第9話 赤旗の撤退路
赤い尾羽の魔獣は、こちらを見つけていた。
青牙湿地の上空を三周した後、巨大な影は天井近くの石棚へ降りた。距離は五十歩ほど。鉤爪が岩へ食い込み、翼を畳んでもミーナの三倍はある。
頭部は鷲に似ていたが、嘴の縁には鋸のような歯が並ぶ。胴は黒褐色の羽毛に覆われ、胸だけが白い。尾から伸びる三本の赤い羽が、暗い洞窟で旗のように目立った。
魔獣は首を傾け、荷台の乾燥肉を見ている。
「すぐ拠点へ戻る」
グラウが低く言った。
「まだ襲ってきていない」
俺は荷台の上から相手を見上げるつもりで意識を向けた。
「だからだ。飛ばれる前に、天井の低い道へ入る」
「弱みを見せれば追ってくるぞ。まず俺が名乗り、縄張りから退かせる」
「あれが言葉を聞くように見える?」
ミーナは毒傷の残る肩をかばいながら翼を伏せた。戦闘制限中だ。グラウも右翼を固定し、飛べない。
ガンツとポロは荷台の左右で身を低くしている。水一日分、乾燥肉三日分、解毒剤一回分。ここで戦えば、勝っても生活基盤を失う。
それでも、王が姿を見ただけで逃げるわけにはいかないという愚かな意地があった。
俺は石棚の魔獣を鑑定した。
【鑑定結果】
種族:赤尾飛行魔獣(個体ランクC)
レベル:12
HP:116(ランクC)
MP:93(ランクD)
攻撃:35(ランクE)
防御:31(ランクE)
速度:46(ランクE)
技能:急降下:ランクD Lv2、投石狩り:ランクE Lv5、鉤爪捕縛:ランクE Lv4
状態:空腹、獲物選別中
個体C。俺たちが一斉にかかっても、まともには勝てない。
恐怖が殻の内側を冷たくした。だが皆が俺の反応を見ている。震えを隠そうと、いつもより大きな声を出した。
「上の者よ、聞け! 俺は龍王家のアルドである。この地は我らが生活圏と定めた。狩り場を求めるなら、別の空洞へ――」
赤尾飛行魔獣は欠伸をした。
嘴を大きく開き、俺の宣言を最後まで聞かずに翼を広げる。
一打ちで石棚の砂が舞った。
「通じてない!」
ポロが叫ぶ。
「分かっておる!」
「分かってなかったでしょう!」
ミーナが荷台の引き具を肩へかける。
「走るわよ!」
赤尾飛行魔獣が石棚から落ちた。
落下しながら翼を開き、音もなく加速する。狙いは荷台の後部、乾燥肉の袋だ。
「左へ!」
グラウの指示で、ガンツが荷台を左の石柱へ寄せる。鉤爪が右から振り下ろされ、肉袋の結び紐を切った。
袋が宙へ浮く。
ポロが飛びつき、端をつかんだ。赤尾飛行魔獣は上昇しようと翼を打つ。小さなポロの体まで持ち上がる。
「離せ!」
俺が叫ぶ。
「食べものが!」
「命が先だ!」
ポロが手を離す。肉袋は魔獣の爪にぶら下がり、そのまま上へ運ばれた。
一日分を失った。
「追わないの?」
ポロの目に涙が浮かぶ。
「追えぬ。残りを守る」
俺は悔しさを飲み込んだ。
魔獣は石棚へ戻らなかった。空中で袋を嘴へ投げ、丸ごと飲み込む。赤い尾羽が旋回し、再びこちらへ向いた。
一袋では足りない。
「北東の裂け目まで二百歩」
グラウが道を選ぶ。
「天井が低い。あそこへ入れば翼を開けない」
「湿地の中央を横切ると泥が深い」
ポロが反論した。
「右の浅瀬を通れば少し遠いけど、荷台は沈まない」
「風は西から東」
ミーナが濡れた羽先を上げる。
「右へ行けば匂いが魔獣に流れる。でも追い風になる」
「荷台を軽くする」
