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魔物に育てられた人間  作者: イリス


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第一章 春 第一話 拾われた子

第一章 春

第一話 拾われた子


 イリスは、人間だった。


 けれど、人間として育ったことはなかった。


 深い森の奥。

 霧に包まれた谷。

 そこには、人間の地図には載っていない小さな村があった。


 村に住んでいるのは、人間たちが「魔物」と呼ぶ者たちだった。


 狼獣人。

 狐獣人。

 猫獣人。

 兎獣人。

 ハーピー。

 ラミア。

 ゴブリン。

 オーク。


 人間たちから見れば、恐ろしい魔物の集落。

 けれどイリスにとっては、そこが世界のすべてだった。


 五年前の雨の日。

 森の外れで、赤ん坊が泣いていた。


 泥にまみれた布に包まれ、冷たい雨に打たれながら、小さな声で泣いていた。


 その赤ん坊を見つけたのは、狼獣人の女だった。


 名を、ルナという。


 ルナは村の薬師だった。

 優しく、よく笑い、困っている者を放っておけない女だった。


 彼女は赤ん坊を見つけた瞬間、迷わなかった。


「あなた、どうしてこんなところに……」


 赤ん坊は人間だった。


 丸い耳。

 尻尾もない。

 牙もない。

 爪も弱い。


 森で生きるには、あまりにも弱い命だった。


 ルナは赤ん坊を抱き上げた。


 その体は冷えきっていた。

 けれど、まだ生きていた。


 家へ連れて帰ると、夫のガロンは黙って赤ん坊を見た。


 ガロンは村一番の狩人だった。

 大きな体。

 鋭い目。

 寡黙で、村の子供たちからは少し怖がられている狼獣人だった。


 ガロンは赤ん坊を見下ろし、低い声で言った。


「人間だな」


 ルナは赤ん坊を抱いたまま頷いた。


「ええ」


「どうするつもりだ」


「育てるわ」


 ガロンは黙った。


 外では雨が降っている。

 森は暗く、風は冷たい。


 しばらくして、ガロンは短く息を吐いた。


「……そうか」


「反対しないの?」


「子供だ」


 ガロンはそう言った。


「人間だろうが、魔物だろうが、子供は子供だ」


 ルナは少しだけ笑った。


「じゃあ、この子はうちの子ね」


「ああ」


 ガロンは赤ん坊の小さな手を見た。


 弱く、頼りなく、それでも必死に生きようとしている手だった。


「うちの子だ」


 こうして、その赤ん坊は狼獣人の夫婦に育てられることになった。


 名前はイリス。


 誰が捨てたのか。

 本当の父と母は誰なのか。

 なぜ森にいたのか。


 何も分からなかった。


 けれど、ガロンとルナはそれを気にしなかった。


 大切なのは、今ここにいること。

 生きていること。

 そして、家族になったこと。


 それだけだった。


 それから五年が過ぎた。


 春の朝。


 イリスは柔らかなベッドの中で目を覚ました。


 窓の外では鳥が鳴いている。

 朝の光が木の隙間から差し込み、部屋の床に揺れる影を落としていた。


 家の中からは、温かい匂いがした。


 野菜スープ。

 焼きたてのパン。

 木の実のジャム。


 ルナの声が聞こえる。


「イリスー。朝ご飯できたわよー」


 イリスは布団の中でもぞもぞと動いた。


 まだ眠い。

 でも、お腹は空いている。


 起きようか、もう少し寝ようか。

 五歳のイリスにとって、それは朝一番の大問題だった。


 その時だった。


 ドンドンドンドン!


