第11話 二つに分けた水
腹が減ると、会議は荒れる。
それは龍王家の長い歴史にも、おそらく記されていない真理であった。
転生十六日目の朝。俺たち五人は卵殻城の炉前に集まり、空になった石皿を囲んでいた。昨夜まで皿に載っていた乾燥肉は、欠片どころか脂の跡までポロが舐め取っている。竜印炉の赤い火だけが腹立たしいほど元気に燃え、焼くもののない鉄串を照らしていた。
狩りに出たミーナとグラウは、何も持たずに戻ってきた。
翼猫族のミーナは灰色の耳を伏せ、荷台の縁へ細い爪を立てている。折れた翼を革帯で胸へ固定したグラウは、煤けた黒い羽を逆立てたまま、俺と目を合わせなかった。二人とも泥まみれだ。獲物を見つけられなかったのではない。見つけたうえで、仕留められなかった顔だった。
「それで、獲物はどうした」
俺は威厳を保って尋ねた。腹が鳴らなければ、完璧だった。
ミーナの緑の目が、ゆっくり俺の殻へ向いた。
「聞こえた?」
「炉の音だ」
「炉は、きゅるる、なんて鳴かないわ」
「王の腹は民の飢えを代弁するのだ」
「その王様、食べる口もまだないでしょうが」
正確には殻越しに魔力と栄養を取り込める。しかし今は訂正すると負けた気がしたので黙った。
グラウが革袋から赤茶けた羽毛を一本出した。
「北の横穴に岩走り鳥が三羽いた。仕留めかけたところで、赤尾の化け物が降りてきた」
第九日目に俺たちを湿地から追い払った、あの巨大な飛行魔獣だ。赤い尾羽、石を砕く嘴、荷台ごと持ち上げる脚。俺たちは保存食を囮にし、グラウの翼をさらに傷めて、ようやく逃げ切った。
「奪われたのか」
「いいえ。鳥は捨てて退いた。あれに見つかったのは狩場だけ」
ミーナの答えは硬かった。獲物を持ち帰れなかった悔しさより、仲間を危険に晒さず撤退したという確信が勝っている。
ならば責める余地はない。
「よく戻った。獲物三羽より、狩人二人の方が高い」
ミーナは一度目を丸くし、それから鼻を鳴らした。
「そう言えるようになったのは進歩ね」
「最初から分かっていた」
「じゃあ、どうして胸を張ってるの?」
「王族は常に胸を張るものだからだ」
卵に胸がどこにあるのかは、聞かないでもらいたい。
笑いかけた空気を、ポロの小さなくしゃみが断ち切った。薄茶色の毛を持つ小獣は、貯水槽から運んできた三枚の木札を床へ並べた。札には炭で一、二、三と線が引かれている。
「水は、三日分です。食べ物がないから、いつもより飲まないと動けません。菌床も乾かせないです」
ガンツが太い尾で床を叩いた。岩角トカゲの右腕には、石噛みの群れと戦ったときの打撲がまだ黄色く残っている。
「水路の奥を調べるなら、一日分は荷台に積む。戻って掘る分も要る。三日分では足りん」
「だから探索を先にするのよ」
ミーナが即座に返した。
「今の狩場は赤尾に見張られている。別の狩場を探せば、食べ物も水も増やせるかもしれない。ここで三日待っても、空腹がひどくなるだけ」
「だめです」
普段なら語尾を飲み込むポロが、はっきり遮った。自分でも驚いたらしく肩を震わせたが、木札を抱え込むように前脚を置いた。
「持っていった水が戻らなかったら、炉を冷やせません。ミーナさんたちが帰ってきても、傷を洗えません。グラウさんの翼も、また熱を持っています」
グラウが傷を隠すように身体の向きを変えた。ミーナの耳がそちらへ動く。
「熱があるの?」
「少しだ。狩りには支障ない」
「飛べないのに斜面を駆けたでしょう。見せなさい」
「今は水の話だ」
「だから水が要ると言ってるの」
声が重なり、炉前の狭い区画が急に小さくなった。全員の言い分が正しい。だからこそ、決まらない。
ここは王たる俺が裁定すべき場面だ。
