、消えゆくものを憐れむ力に満ちている。
―――私達は花に留まることさえできないけれど。それでも貴方と居たいから。
足元に絡まった草を男たちがむしり取る。
けれど、もう遅い。エルモはゆっくりと、終詩を紡ぎ終える。
―――二つに分かれたものよ、今一度ひとつになりましょう。
赤と白は、別れたオスとメス。そう、エルモが呼んだのは花を必要とせず儚い命を光と共に散らせる、あの虫のこと。
「光の虫よ、夜空に集え!」
それは、カッと高らかな声。
あんなに自信がなさげだったのに、今少年は空を求めて片手を伸ばす。
仕草に呼応し、乱立する花が一斉に光を放つ。
ブワッとまるで音を立てそうな勢いで舞い上がる、億千の光。
相手を探し求めるようにさ迷った光はより合わさって、より強い輝きを生む。
それは、真昼の太陽にも負けない程の、強い輝き。
目を瞑ったリーゼやエルモはいい。
けれど、それを直視してしまった男たちは。
ぎゃあ、と声をあげ、目を押さえてうずくまる男たち。
その横では、ぺたっと膝をついた少年が、自分の右手を見つめている。
「出来た……!」
光がやんだ瞬間を見計らい、想鎖術の成功した喜びに打ち震える弟子を片手に引っ張り、もう片方の手に顔を覆うダーヴィンを抱え、リーゼは急いで表通りへと駆け出した。




