第二章 夏 第1話 春祭りから一年
第二章 夏
第1話 春祭りから一年
春祭りの夜から、一年が過ぎた。
あの日、川へ流した小さな灯籠の光を、イリスは今でも時々思い出す。
暗い川面をゆっくり流れていく灯り。
その中に書いた、自分の願い。
みんながずっと笑っていられますように。
五歳の子供が書いた、たどたどしい文字だった。
けれどイリスにとって、それは本気の願いだった。
アレンを失って泣いていたリリィ。
それを支えようとしたフィアたち。
何も言わずに見守っていたガロン。
優しく抱きしめてくれたルナ。
悲しいことは消えなかった。
アレンが帰ってくることもなかった。
それでも、村にはまた朝が来た。
春が終わり、夏が来る。
雨が降り、森が濃くなり、川の水が増え、子供たちは少しずつ背を伸ばした。
イリスは六歳になった。
相変わらず、村でただ一人の人間だった。
けれど、それを理由に避けられることはない。
イリスはイリス。
少なくとも、霧の村ではそうだった。
朝。
イリスが目を覚ますと、窓の外から鳥の声が聞こえた。
夏の朝の空気は少し湿っていて、草と土の匂いがする。
布団から起き上がると、遠くで誰かが薪を割る音がした。
カン、カン、と乾いた音。
村が目を覚まし始めている。
「イリス、ご飯できてるわよ」
台所からルナの声がした。
狼獣人の母。
血は繋がっていない。
けれどイリスにとって、母はルナだけだった。
「うん」
イリスは返事をして、顔を洗いに行った。
食卓にはパンとスープ、それから焼いた肉が並んでいた。
ガロンはすでに席に座っている。
狼獣人の父。
村でも有数の狩人。
大きな体と鋭い目を持つが、イリスはその手が優しいことを知っている。
「おはよう、父さん」
「ああ」
ガロンは短く返した。
いつも通りだ。
けれど今日は、少しだけ違った。
ガロンは食事に手をつける前から、何かを考えているようだった。
腕を組み、黙ってイリスを見ている。
ルナもそれに気付いているらしい。
スープをよそいながら、ちらりとガロンを見た。
「あなた、本当に今日なの?」
「ああ」
ガロンは短く答えた。
イリスは首を傾げた。
「今日?」
ガロンはイリスを見た。
「今日は俺と来い」
「どこへ?」
「森だ」
森なら何度も行ったことがある。
フィアたちと遊びに行ったこともあるし、村の近くなら一人で歩くこともある。
けれどガロンの言い方は、いつもの散歩とは違っていた。
ルナが少し心配そうに言う。
「まだ早くない?」
「そろそろだ」
「でも……」
「遠くまでは行かん。見るだけだ」
ルナは少し黙った。
それから、イリスの方を見て優しく笑った。
「気を付けてね」
イリスはまだ意味が分からなかった。
けれど、なんとなく大切なことなのだと感じた。
ガロンが言う。
「今日は狩りだ」
その言葉を聞いた瞬間、イリスの胸が少しだけ跳ねた。
狩り。
遊びではない。
木の枝を剣に見立てて振り回すことでもない。
大人たちが森で行う、本物の仕事。
村で生きるための力。
家族を養うための力。
危険から仲間を守るための力。
ガロンがそれを教えてくれる。
そう思うと、嬉しさと緊張が同時に湧いてきた。
「僕も行っていいの?」
「ああ」
「本当に?」
「二度言わせるな」
ガロンはそう言ったが、怒っているわけではなかった。
イリスは嬉しくなって、パンを少し大きめにかじった。
その時だった。
ドンドンドンドン!