「静まれ!」
殻を震わせると、竜印炉の火が一瞬だけ高くなった。四人の視線が集まる。よし、威厳は十分。
「水は三日分ある。ならば半分を生活に、半分を探索に回せばよい。公平であろう」
沈黙が落ちた。
俺は名裁定の余韻に浸った。だが誰も頷かない。
「半分って、一日半ずつ?」
ポロがおそるおそる聞いた。
「そうだ」
「石桶は、半分に切れません」
「量の話だ!」
「探索は往復で一日かかるわ」
ミーナが尾を左右に振った。
「四人で行けば、飲み水だけで一日分。傷を負えば洗浄分も要る。一日半では、現地で水を見つけない限り帰れない」
「生活側も同じだ」
ガンツが石札を一本の爪で押さえた。
「炉の冷却、菌床、飲み水、薬草の洗浄では、使う時刻も量も違う。半分という言葉では仕事にならん」
胸を張っていたはずの俺は、殻の底が妙に冷えるのを感じた。
同じ量に分けることが公平だと思った。誰か一人を贔屓せず、王が迷わず線を引けば皆が従える。それが立派な統治だと。
だが、喉が渇いた者と、桶を洗う者と、遠征へ出る者へ、同じ一杯を渡せばよいわけではない。
「アルド」
ミーナの声は静かだった。それが怒鳴られるより痛い。
「あなた、何を守りたいの?」
「全員だ」
「じゃあ、半分という見栄えじゃなくて、全員が明日も動ける量を先に考えて」
見栄え、と言われて反論しかけた。だがポロの前脚は木札から離れず、グラウは傷んだ翼をかばい、ガンツは補修途中の桶を見ている。俺だけが、三という数字を美しく割ることに満足していた。
まただ。
炉を一気に起こそうとして暴走させたときも、赤尾の魔獣を威圧だけで退けようとしたときも、俺は王らしく見える最初の答えへ飛びついた。
「……今の命令は取り消す」
口に出すと、殻へ自分で傷をつけるような気分がした。
ポロが顔を上げる。ガンツは何も言わない。ミーナだけが目を細めた。
「早いわね」
「間違った命令を長く保つ方が、王の沽券に関わるからな」
「間違ったとは言わないのね」
「取り消したことで察せ」
「はいはい」
そのとき、貯水区画の方から、石が擦れる甲高い音がした。
ポロの耳が立つ。
「桶です!」
俺たちは一斉に動いた。正確には、俺はガンツの荷台に載せられて動かされた。
貯水区画へ入った瞬間、鼻があれば顔をしかめていただろう。澄んでいたはずの水面に灰色の泡が浮き、拳大の甲殻獣が六匹、桶の内側へ張りついていた。平たい身体の周囲に八本の脚。透けた顎が濾過布を噛み、底の菌膜を食い荒らしている。
壁際の導水溝から、さらに二匹が這い出した。入口は指二本ほどの細い隙間だ。大型の敵を防ぐ石蓋が、こいつらには橋になっていた。
俺は一番近い個体へ意識を向ける。
【鑑定結果】
種族:水潜り甲殻(個体ランクF)
HP:18(ランクF)
MP:12(ランクF)
攻撃:9(ランクG)
防御:21(ランクF)
速度:14(ランクF)
技能:水隠れ:ランクF Lv2
技能:濾過噛み:ランクF Lv1
「強くはない。だが水中で姿を薄くし、布と柔らかい石灰を噛む。桶を壊す気だ」
「全部倒す?」
ミーナが爪を出した。
「待て。水の中で潰せば汚れる」
俺が止めるより先に、ポロが小石を導水溝へ投げた。甲殻獣の二匹が振動へ反応し、桶から離れる。
「音を追います。水から出したら、ミーナさんが」
「分かった。ガンツ、入口を塞げる?」
「塞ぐだけならすぐだ。だが水も止まる」
「なら全部塞ぐな」
俺は殻響探知を壁へ流した。石の向こうで、硬い脚がかすかに動く。導水溝は一本ではない。細い割れ目が三方へ広がり、そのうち右側から水と甲殻獣が来ている。