ガンツは後部の予備板を外した。
四人の情報が一度に来る。
俺は迷った。最短の中央か、安全な浅瀬か。匂いを隠す左か、速く進める右か。
上空で翼音が強くなる。
「右の浅瀬だ。荷台を軽くし、追い風を使う。匂いは肉の一部を左へ投げてそらす!」
全員が動いた。
ガンツが荷室の外板を切り離し、ポロが水桶を前へ固定する。ミーナは右から風を受け、翼で荷台の後ろを押す。グラウは走れない分、中央で上空と退路を見た。
俺は固定枠から殻響探知を広げる。空の敵は床へ足音を伝えない。代わりに翼が起こす風圧と、水面の波を読む。
「後ろ、低い!」
赤尾飛行魔獣が二度目の急降下へ入った。
ガンツが乾燥肉の小袋を左へ投げる。袋は泥へ落ち、匂いが広がった。
魔獣の頭が小袋へ向く。
「かかった!」
次の瞬間、魔獣は小袋を無視した。
翼を傾け、荷台の真上へ軌道を戻す。
「なぜだ!」
「もっと大きい獲物を覚えた!」
グラウの声が切迫する。
最初の袋が荷台から出たのを見て、ここに残りがあると学んだのだ。
鉤爪が上から迫る。
ミーナが風をぶつけるが、毒の残る肩に力が入らない。風は片翼を揺らしただけだった。
魔獣の爪が荷台の後部へ刺さる。木板が裂け、荷台が後ろへ引かれた。
ガンツが前から踏ん張る。ポロは水桶へしがみつく。グラウが健全な翼で爪を打つが、外皮に弾かれた。
「荷室を切れ!」
ガンツが叫ぶ。
投棄用の結び目をポロが引く。だが泥を吸った蔓が膨らみ、抜けない。
「昨日試したときは動いたのに!」
「濡れる条件で試してない!」
ガンツが工具を振り下ろし、蔓を切る。
後部荷室が外れ、赤尾飛行魔獣は板と残りの肉袋をつかんだまま上昇した。荷台が急に軽くなり、全員が前へ倒れる。
「残りは一日分だ」
ガンツが息を切らす。
「それでも進め!」
俺たちは浅瀬へ入った。
水深はポロの膝ほどだが、白い石が並び、車輪は沈まない。追い風を受けた荷台は速度を上げる。
赤尾飛行魔獣は上空で外れた荷室を捨て、肉だけを飲み込んだ。
もう二日分を失った。それでも腹を満たさず、こちらを旋回する。
「執着してる」
ミーナが上を見た。
「食料だけじゃない。動く荷台そのものを、大きな獲物だと思ってる」
「裂け目まで百二十歩」
グラウが告げる。
魔獣は今度、こちらへ降りてこなかった。上空を通過し、鉤爪で天井近くの石をつかむ。
「何をしている?」
俺が問う。
グラウの顔色が変わった。
「止まれ! 前へ行くな!」
巨大な石が落ちてきた。
俺たちの十歩先へ激突し、浅瀬の白石を砕く。水しぶきと破片が飛び、進路が塞がれた。
赤尾飛行魔獣は再び上昇し、別の石をつかむ。
「投石で道を潰す気だ」
ガンツが最初の岩へ工具を当てる。
「動かせない。迂回する」
右は深い泥、左は黒い石柱が密集している。荷台ごと通れる隙間はない。
「荷台を捨てれば、左を通れる」
グラウが言う。
「負傷者と水をどう運ぶ」
俺は即座に反論した。
「次の石が来れば、荷台ごと潰れる」
上空で爪が岩をこする音がした。
「左の石柱、根元に水路がある」
ポロが水面へ手を入れる。
「細いけど、泥を流せば柱の間を広げられる」
「時間がない」
「ミーナの風で水を押せば早い」
ミーナは肩を押さえた。
「一度だけなら」
「俺が方向を絞る」
グラウが並ぶ。
「無理をするなと言っても、聞かぬのだな」
「ここで潰されるよりましだ」