玄関が大きく叩かれた。
「イリスーーー!!」
聞き慣れた声。
フィアだった。
「起きてる!? 大変!! 大変だよーー!!」
ガロンの眉がぴくりと動いた。
「壊すな」
玄関の向こうからフィアの声が返ってくる。
「壊してない!」
「壊れそうだ」
「まだ壊れてない!」
「そういう問題じゃない」
ルナが小さく笑った。
「朝から元気ね」
イリスは席を立って玄関へ向かった。
扉を開けると、そこにはフィアがいた。
六歳になった狼獣人の女の子。
去年より少し背が伸びた。
けれど、元気いっぱいなところは何も変わっていない。
狼耳はぴんと立ち、尻尾は慌ただしく揺れている。
「イリス!」
「どうしたの?」
「ソラが!」
「ソラ?」
「木に引っかかった!」
イリスは一瞬、言葉を失った。
「……また?」
「またって言わないで! でも今回は本当に大変なの!」
フィアは両手をぶんぶん振る。
「逆さまなの! 足が枝に引っかかって、ずっと『助けてー!』って!」
食卓からガロンの深いため息が聞こえた。
ルナがぽつりと言う。
「去年も似たようなことがあったわね」
ガロンが答える。
「三回あった」
イリスは驚いた。
「三回も?」
「お前が知らないだけだ」
フィアが焦ったように言う。
「とにかく早く来て! 泣いてるから!」
ガロンはしばらく黙っていた。
今日、本当ならイリスと二人で狩りに行く予定だった。
大事な日だったはずだ。
けれどガロンは立ち上がった。
「行くぞ」
イリスはガロンを見上げた。
「狩りは?」
「その前に、木に引っかかった鳥を降ろす」
フィアが叫ぶ。
「ソラは鳥じゃないよ!」
「似たようなものだ」
「たぶん怒るよ!」
「怒れるなら元気だ」
ルナが苦笑しながら、イリスに小さな布袋を渡した。
「水と少し食べ物を入れてあるわ。持っていきなさい」
「ありがとう、母さん」
「ソラちゃんも怪我してないか見てあげてね」
「うん」
イリスは布袋を肩にかけた。
家を出ると、夏の光がまぶしかった。
村の道には朝露が残っている。
遠くでは兎獣人たちが畑仕事を始めていた。
フィアは先頭を走り出し、すぐに振り返った。
「こっち!」
ガロンは慌てず歩く。
イリスはその隣を歩いた。
森の入口へ向かう途中、フィアはずっと話し続けていた。
「私、最初は止めたんだよ? 高すぎるって。でもソラが『今日は風を読む練習だから大丈夫!』って言って」
「それで?」
「大丈夫じゃなかった」
ガロンが低く言う。
「だろうな」
しばらく歩くと、森の奥から声が聞こえた。
「たすけてぇぇぇぇ!!」
間違いなくソラだった。
「もうやだぁぁぁ!! 羽が疲れたぁぁぁ!!」
フィアが指差す。
「あそこ!」
大きな樫の木だった。
太い幹。
広がる枝。
その高い場所に、ソラがいた。
ハーピーの少女。
六歳になり、飛ぶのは前より上手くなった。
けれど今は、その翼をばたばたさせながら、完全に逆さまにぶら下がっている。
片足が枝に引っかかっていた。
「イリスー! ガロンおじちゃーん!」
ソラは涙目で叫んだ。
「助けてぇ!」
ガロンは木を見上げた。
しばらく沈黙。
そして言った。
「自力で降りろ」
ソラが叫ぶ。
「鬼ぃぃぃ!!」
フィアが思わず笑った。
「ソラ、昨日も調子に乗ったら駄目って言ったのに」
「ちょっとだけ! ちょっとだけ高く飛ぼうとしただけ!」
「ちょっとじゃなかったよ!」
「風が悪かったの!」
ガロンが淡々と言う。
「風は言い訳をしない」
ソラは言葉に詰まった。
イリスも少し笑ってしまった。
けれどソラは本当に困っている。
高い場所だ。
落ちれば怪我をするかもしれない。
ガロンはイリスを見た。
「どうする」
「え?」
「お前ならどう助ける」
イリスは木を見上げた。
ソラは枝に引っかかっている。
かなり高い。
フィアなら木登りができる。
でも、ソラを支えようとして一緒に落ちるかもしれない。
ガロンは答えを教えてくれない。
ただ、見ている。
イリスは少し考えた。
助ける。
でも、ただ急いで登ればいいわけではない。
去年、リリィを家に入れた時のことを思い出す。
あの時も、まず見た。
誰なのか。
危険はないか。
それから動いた。
今日も同じだ。
「みんなで考えよう」
イリスが言うと、フィアが目を輝かせた。
「おお! 作戦会議!」
ソラが木の上から叫ぶ。
「会議より助けて!」
ガロンが短く言う。
「黙れ」
「はい……」
イリスは木の下へ近付き、地面を見た。
落ち葉がある。
草もある。
近くには柔らかそうな低木もある。
上を見る。
ソラの足が引っかかっている枝は、少し細い。
ミシッ。
嫌な音がした。
ソラの顔が青くなる。
「今、鳴った?」
フィアも固まる。
「鳴った」
もうあまり時間はない。
イリスは地面を指差した。
「落ちても大丈夫なように、下に柔らかいものを集めよう」
フィアが耳を立てる。
「あっ、そっか!」
二人は急いで落ち葉を集め始めた。
草を引き寄せ、低木の柔らかい枝も重ねる。
イリスは布袋を外し、邪魔にならない場所へ置いた。
ソラは涙目で叫ぶ。
「本当に落ちる前提なの!?」
フィアが答える。
「落ちなかったら使わないから大丈夫!」
「大丈夫じゃない!」
ガロンは黙って見ていた。
やがて木の下には、簡単な落下受けができた。
完璧ではない。
けれど、何もないよりはずっといい。
ガロンが初めて頷いた。
「悪くない」
イリスは顔を上げた。
ガロンに褒められることは少ない。
胸の奥が少し熱くなる。
「最悪を考えろ」
ガロンは言った。
「狩りでも同じだ。成功だけを見るな。失敗した時を考えろ」
その言葉が終わるか終わらないかのうちに、
ミシッ!
