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『刻印の乙女 〜備案(ビアン)の書〜』  作者: 水前寺鯉太郎
ビアン旅行記

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第三十回

巨人の咆哮、銀の呪縛


 氷の吐息が白く煙る中、ビアンは巨人の首筋に刻まれた不気味な光を見つめていた。粛宗が振るう王の銀筆のような威厳ある輝きではない。寄生虫のように皮膚に食い込み、生命の拍動を吸い取って命令を書き込む、呪いの筆跡だった。

(下書き:この記録は、彼らの意志を奪い、この極寒の地に縛り付けている)

 鉛筆の先でその光に触れると、指先を焼くような拒絶の振動が伝わった。長老は苦しげに目を閉じ、地鳴りのような低い呻きを漏らす。文字にできない「助けてくれ」という叫びが、鉛筆を伝って心に響いた。

「淑媛様、おやめください! 底知れぬ悪意で綴られた記録です!」

 ヨンギが刀を構え、周囲を警戒する。集落の影から、銀の仮面を被った使徒たちが音もなく現れていた。巨人を「生ける城塞」として清書し、世界の果てで何かを隠蔽しようとしていた者たちだ。

「下書きを信じる者が、目の前の苦しみを記録から外すわけにはいきません」

 ビアンは指先ほどになった消しゴムを取り出した。足元で豊山犬が唸り声を上げ、使徒たちを睨みつける。

 キュリ、キュリ……!

 代償として剥がれ落ちたのは、都の冬に恋しかったオンドルの温もりの記憶だった。暖かさという感覚の輪郭が消え、凍えるような寒さだけが世界の正解として上書きされていく。

「消えて……偽りの主従、歪な支配の記録……!」

 ビアンの執念が、銀の文字を食い破った。パリンという硬い筆跡が砕ける音が響き、長老が大きく目を見開いた。

「オォォォォォォォ……ッ!!」

 咆哮が雲を散らし、氷壁を震わせた。呪縛から解放された長老は立ち上がり、流木の棍棒を使徒たちへと振り下ろした。

「記録が……我らの完璧な聖域が、書き換えられただと……!?」

 仮面の使徒たちが光の中に消えていく。長老はビアンを見下ろし、巨大な掌を差し出した。その中には、血のように赤い香辛料の種が握られていた。

(下書き:これは、ただのスパイスじゃない。世界の「温度」を書き換えるための種だ)

 暖かさを忘れた冷たい手で、ビアンはその赤い種を受け取った。長老は彼女たちを背に乗せ、吹雪の向こう側、誰も知らない南の果ての航路へと歩き出した。

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