「右の隙間だけだ。奥に少なくとも四匹。ポロ、誘い出せ。ミーナは乾いた床で仕留めろ。グラウは桶の上から風を流し、死骸や泥を水へ戻すな。ガンツ、俺を入口へ寄せろ」
「お前は何をする」
グラウが問う。
「王として見守る」
「荷台から降りられないだけでしょう」
ミーナの指摘を無視し、俺は殻響を一定の間隔で打った。
最初の二匹はうまくいった。ポロの小石を追って浅い皿へ出たところを、ミーナが一匹ずつ裏返す。柔らかい腹を爪で押さえ、ガンツが木槌で止めを刺した。グラウの風が飛び散った泥を壁際へ寄せ、水面は濁らない。
だが三匹目は石を追わなかった。
水隠れで輪郭を消し、桶の底を這ってポロの足元へ回り込んだ。透明な顎が小さな後ろ脚を挟む。
「ひっ!」
ポロが水へ倒れた。別の二匹も一斉に姿を現し、揺れた濾過布へ群がる。
「ポロ!」
ミーナが飛び込もうとする。
「水へ入るな、布を上げろ!」
俺は叫びながら、殻の底を荷台へ打ちつけた。強い振動が桶を伝い、甲殻獣の触角がこちらへ向く。一匹がポロを放し、桶の縁を越えて俺へ跳んだ。
硬い脚が殻を引っ掻く。噛みつかれても殻は破れない。だが荷台の固定革へ顎が食い込んだ。
「この無礼者め!」
俺が身体を揺すると、荷台が傾いた。甲殻獣は離れたが、俺も床へ転がり落ちる。
「アルド!」
「計算通りだ!」
もちろん嘘である。
だが低い位置からなら、桶の底へ殻響を直接送れる。俺は転がった勢いのまま石桶へぶつかり、短く三度、振動を放った。水隠れが波紋で崩れ、残った個体の位置が浮かぶ。
「左に二、ポロの後ろに一!」
グラウが風袋の口を絞り、細い風を水面へ叩きつけた。波に押された甲殻獣が片側へ寄る。ガンツは長い板を差し入れ、ポロごと三匹を浅い皿へ掬い上げた。
待ち構えたミーナの爪が一匹目の腹を裂く。二匹目は脚を丸めて防いだ。三匹目がその陰から跳ね、ミーナの顔を狙う。
彼女は首を反らして顎を避け、前脚で床へ押しつけた。しかし防御の硬い背を叩いても、爪が滑る。
「ガンツ、裏返して!」
「押さえろ!」
ガンツの木槌が横から入り、甲殻獣を転がす。ミーナが腹へ二撃。透明な脚が痙攣し、ようやく止まった。
残る一匹は皿から逃げ、導水溝へ走った。
「逃がすな!」
俺が命じると、ポロが濡れた身体で進路へ飛び込んだ。さっき噛まれた脚を引きずりながら、両前脚で濾過砂の袋を倒す。白い砂が溝へ流れ、甲殻獣の脚を埋めた。
ガンツが石板を落とす。甲高い音が一度して、静かになった。
誰もすぐには勝ち鬨を上げなかった。
ミーナはポロの脚を調べ、グラウは風を止めて濁りの広がりを見た。ガンツは桶の縁へ顔を寄せ、亀裂がないか指でなぞる。俺は床で横倒しのまま、皆の呼吸が落ち着くのを待った。
「傷は浅い」
ミーナが言った。
「洗う水は?」
ポロが不安そうに桶を見る。
「使う」
俺は答えた。
「でも、三日分しか」
「傷を洗うための水を惜しんで、明日動けなくなればもっと失う。これは最低保障だ」
先ほどミーナに言われた言葉を借りただけなのに、少しだけ意味が分かった気がした。
ガンツが俺を持ち上げ、荷台へ戻した。
「侵入口だけを塞ぐ。残りの溝には、石蓋の下へ細砂と炭を敷く。甲殻は通さず、水は通す」
「蓋を二重にしましょう」
ポロが痛む脚を浮かせたまま言う。
「上の蓋を毎朝開ければ、砂の汚れを見られます。ぼくが見ます」
「一人で抱えるな」
グラウが短く返した。
「朝は俺も見張りから戻る。二人で確認する」
ポロは驚いたように瞬きし、こくりと頷いた。
その日の昼、俺たちは炉前へ戻り、三枚の水札を改めて並べた。
最初に決めたのは、等分ではない。