枝が大きく鳴った。
ソラが叫ぶ。
「ひぃぃぃ!?」
次の瞬間、枝が折れた。
ソラの体が落ちる。
「ソラ!」
フィアが叫んだ。
ドサァッ!
落ち葉と草の山に、ソラが落ちた。
一瞬、静かになった。
イリスもフィアも息を止める。
「ソラ?」
落ち葉の山がもぞもぞ動いた。
そして、葉っぱまみれの手が出てきた。
「……生きてる」
フィアが駆け寄った。
「よかったぁ!」
ソラは泥と葉っぱまみれになっていた。
目には涙が浮かんでいる。
けれど、大きな怪我はなさそうだった。
ガロンが近付く。
そして、ソラの頭を軽く小突いた。
こつん。
「あうっ」
「覚えたか」
ソラはしゅんとうなずいた。
「覚えた……」
「空を飛べても落ちる」
「うん……」
「高く飛ぶなら、落ちた時のことも考えろ」
「はい……」
フィアが小声で言う。
「珍しく素直」
ソラが涙目で反論する。
「怖かったんだもん!」
イリスはほっと息を吐いた。
助かった。
本当に良かった。
ガロンは今度はイリスを見る。
「よく考えた」
その一言だけだった。
けれどイリスには、それで十分だった。
フィアが自分のことのように嬉しそうに笑う。
「すごいね、イリス!」
ソラも落ち葉を払いながら言う。
「助かった……ありがとう」
イリスは少し照れた。
「よかった」
その時、ガロンが森の奥へ視線を向けた。
「さて」
声が変わった。
「本題だ」
イリスは思い出す。
今日の本当の目的。
狩り。
ガロンは言った。
「行くぞ」
フィアが目を丸くする。
「えっ」
ソラも慌てる。
「えっ、もう行くの?」
「イリスだけだ」
ガロンの言葉に、フィアの耳がしゅんと下がった。
「私も行きたかった……」
その声には、いつもの勢いがなかった。
イリスはフィアの前に立った。
「行ってくる」
フィアは唇を尖らせる。
「ずるい」
「帰ったら話す」
「本当?」
「うん」
「全部?」
「全部」
フィアは少し考えてから、小指を差し出した。
「約束」
イリスも小指を出した。
二人の小さな指が絡む。
「約束」
フィアの耳が少し立った。
「じゃあ許す!」
ソラが言う。
「偉そう!」
「ソラは落ちてたでしょ!」
「それは今関係ない!」
二人のやり取りに、イリスは笑った。
ガロンはすでに歩き始めている。
「遅れるな」
「うん」
イリスは振り返った。
フィア。
ソラ。
そして少し離れた木陰から、ミィとセリナもこちらを見ていた。
どうやら二人も様子を見に来ていたらしい。
ミィは眠そうに手を振る。
セリナは本を抱えたまま、小さく頷いた。
みんなが見送っている。
初めての狩り。
胸が高鳴る。
少し怖い。
でも、ガロンがいる。
だからイリスは森の奥へ踏み出した。
夏の森は深く、青く、静かだった。
村の声が遠ざかる。
鳥の声。
風の音。
葉がこすれる音。
そして、ガロンの足音。
イリスはその背中を追いながら思った。
今日、自分は少しだけ大人に近付くのかもしれない。
まだ六歳。
まだ小さな子供。
けれど、守りたいものはもうある。
家族。
友達。
村。
そして、去年の春祭りで願ったこと。
みんながずっと笑っていられますように。
その願いを叶えるための最初の一歩が、今始まろうとしていた。




