第五回
第五回:蝶の残像
あれから、6年の歳月が流れた。
かつて雪山を彷徨った少女は、今や掌楽院の奴婢として、王宮の華やかな旋律を支える「影」となっていた。
宮廷は、世界で最も美しく、最も冷酷な「清書」が行われる場所だ。ここでは王の言葉一つ、銀のペンの一振りで、人の命も、歴史の真実も、一瞬にして書き換えられてしまう。
ビアンは、楽器の埃を払いながら、常に周囲を観察していた。彼女の懐には、短くなった鉛筆と、すり減った消しゴムが隠されている。それは、奪われた父と兄の無念を証明するための、たった一つの武器だった。
「ビアン、手を休めるな。今日はチャン尚宮様がお入りになる日だ」
古参の奴婢の声に、ビアンは顔を上げた。宮廷内は、南人の重臣オ・テソクが推挙したチャン尚宮の入宮を巡り、明聖大妃率いる西人の激しい反発で、目に見えない火花が散っていた。
入宮の儀。その空気は、音楽の華やかさとは裏腹に、鋭い刃物のようだった。
西人の重臣チョン・イングクが、冷ややかな視線を向ける。彼の背後には、かつてビアンを雪山に追い詰めたソ・ヨンギの姿もあった。彼は今や、王の護衛を司る要職に就き、より強大な「銀の筆致」を振るっている。
一方で、南人のオ・テソクは、勝ち誇ったように笑みを浮かべていた。
「歴史は、常に新しい色で塗り替えられるものだ。大妃様、これこそが王様の望まれる『記録』でございます」
その言葉は、西人が築き上げてきた「正義」という名の記録に、一滴の黒いインクを落としたに等しかった。宮廷という巨大な帳面の上で、勢力図が激しく書き換えられようとしていた。
その時、輿の中から一人の女性が姿を現した。
チャン尚宮。その美しさは、見る者の息を止めるほどに鮮烈だった。だが、ビアンの目を奪ったのは、彼女の美貌ではなかった。
チャン尚宮の腰に揺れる、精巧な細工。
――蝶の鍵飾り。
ビアンの心臓が、早鐘のように打ち鳴らされた。あの夜、父と兄を奈落へ突き落とした事件の現場で、確かに目撃したあの輝き。
「……見つけた」
思わず漏れそうになった声を、ビアンは唇を噛んで飲み込んだ。
チャン尚宮がゆっくりと歩を進めるたび、蝶の翅が嘲笑うように揺れる。それは、6年間探し続けた復讐の道標であり、同時に、この宮廷という「完成された世界」を根底から覆すための、危険な空白だった。
宴が始まり、掌楽院の奏でる音楽が宮殿に満ちる。
ビアンは端で平伏しながら、視線だけをチャン尚宮に固定していた。彼女が微笑むたび、周囲の「銀のペン」たちが一斉に動き、彼女を称える言葉を記録していく。
だが、ビアンの目には見えていた。その華やかな微笑みの裏に潜む、鉛筆で書かれたような「歪な本音」が。
(あなたが、父様を殺したの? それとも……)
ビアンは、懐の鉛筆の芯を、指の腹で強く押さえつけた。
これから始まるのは、単なる権力争いではない。銀のペンで記された「偽りの平和」を、命懸けの「下書き」で暴く戦いだ。
ビアンの瞳の奥で、6年前の雪山で凍りついた情熱が、静かに、だが激しく再燃し始めていた。




