第三十七回
砂の叙事詩、永劫の石碑
イスタンブールで補給した絹と香料を積んだ船団は、ナイルの河口、アレクサンドリアの港へと滑り込んだ。
かつて世界最大の図書館が存在したこの地は、記録者にとってある種の聖地だ。だが、船を下りたビアンを待っていたのは歓迎の言葉ではなく、皮膚を焼く熱砂の洗礼だった。
(下書き:……何も、感じない。ただ、視界が白く爆ぜているだけ)
触覚を失ったビアンには、エジプトの暴力的な熱も、砂粒が肌を叩く痛みも届かない。世界は今や、視覚的な記号と鉛筆を通じて伝わる概念的な振動だけで構成された、極めて抽象的な空間へと変わり果てていた。
ピラミッドがそびえ立つギザの大地に入った瞬間、鉛筆が激しく震え出した。
(下書き:この砂漠……一粒一粒が、細かく砕かれた「過去の文字」だわ)
舞い上がる砂塵が、数千年の時を経て分解された法の破片に見える。砂漠が揺らめくのは熱のせいではない。膨大な記録が積み重なり、現実の記述が飽和して引き起こされた記録の蜃気楼だ。
スフィンクスの足元で、船団は奇妙な隠者たちに包囲された。「パピルスの神官」を自称する彼らは、手に石を削るための黒いノミを握っていた。
「北の国の迷い子よ。お前は感覚を捨ててまで、何を書こうというのか。石に刻まれた永遠は、お前の鉛筆のような一時的な下書きを拒絶する」
神官たちがノミを振るうと、周囲の砂が瞬時に固まり、巨大な石壁がビアンを閉じ込めた。一度書かれた運命は二度と変えられないという、エジプト特有の決定論的な銀律だ。
豊山犬が石壁の隙間を嗅ぎ回り、一点で足を止めた。
「永遠など、この世には存在しません。石さえも、いつかは風に削られ、砂に還る下書きの一部です!」
もはや握っている感覚さえない右手に力を込め、鉛筆の先を石壁の堆積の継ぎ目に突き立てた。
キュリ、キュリ……!
代償として剥がれ落ちたのは、母の慈しむような眼差しと、家族で囲んだ食卓の風景。視覚的な思い出のすべてが消え去った。
ビアンの視界から色彩が完全に失われ、世界は白と黒の情報の線のみとなった。だがその代わりに見えたのは、神官たちの石壁を支えるたった一点の不純物だった。
鉛筆でそこを叩くと、数千年不変と思われた石壁が、音もなく砂へと崩れ去った。
(下書き:……ああ、世界がこんなにも、透き通って見える)
思い出を失い、感情の拠り所を捨てたビアン。瞳には美しさを判断する基準さえ残っていない。ただ真実の構造だけが、冷徹に映し出されていた。
砂塵が晴れた後、崩れた石壁の中から古い香辛料の瓶が現れた。かつてファラオが死後の旅路のために用意した、時間を凍結させるスパイス――『アヌビスの吐息』。
完全に「記録の化身」へと成り果てたビアンと共に、船団は紅海へと続く砂の海を進み始めた。




