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『刻印の乙女 〜備案(ビアン)の書〜』  作者: 水前寺鯉太郎
ビアン旅行記

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第三十三回

翠玉の休息、錫の沈黙


 船団がプーケットの湾内に入ると、鏡のような海面が広がっていた。海底の白砂が透けて見え、色を失いつつあるビアンの瞳にも、その透明な輝きだけは強烈な光として突き刺さる。

(下書き:この海には、嘘を飲み込むほどの深すぎる「余白」がある)

 久しぶりに安定した大地を踏みしめた。マラッカで見た銀の影の通訳は逃げ去ったが、その不気味な筆跡の残響は、まだこの南国の風の中に微かに混じっていた。

 プーケットの街は、錫の採掘で活気に満ちていた。この地の人々は、錫を「銀に成り損ねた未完の金属」として大切に扱っている。市場で、現地の職人が錫の板に細かな模様を刻んでいた。

「旅の人よ。錫は銀のように輝くことはないが、一度刻んだ記録は決して自分から裏切ることはないのだよ」

 ビアンは自らの鉛筆を重ねた。銀のペンによる完成された清書が世界を支配しようとする中で、この地の未完の記録は、どこか懐かしく心強いものに感じられた。

 補給を待つ間、ヨンギが地元で獲れた新鮮な果実をビアンに差し出した。だが、口に運んでも、眉一つ動かさなかった。

「……味が、しません。ヨンギ様」

 代償は、気づかぬうちに進行していた。マラッカで音楽を捨て、今度は故郷で食べたハチミツの甘さの記憶が剥がれ落ちていた。足元で豊山犬が鼻先を果実に押し当て、ビアンの手をそっと舐めた。

(下書き:私の感覚は、世界を記録するための「冷徹な刃」へと変わり果てていく)

 感情を削ぎ落とし、ただ事実のみを抽出する装置。ビアンは、自分が徐々に「人間」から「記録計」へと書き換えられている恐怖を、鉛筆の芯を強く握ることで押し殺した。

 その夜、職人からもらった錫の鏡を覗き込んだ。暗い水面のような鏡の中に、自分の顔ではない誰かの筆跡が一瞬浮かび上がる。銀の仮面を被り、ハニャンの宮廷で見たことのある、ある高官の署名によく似ていた。

「……まさか、王様が送ったのは私たちだけじゃない?」

 粛宗の銀筆が描いた世界一周という壮大な計画。その裏側に、最初から別の清書が重ねられていたのではないか。

 ビアンは鉛筆で錫の鏡に一本の縦線を引いた。鏡が二つに割れ、その断面から、次の航路であるベンガル湾へ向かうための「血塗られた海図」が零れ落ちた。

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