 玄関を叩く大きな音が響いた。


「イリスー!!」


 元気な声。


「遊ぼう!!」


 イリスはすぐに分かった。


 フィアだ。


 近所に住んでいる猫獣人の女の子。

 イリスと同い年で、毎日のように遊びに来る幼馴染だった。


 ルナの呆れた声が聞こえる。


「また朝から来てるわねぇ。ご飯を食べてからにしなさいって言ってるのに」


 玄関の向こうから、フィアの声が返ってくる。


「じゃあ一緒に食べるー!!」


 ルナは小さく笑った。


「本当に元気な子ね」


 食卓に座っていたガロンが、木板に刻まれた村の知らせを読みながら、ぼそりと言った。


「いつものことだ」


 その口元は、ほんの少しだけ笑っていた。


 イリスはベッドから飛び起きた。

 まだ少し寝癖がついたまま、玄関へ向かう。


 扉を開けると、そこにはフィアが立っていた。


 ふわふわの狼耳。

 小さく揺れる尻尾。

 朝から走り回っていたのか、足元は少し泥だらけだった。


 フィアはイリスを見るなり、満面の笑みを浮かべた。


「イリスー!」


 そして飛びついてきた。


 ぎゅうっと抱きつかれ、イリスは少しよろける。


「おはよう、フィア」


「おはよう!」


 後ろからルナの声が飛ぶ。


「こらフィア。まず挨拶」


 フィアは慌ててイリスから離れ、背筋を伸ばした。


「お、おはようございます!」


「よろしい」


 ルナは満足そうに頷いた。


 イリスはフィアを見上げる。


「一緒に朝ご飯食べよう」


 フィアの耳がぴんと立った。


「いいの!?」


「うん」


 ルナが苦笑する。


「どうせもうそうなると思ってたわ」


 ガロンは短く言った。


「フィアの家には伝えておけ」


 フィアは得意げに胸を張る。


「お父さん知ってるよ!」


「そうか」


 どうやら本当に、いつものことらしい。


 四人は食卓についた。


 ルナ特製の野菜スープ。

 焼きたてのパン。

 森で採れた木の実のジャム。


 フィアは目を輝かせていた。


「いただきます!」


「いただきます」


 ルナが微笑む。


「いただきます」


 ガロンも静かに言う。


 イリスも手を合わせた。


「いただきます」


 温かい朝食。

 窓から入る春の風。

 向かいにはガロン。

 隣にはルナ。

 そして、隣の席にはフィア。


 イリスにとって、それは当たり前の朝だった。


 パンをかじっていると、フィアがじっとこちらを見ていた。


「ねぇイリス」


「なに?」


「今日ね!」


 フィアは尻尾をぶんぶん振った。


「森の奥の秘密基地に行こう!」


 秘密基地。


 去年、イリスとフィアが見つけた大きな木の洞だった。

 二人だけの場所。

 枝や葉っぱを集めて、そこを家みたいにして遊んだ場所。


 イリスの顔も明るくなる。


「行きたい」


 しかし、その時。


「駄目だ」


 ガロンの声が食卓に落ちた。


 低く、静かな声。

 怒っているわけではない。

 けれど、それだけでフィアの耳がしゅんと下がった。


「えぇー!?」


 ガロンはパンを置き、二人を見た。


「最近、森の外れで見慣れない足跡が見つかっている」


 ルナの表情も少し真面目になる。


「子供だけで遠くへ行くのは危ないわ」


 フィアは口を尖らせた。


「うぅ……」


 ガロンは続けた。


「村の近くなら遊んでもいい。夕方までには帰れ」


 フィアの尻尾が少しだけ動いた。


「村の近くならいいの?」


「ああ」


「やった!」


 フィアはすぐ元気を取り戻した。


 けれどイリスは、ガロンの言葉が少し気になっていた。


 見慣れない足跡。


 それが何なのか、五歳のイリスにはよく分からない。


 でも、ガロンとルナが警戒している。

 それだけは分かった。


 朝食を終えると、イリスとフィアは家を飛び出した。


 外は快晴だった。


 村の中央広場では、大人たちが仕事を始めている。


 鍛冶屋からは、カンカンという金属の音。

 畑では兎獣人たちが作業をしている。

 屋根の上ではハーピーの子供たちが羽を広げ、飛ぶ練習をしている。


 フィアはイリスの手を掴んだ。


「今日は探検だー!」


 村はイリスにとって、遊び場そのものだった。


 生まれた時から見ている景色。

 でも毎日少しずつ違う。


 広場を歩いていると、木陰から眠そうな声がした。