二人が翼を動かす。ミーナの風が水面を広く押し、グラウの短い風が石柱の根元へ集める。泥がえぐれ、白い石の筋が現れた。
ガンツが工具で軟らかくなった土を掻き、ポロが車輪の前から石を除く。
俺は上空の風圧を読む。
「石が来る! 全員、柱の陰へ!」
二つ目の岩が落ちた。
荷台の後ろへ当たり、水桶の蓋が割れる。半分の水が流れた。破片がガンツの背をかすめ、鱗を切る。
「動けるか!」
「浅い。続けろ!」
道が荷台一台分まで広がる。ガンツとポロが前、ミーナが後ろから押し、狭い柱の間へ入った。
左右の車輪が石へこすれ、補強牙が甲高い音を立てる。途中で右車輪が挟まった。
「少し戻せ!」
「戻ったら上から見える!」
「前へ押せば車軸が折れる!」
ガンツとグラウの意見が割れる。
俺は鑑定で荷台の負荷を見る。右車輪の皮板が石へ引っかかり、車軸ではなく外付け板へ重みが集中している。
「右の泥板を外せ。車輪は残る!」
ガンツが留め具を一つずつ切る。皮板が外れ、車輪が細くなる。荷台は石柱の間を抜けた。
「裂け目まで五十歩!」
グラウが前を指す。
天井が低くなり、赤尾飛行魔獣は急降下できない。俺たちはわずかに安堵した。
魔獣は三つ目の石を落とさなかった。
代わりに翼を畳み、石柱の隙間へ体を滑り込ませる。
巨体が地上すれすれを走った。翼を開けなくとも、鉤爪のある二本脚で速い。
「来るぞ!」
ミーナが風を向ける。狭い場所では風が壁へ反射し、こちらまで押し戻される。彼女は使えずに歯を食いしばった。
ガンツが荷台を引く。ポロは残った水桶を押す。グラウが最後尾へ下がった。
「お前は走れぬ!」
「だから先に行け。爪の向きだけ変える」
赤尾飛行魔獣が跳ぶ。
その爪は肉袋ではなく、荷台中央の俺へ伸びていた。
白く滑らかな卵。魔獣には中身の詰まった獲物に見えたのだ。
「アルドをつかむ気だ!」
ポロの悲鳴。
グラウが健全な翼へ風を溜めた。
「やめろ! 骨がずれる!」
「短くじゃ間に合わない!」
彼は踏み込み、蓄えた風を正面へ放つ。
爆ぜた空気が魔獣の鉤爪を横へ押す。爪先は俺の殻を外れ、固定枠の縁を削った。
魔獣は壁へ片翼をぶつけながらも、嘴をグラウへ向ける。鋸歯が彼の固定した右翼へ食いついた。
グラウが声を上げる。
ミーナが横から飛び込み、魔獣の目へ爪を振った。深くは届かないが、敵は嘴を離して顔を守る。
グラウの右翼から血が滴る。固定骨が折れ、羽毛の下で翼が不自然に下がった。
「全員、裂け目へ!」
俺は叫んだ。
「反撃は?」
ガンツが問う。
胸の奥で、王の誇りがまだ抗っている。仲間を傷つけた敵を、このまま見逃すのか。罠を作れば、石柱を崩せば、もしかすると倒せるのではないか。
だがグラウは出血し、ミーナは毒傷を抱え、食料は一日分。俺たちは敵へ傷一つ負わせていない。
「勝てぬ!」
声にするのは苦しかった。
「今は勝てない。撤退だ!」
ガンツがうなずき、荷台を裂け目へ引く。ポロとミーナがグラウを左右から支えた。
赤尾飛行魔獣は狭い入口まで追ってきたが、翼が壁へ当たり、巨体を入れられない。嘴を差し込み、鋸歯を鳴らす。
俺たちはさらに奥へ進み、二度曲がって姿を隠した。
すぐには止まらなかった。グラウが選んだ第二の窪地まで下がり、上から石が落ちないこと、別の出口があることを確認してから休む。
「翼を見せろ」
