第三十四回
硝煙の筆跡、沈まぬ方舟
ベンガル湾を西へと進む船団の前に、国旗も掲げず黒いインクを塗り潰したような帆を持つ三隻の快速船が現れた。法を持たない。ただ奪い、焼き、記録を無に帰すことだけを目的とする、海の消しゴム――海賊たちだ。
(下書き:彼らの進路は、獲物の「未来」を断ち切るために描かれている)
ビアンが鉛筆を構える間もなく、海賊船の舷側が火を噴いた。
ドォォォォォンッ!
旗艦『清風号』の右舷に衝撃が走り、砲弾が外板を突き破る。船腹に空いた巨大な穴は、船という完結した物語に生じた修正不能な脱字だった。放置すれば、二百人の命という頁がここで破り捨てられる。
ビアンは浸水する船底へと駆け下りた。逆巻く海水の中で、鉛筆の先を砕けた木材の断面に突き立てる。
(下書き:この穴は、まだ塞がることを拒んでいない。壊れた場所の「意志」を繋ぎ合わせる……!)
浸水箇所を囲むように複雑な幾何学模様を描いた。物理的な修理ではない。船体が持っていた完全な姿の記録を、一時的に下書きとして復元する行為だ。流れる水が、描いた線の前で目に見えない壁に阻まれたように止まった。その隙にジョンチョルら工作兵が板を打ち付け、穴を塞いでいく。
だが海賊の砲撃は止まない。ビアンは甲板に駆け上がり、敵船の火薬庫の綻びを見据えた。
「消えて……私たちの航路を邪魔する、無意味な暴力!」
キュリ、キュリ……!
これまでにない喪失感が襲った。剥がれ落ちたのは、雨上がりの土の匂い、煎じ薬の苦い香り――嗅覚の記憶がすべて消え去った。豊山犬がビアンの手に鼻を押し当てたが、その温もりさえも、今の彼女には情報としてしか届かない。
引き換えに放たれた消去の波動が海を走り、先頭の海賊船を直撃した。火薬庫が大爆発を起こし、海賊たちは自ら撒き散らした硝煙の中に沈んでいった。
夕闇が迫る中、船団は再び西へと進み始めた。ビアンは甲板で潮風を吸い込んだ。だが潮の香りも、火薬の残り香も、仲間たちの汗の匂いも、何もしない。世界はただ無機質な情報の集積へと成り下がっていた。
(下書き:私は……もう、花の香りを思い出すこともできないのね)
視覚の色を失い、味を忘れ、音を雑音に変え、今また香りを捧げた。
満身創痍の船団は、ついにインドの海岸線を捉えた。香辛料の聖地。皮肉にも、香りを失った記録者が、最も香る大地へと辿り着いたのだ。