「おはよー」


 猫獣人の女の子が、丸くなっていた。


 名前はミィ。

 イリスやフィアと同い年で、いつも眠そうにしている。


 ミィは大きな欠伸をしながら手を振った。


 フィアが駆け寄る。


「ミィ! 遊ぼう!」


「んー……いいよー」


 けれどミィは立ち上がらない。


「立ってよ!」


「めんどくさいー」


「むぅー!」


 二人はいつもこんな調子だった。


 その時、上から影が落ちた。


「みーつけたー!!」


 ドサッ。


 何かがイリスの背中に着地した。


「うわっ!」


 振り返ると、羽をばたばたさせる少女が笑っていた。


 ハーピーのソラ。

 同じく五歳。

 元気すぎて、いつも高いところから飛び降りてくる。


「今日はどこ行くの!?」


 フィアが元気よく答える。


「探検!」


「いいね!」


 ミィがぼそりと言う。


「眠い」


 ソラが笑う。


「ミィはいつも眠いじゃん!」


 そうして三人、いや四人で騒いでいると、広場の反対側から本を抱えた狐獣人の少女が歩いてきた。


 セリナ。


 イリスたちより一つ年上の六歳。

 頭が良く、本を読むのが好きで、少しだけ大人びている。


 セリナは騒ぐ四人を見て、呆れたように言った。


「また騒いでる」


 フィアが手を振る。


「セリナー!」


「私は遊びじゃなくて勉強」


 そう言いながら、セリナは帰らなかった。


 気になっているのは明らかだった。


 その時、広場の隅で大きな声が響いた。


「だから勝手に森へ入るなと言っただろう!」


 村長のバルドだった。


 大きな体のオーク。

 太い腕。

 鋭い牙。

 怖そうな顔。


 けれど村の子供たちは知っている。

 バルドは本当は優しい。


 叱られているのは、若いゴブリンの青年だった。


 何かあったらしい。


 フィアの耳がぴくりと動く。


「何だろ?」


 ソラが身を乗り出す。


「見に行く?」


 ミィは目を細める。


「寝たい」


 セリナは冷静だった。


「どうせまた誰か怒られてるだけでしょ」


 けれどイリスは気になった。


 朝、ガロンが言っていた。


 森の外れで、見慣れない足跡が見つかったと。


 もしかしたら、それと関係があるのかもしれない。


 イリスはバルドの方へ歩き出した。


 フィアが驚く。


「えっ、本当に聞きに行くの?」


 ソラも少し不安そうに言う。


「怒られない?」


 ミィは欠伸をしながら言った。


「怒られたら帰ろう」


 セリナは本を抱え直す。


「普通に聞けば怒られないと思うけど」


 結局、全員ついてきた。


 バルドはイリスたちに気付いた。


「ん? どうした坊主ども」


 フィアは少しだけイリスの後ろに隠れた。


 イリスはバルドを見上げる。


「何があったの?」


 バルドは少し考えた。


 子供に話すべきか迷っているようだった。


 けれど、やがて大きな体をかがめ、イリスたちと目線を合わせた。


「森の外れでな」


 バルドは静かに言った。


「人間の足跡が見つかった」


 その瞬間、周囲の空気が変わった。


 フィアの耳が伏せられる。

 ソラの笑顔が消える。

 ミィも目を開く。

 セリナは黙った。


 人間。


 子供たちでも知っている言葉だった。


 人間は危険。

 人間に見つかるな。

 人間は魔物を殺す。


 大人たちは何度もそう教えていた。


 イリスは人間だ。


 けれど、村のみんなが言う「人間」は、イリスのことではない。


 森の外にいる人間たち。

 村を見つけたら、きっと襲ってくる存在。


 バルドは続けた。


「まだ村は見つかっていない。だが近付いている。だから森の奥へは行くな。いいな?」


 子供たちは頷いた。


 その時だった。


「村長ー!」


 狼獣人の若い狩人が走ってきた。


 ロウ。

 二十一歳。

 ガロンの弟子で、村の見張りをしている若者だった。


 ロウは息を切らしながら叫んだ。


「見つかった! 足跡だけじゃない!」


 バルドの顔が険しくなる。


「何を見つけた」


「人間の野営跡だ!」


 広場がざわついた。


「人数は分からない! でも最近のものだ!」


 大人たちの顔色が変わる。


 人間が森に入ってきている。


 それがどういう意味なのか、五歳のイリスには完全には分からなかった。