固定を外すと、治りかけていた骨の周りが再び腫れ、嘴の傷から血が出ていた。大きくずれてはいないが、完治は遠のいた。
「十日では無理だ」
俺は鑑定結果を伝えた。
「少なくとも、あと六日は飛べぬ。今日を入れれば、十八日以降だ」
グラウは顔を背けた。
「分かってる」
「俺を守ったせいだ」
「護衛契約だ」
「だからといって、翼を失ってよいことにはならぬ」
「じゃあ、つかまれればよかったのか」
返せない。
ミーナが傷へ薬を塗りながら言う。
「次は、アルドを荷台の中央じゃなく、上から見えない位置へ置く。グラウ一人に守らせない」
「それと、囮は敵へ見せる前に本体から離す」
ガンツは泥で固まった投棄蔓を切り取った。
「濡れても一息で外れる留め具にする。荷室は二つ。片方だけ捨てられるように」
ポロは残った水を数えた。
「浅瀬の道、赤い布を置く。深い泥の場所には二枚。逃げる道をもう一本、水路沿いに探す」
「私は風向きを道ごとに記録する」
ミーナが続けた。
「追い風が使える道と、匂いが隠れる道は違う。最初から二本あれば、敵に合わせて選べる」
戦いには負けた。食料二日分と水半分を失い、グラウの翼を悪化させた。それでも全員と荷台は残った。勝てないと認め、逃げ切ったからだ。
「俺の失敗は、相手が言葉を聞くと思い込んだこと。そして、肉を与えれば満足すると決めつけたことだ」
俺は皆へ頭を下げるつもりで殻を傾けた。
「撤退が遅れた。すまなかった」
グラウが俺を見た。
「次は俺が逃げろと言ったら?」
「理由を一言聞く」
彼の目が険しくなる。
「その一言は必要だ。全員が同じ方向へ動くためにな。だが聞いたら、すぐ決める」
「王族の名乗りは?」
「相手が言葉を理解すると確かめてからにする」
ミーナが吹き出し、ポロも笑った。ガンツまで肩を揺らす。
「何がおかしい!」
「やっとそこから学んだのね」
笑われるのは不本意だが、皆の顔から恐怖が少し消えた。
夜まで裂け目で待ち、赤尾飛行魔獣の翼音が遠のいてから拠点へ戻った。帰路には赤い布を結ぶ。一枚は安全な曲がり角、二枚は泥や落石の危険、三枚は敵から見える開けた場所。
ガンツは荷台へ二つの投棄荷室を設計し始めた。ポロは水路沿いの第二退路を調べ、ミーナは風向きの変わる時刻を記録する。グラウは寝床から、敵が上空から狙う順番を整理した。
水路の泥には、地耳獣が仲間へ進路を示す三本爪の印が一つ残っていた。ポロの群れが深層側へ向かった可能性は高い。だが印の先は赤尾飛行魔獣から丸見えの浅瀬で、負傷者を連れて進めない。ポロは位置を石札へ刻み、翼音が消え、薬と水を持てる日まで追跡を延期した。
狩りへ出られない者も、次の狩りを安全にできる。
俺は殻響探知で通路を読み、赤い布をどこに置けば見落とさないか確かめた。危険を知るほど、振動の違いが鮮明になる。敵の位置だけでなく、退路の幅や崩れやすい床まで意識できるようになっていた。
翌朝、炉、水路、寝床、警報の骨飾りを結ぶ線へ魔力が淡く流れた。
竜印炉の赤い光が床下を走り、水場の白石へ届く。そこから寝床の外皮、入口の警報骨へ広がり、洞窟の壁全体が内側から薄く輝いた。
まるで巨大な卵殻が、俺たちを包んでいるようだった。
「拠点が……光ってる」
ポロが息を呑む。
だが遠い上空で、赤い尾羽の影が一度だけ旋回した。
こちらの場所を、完全に覚えられた。