五人が一日飲む量。傷を一度洗う量。炉を緊急停止する量。この三つを合わせ、誰も勝手に削れない「最低保障」とした。
次に、探索や狩猟へ持ち出す「任務割当」。人数、距離、帰還時刻、現地で補給できる見込みを書き、出発前に残る者へ伝える。
最後に、桶一つ分の「緊急予備」。火事、毒、重傷のどれかが起きた時だけ開ける。開けた者を罰するのではなく、なぜ必要だったかを全員で確認する。
「規則が多いわね」
ミーナが炭書きの板を眺めた。
「王国には法が必要だからな」
「五人しかいないけど」
「最初の五人が守れぬ法を、五千人が守れるものか」
これは我ながら良いことを言った。
「それ、覚えておくわ」
ミーナがにやりとした。
「あなたが破ったときに言うために」
なぜそうなる。
午後、内政班のポロとガンツは貯水槽の蓋と濾過層を作った。狩猟班のミーナとグラウは出発せず、ポロが泥板に描いた水脈図を囲んだ。俺は中央で、双方の作業へ殻響を伸ばす。
ポロは三本爪の印があった浅瀬を水脈図へ刻み、その先が深層水路へ合流すると確かめた。ただし今は水位が高く、甲殻獣も流れ込んでいる。群れの捜索路を開くには、先に水量と水路の危険を測る必要があった。
ポロの図には、卵殻城から三本の細い線が延びていた。北は赤尾の飛行魔獣が見張る湿地。西は採掘支路で、獲物の足跡が減っている。南東だけは細い湧水が地下へ潜り、その先が空白になっていた。
「ここ、匂いが違いました」
ポロが南東の線を爪で示した。
「水は少ないです。でも、魚の鱗みたいな匂いと、温かい石の匂いがしました」
「魚がいるなら狩場になる」
ミーナの耳が前を向く。
「温かい石は炉の燃料かもしれん」
ガンツも作業の手を止めた。
「待て」
俺は朝に倒した水潜り甲殻の一匹へ鑑定を重ねた。死骸そのものではなく、背の鱗に残る水滴へ意識を絞る。水は桶のものよりわずかに温かい。竜印炉の火とも違う、地の底から押し上げられたような熱だった。
「こいつらは南東から来た。鱗に残った水は、孵化床の石より温かい」
全員が、炉の奥にある浅い石窪みを見た。俺がいつか殻を破るため、ガンツが組み、ポロが水を引き、ミーナとグラウが守ってきた場所。熱はまだ孵化条件へ届いていない。
「温かい水があるなら」
グラウが低く言う。
「お前の殻を割る条件に使えるのか」
胸が高鳴った。手も足もない身体の内側で、小さな爪が動くような錯覚がした。
だが南東の水路が安全だという保証はない。甲殻獣が逃げてきた理由も、温水の流れが細い理由も分からない。
俺はすぐに「行くぞ」と言いかけ、言葉を飲み込んだ。
「明朝、任務割当を申請する」
ミーナが片眉を上げる。
「誰に?」
「全員にだ。水一日分を持ち出し、日暮れまでに戻る。赤尾を避け、南東水路の入口だけを見る。戦闘になれば深追いしない」
「それなら賛成」
「俺もだ」
「ぼくは残って、桶を守ります」
「蓋を仕上げてから行け」
次々に役割が決まっていく。その様子を見ながら、俺は不思議な安堵を覚えた。
命令を取り消した瞬間、王ではなくなる気がして怖かった。
実際には逆だった。間違いを隠して皆を渇かせるより、四人の知恵を借りて一日先へ進む方が、ずっと王らしい。
もちろん、その事実をミーナに言うつもりはない。絶対に得意げな顔をするからだ。
夜、完成した濾過蓋から、澄んだ水が一滴ずつ桶へ落ちた。炉では甲殻獣の脚が焼かれ、食べられるかどうかをミーナが慎重に確かめている。肉は少ないが、今夜を越すには足りる。
俺は温かな鱗を殻へ当てた。
その向こう、深い水路の闇で、岩と岩が擦れるような低い音がした。
甲殻獣のものではない。
もっと長く、重く、流れそのものを塞ぐ何かが、ゆっくり身じろぎしていた。