 けれど、大人たちが恐れていることだけは分かった。


 バルドは立ち上がった。


「ガロンを呼べ。見張りを増やせ。子供たちは家から遠くへ行くな」


 周囲が慌ただしく動き始める。


 フィアがそっとイリスの服を掴んだ。


「ねぇ、イリス」


 その声は小さかった。


「人間って、本当に怖いのかな……」


 イリスはフィアを見る。


 いつも元気なフィアの耳が、ぺたんと伏せられていた。


 イリスはフィアの頭をぽんぽんと撫でた。


「大丈夫だよ」


 フィアが顔を上げる。


「ほんと?」


「うん。村にはガロン父さんもいるし、バルド村長もいる。みんな強いから」


 フィアは少し考えてから、こくりと頷いた。


「そっか。ガロンおじちゃん強いもんね」


 尻尾が少しだけ動く。


 ソラがそれを見て笑った。


「フィアって怖がりー!」


「こ、怖がってないもん!」


「さっき耳ぺたーってなってた!」


「なってない!」


 ミィが静かに言う。


「なってた」


「ミィまでー!?」


 セリナは本を抱えたまま、小さく笑った。


「でも、イリスがそう言うなら大丈夫かもね」


 イリスは気付かなかった。


 その言葉に、少しだけ特別な響きがあったことに。


 イリスは人間だ。


 本来なら恐れられてもおかしくない。


 でも、フィアも、ミィも、ソラも、セリナも。

 誰もイリスを怖がらなかった。


 当たり前のように、仲間だと思っていた。


 それが、イリスの日常だった。


 だが、その日常は少しずつ変わり始めていた。


 遠くから、ルナの声が聞こえた。


「イリスー!」


 振り向くと、ルナがこちらへ歩いてきていた。


 いつもの優しい顔ではなかった。

 薬師として、そして村の大人としての真面目な顔だった。


 ルナは子供たちの前でしゃがみ込んだ。


「みんな聞いてね。今日は森の外れに近付いちゃ駄目よ。絶対に」


 フィアたちは真面目に頷いた。


 ルナはイリスを見る。


「イリス」


「なに?」


「今日は家にいてくれる?」


 イリスは首をかしげた。


「どうして?」


 ルナは少しだけ言葉を選んだ。


「人間が近くにいるかもしれないから」


「でも見つかってないんでしょ?」


「ええ」


 ルナは静かに言った。


「まだね」


 その「まだ」という言葉には、イリスにも分かるほどの重みがあった。


 ルナはイリスの頭を撫でた。


「イリス。あなたは優しい子だから、もし怪我している人がいたら助けようとするでしょう?」


 イリスは頷いた。


 当たり前だと思った。


 すると、ルナは少し悲しそうに笑った。


「だから心配なの」


「どうして?」


「世の中には、助けてもらったからって感謝する人ばかりじゃない。それが人間でも、魔物でもね」


 珍しい言葉だった。


 ルナは人間を嫌っている。

 イリスはなんとなくそう思っていた。


 でも今の言い方は違った。


 まるで、人間を憎んでいるのではなく、怖がっているようだった。


 フィアが小さく手を挙げた。


「ルナおばちゃん」


「なぁに?」


「人間って、どうして魔物を嫌うの?」


 ルナはすぐには答えなかった。


 少し考えてから、静かに言う。


「怖いからよ」


「怖い?」


「そう。人間は魔物が怖い。魔物は人間が怖い。だから先に攻撃する」


 セリナが本を閉じた。


「じゃあ、ずっと終わらないじゃない」


 ルナは寂しそうに笑った。


「そうね」


 その時だった。


 森の方から、低い角笛の音が響いた。


 ブォォォォォ――。


 広場にいた大人たちが一斉に振り向く。


 空気が張り詰めた。


 バルドの声が飛ぶ。


「見張り塔からだ! 何かあったぞ!」


 ロウをはじめとした狩人たちが駆け出す。


 その中に、ガロンの姿もあった。


 ルナも立ち上がる。

 薬師として負傷者の準備をしなければならない。


 フィアが不安そうにイリスの袖を握った。

 ソラは珍しく黙っている。

 ミィも眠そうな顔を消していた。

 セリナは見張り塔の方をじっと見つめている。


 まだ何が起きたか分からない。


 けれど、子供たちにも分かった。


 何か良くないことが起きたのだ。


 イリスはルナを見た。


 ルナは心配そうだった。


 だからイリスは頷いた。


「わかった。家にいる」


