第四回
第四回:氷下の慟哭
昇龍橋の崩落は、都の平穏を根底から揺るがした。
王宮の警備を担う捕校庁の従事官、ソ・ヨンギは、冷徹な眼差しで折れた橋の断面を見つめていた。彼の手に握られた「銀のペン」が、冬の薄い陽光を跳ね返す。
「残党どもは山へ逃げたか。記録を汚す『下書き』どもに、これ以上の猶予は与えぬ」
ヨンギが銀のペンを空中に走らせる。
「『逃亡路、霜を以て白日の下に晒せ』」
銀の文字が空気に溶け込むと、逃亡者たちが踏み荒らしたはずの山道が、不自然なほどの白光を放ち始めた。それは、どんな隠密術も通用しない、権力による「強制的な露見」だった。ヨンギは静かに、だが確実な足取りで、光の筋を辿り始めた。
山中、凍てつく風がビアンの頬を刃物のように切り裂く。
「誰だ……っ!」
枯れ木の陰で息を潜めていたのは、かつて父が世話を焼いていた少年、ケドラだった。彼は飢えと恐怖で震え、地面に落ちた鉛筆の削りかすを握りしめていた。
「ビアン……姉ちゃん、なのか?」
「ケドラ! 無事だったのね」
二人は手を取り合ったが、喜びは束の間だった。ケドラの身体は焼けるように熱く、それでいて肌は青白く凍りついている。
「寒いんだ。母ちゃんの歌が聞こえる……」
「ダメよ、寝ちゃダメ! 私と一緒に逃げるの。まだ、私たちの物語は終わっていないんだから」
ビアンは幼いケドラを背負い、膝まで埋まる雪を掻き分けた。鉛筆で地図の余白に「(下書き:この先に暖かな洞窟がある)」と記すが、極限状態の彼女には、それを具現化する気力も、消しゴムに支払う「代償」の記憶も、もうほとんど残っていなかった。
だが、運命は非情だった。
尾根を越えたところで、ビアンの前に「銀の光」を纏った一団が立ちふさがった。ソ・ヨンギだ。
「そこまでだ。記録に背く者よ」
ヨンギの声は、雪山を支配する静寂よりも冷たかった。彼はビアンが背負っている少年を一瞥し、眉一つ動かさずに銀のペンを構える。
「剣契の残党、およびその協力者と見なす。その身を縛る文字を綴らせてもらうぞ」
「待ってください!」
ビアンは叫び、雪の上に跪いた。冷気が膝から芯まで染み渡る。
「父は……チェ・ヒョウォンは無実です! 父は誰も殺していない。ただ、銀のペンで消された人たちを、鉛筆で繋ぎ止めていただけなんです!」
彼女は懐から、芯が折れかけた鉛筆を取り出し、それを突き出した。
「記録が正しいとは限らない! あなたたちが書いているのは、都合の良い『事実』だけで、そこにある『真実』を消しているじゃない!」
ヨンギの瞳に、微かな揺らぎが生じた。彼はかつて、ビアンの父・ヒョウォンと正義を語り合った日々を思い出していたのかもしれない。だが、彼は国家の守護者であり、記録の番人だった。
「言葉では世界は変わらぬ。真実を決めるのは、常に『清書』された記録のみだ」
ヨンギが銀のペンで一文字、虚空に刻もうとしたその時。
ビアンは消しゴムを手に取り、自分の震える右手を擦った。
「やめろ! 何をする気だ!」
ヨンギの制止も聞かず、彼女は自らの「幼少期の家」の風景を代償に捧げ、消しゴムの力を強引に引き出した。
「消えて……今のこの言葉を、『なかったこと』にさせないで!」
摩擦によって生じた熱が、周囲の雪を瞬時に蒸発させる。銀の文字が形を成す前に、ビアンが放った執念の「虚無」が、ヨンギの権能を打ち消そうと激突した。
白銀の世界が、眩い閃光に包まれる。
ビアンの意識が遠のく中、最後に耳に残ったのは、ケドラの弱々しい吐息と、ヨンギが漏らした「哀れな」という呟きだった。




