第三十六回
紅髭の契約、砂漠のインク
インドの海岸線が遠ざかり、深い群青の外洋へと滑り出した船団の前に、夕焼けよりも赤い帆を翻す一隻のガレオン船が現れた。
地中海の覇者、バルバロッサ商会の旗艦『スカーレット・レター号』だ。彼らは銀のペンとも鉛筆とも異なる、粘り気のある「紅のインク」で海の掟を書き換える者たちだった。
(下書き:この船の周囲だけ、潮の匂いが「鉄」の記述に変わっている)
嗅覚を失ったビアンにとって、それは鼻を突く匂いではなく、皮膚をチクチクと刺すような鋭利な情報の波だった。
渡り板を通り、一人の男が『清風号』に降り立った。赤紫色の重厚なコートを纏い、腰にはペンと剣を一体化させたような奇妙な武具を下げている。商会の代理人、ハイレッディンだ。
「北の記録官よ。お前たちの巨人の残り火、その独占販売権を我が商会に譲れ。代わりに、喜望峰を越えるための不沈の記録を授けよう」
差し出されたのは薄く叩き延ばされた銅板の契約書だった。紅のインクで記された文字は、一度書けば決して消えず、書き手の意志を強制的に執行する呪縛の契約だ。
ビアンは鉛筆の先でそっと叩いた。
(下書き:表面には「協力」と書かれているが、裏側の層に「吸収」の記述が隠されている)
この契約に署名すれば、船団はバルバロッサの所有物として上書きされ、朝鮮への帰還という目的さえも商業記録の中に消し込まれてしまう。
「協力の言葉は感謝します。ですが、私の鉛筆は自由な下書きのためにあります。誰かの所有物として清書されるためのものではありません」
銅板の中心に否定の線を引いた瞬間、紅のインクが逆流し、ハイレッディンの手元で火花を散らした。
「……交渉決裂だな。ならば、そのスパイスごと海の藻屑として削除してやろう!」
腰の剣を抜くと、周囲の空間が真っ赤なインクに染まったような錯覚に陥った。現実の距離感を狂わせる攻撃だ。足元では豊山犬が低く唸り、赤い光の中で四肢を踏ん張った。
ビアンは最後の一欠片となった消しゴムを握りしめた。
キュリ、キュリ……!
代償として剥がれ落ちたのは、絹の衣の滑らかさ、誰かと手を繋いだ時の体温――触覚の記憶がすべて消え去った。引き換えに、赤というノイズが視界から消え、ハイレッディンの剣の軌道が冷徹な一点の綻びとして浮かび上がった。
ビアンが鉛筆を突き出すと、紅の剣が真っ二つに折れた。
「触覚さえ持たぬ者に、我が商会の熱が通用せぬというのか……!?」
バルバロッサの船は即座に距離を取った。勝てぬ相手にコストを払わない、商売人の合理だ。
ビアンは、鉛筆を握っていることさえ感じられなくなった右腕を見つめた。色は薄れ、味は消え、音は響かず、香りは失われ、今は風の冷たささえ感じない。
(下書き:世界は、こんなにも遠くなってしまった)
五感を一つずつ切り売りしながら、船団はアフリカ南端、真の地獄と呼ばれる喜望峰へと向かっていた。彼女に残された人間としての記憶は、もう数えるほどしかなかった。