 ルナの表情が少しだけ柔らかくなる。


「ありがとう」


 そしてルナはイリスを抱きしめた。


「良い子ね」


 五歳のイリスには少し照れくさかった。


 フィアはそれを見て、少し羨ましそうな顔をしていた。


 ルナは子供たちにも言う。


「フィア、ソラ、ミィ、セリナ。今日は遠くへ行かないこと」


 全員が頷いた。


 そしてルナは走っていった。


 薬師として。

 村の大人として。


 残された子供たちは、しばらく黙っていた。


 最初に口を開いたのはミィだった。


「じゃあ、イリスの家で遊ぶ?」


 フィアがすぐに頷く。


「遊ぶ!」


 ソラも手を上げた。


「遊ぶ!」


 セリナは本を抱え直す。


「本読むなら」


 結局、みんな来ることになった。


 昼前。


 ガロンもルナもいない家に、子供たちだけが集まった。


 フィアはすぐに床へ座った。

 ソラは窓から外を見ている。

 ミィはクッションを見つけた瞬間、そこに寝転がった。

 セリナは本を開いた。


 しばらく平和な時間が流れた。


 すると、セリナが本から顔を上げた。


「ねぇ」


「なに?」


 イリスが見る。


 セリナは少しだけ言いにくそうにしながらも、聞いた。


「イリスってさ、自分の本当のお父さんとお母さんのこと覚えてる?」


 部屋が静かになった。


 フィアが慌てる。


「セリナ!」


「気になっただけ」


 セリナに悪気はなかった。

 本当に気になっただけだった。


 イリスは少し考える。


 本当の父。

 本当の母。


 思い出そうとしても、何も浮かばない。


 顔も。

 名前も。

 声も。


 何も。


 だから素直に答えた。


「覚えてない」


 フィアの肩から少し力が抜けた。

 傷付いていないなら良かった、と思ったらしい。


 セリナは黙って頷いた。


「そっか。ごめん」


「別にいいよ」


 イリスは本当に気にしていなかった。


 なぜなら、イリスにとっての父親はガロンで、母親はルナだった。

 それ以外を知らない。


 その時、ミィが寝転がったまま呟いた。


「でもさ」


 みんなが見る。


「捨てたんだよね?」


 静かになった。


 ミィに悪意はなかった。

 ただ事実を言っただけだった。


 でも子供たちにも分かる。


 赤ん坊だったイリスは、森で見つかった。

 つまり、誰かが置いていったのだ。


 フィアが少し怒る。


「そんな言い方しなくてもいいじゃん」


「事実」


「うぅ……」


 フィアは言い返せなかった。


 その時、セリナが本を閉じた。


「違うかもしれない」


 みんなが見る。


「何か理由があったのかもしれない。事故とか、逃げてたとか、守るためとか」


 フィアがすぐに頷く。


「そうだよ!」


 ソラも続く。


「そうかもしれない!」


 イリスはそれを聞いていた。


 正直、分からなかった。


 捨てられたのか。

 守られたのか。

 事故だったのか。


 何も知らない。


 けれど、一つだけ分かることがあった。


 ガロンとルナは拾ってくれた。


 それだけは事実だった。


 その時だった。


 ドンドンドン!


 急に玄関が叩かれた。


 子供たち全員がびくっとする。


 フィアの耳が立った。

 ソラが窓を見る。


 そして聞き慣れた声がした。


「イリス!」


 ロウだった。


 イリスが扉を開けると、ロウは息を切らしていた。


「ガロンさんから伝言だ!」


 かなり慌てている。


「しばらく家から出るな! 村の門を閉じる!」


 子供たちの顔が変わる。


 村の門を閉じる。


 それは普通のことではなかった。

 年に一度あるかどうか。


 つまり、何かが起きている。


 ロウは周囲を確認しながら言った。


「まだ大丈夫だ。でも今日は家にいろ」


 そう言い残して、ロウは再び走っていった。


 家の中には、重い空気が残った。


 フィアが小さく呟く。


「怖い……」


 さっきまでの遊びの空気は消えていた。


 窓の外では、村の大人たちが武器を持って動き始めている。


 五歳の子供たちはまだ知らない。


 この日が、イリスの人生で初めて「人間」という存在を強く意識する日になることを。

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